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2010年2月

2010年2月18日 (木)

新田一族の悲劇

 1336年の湊川の合戦は足利尊氏の覇権が確立したのと同時に、南朝衰退の始まりでもありました。敗走する新田軍の後を追うように京に入った足利軍は、再び都を制圧します。後醍醐天皇を奉じた宮方は比叡山に籠もるしかありませんでした。

 後醍醐天皇は秘かに足利方と和議を進めようと画策します。その動きを察知した義貞一族の堀口貞満は、怒り奏上しました。
「我らがこれまで忠節を尽くしてきたのを見捨てて足利に降伏なされるのなら、義貞以下一族全員の首を刎ねてからにしていただきたい」
 一時降伏の動きは阻止されました。しかし、これにより新田義貞は後醍醐天皇により、しだいに疎ましい存在になります。
 
 後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り、尊良親王を義貞に委任することで官軍の体をつくり、自らは足利軍に降伏します。実際は体よく追っ払われた形でしたが、義貞は両親王を奉じて越前金ヶ崎城に籠城しました。降伏した後醍醐天皇は、足利方の圧迫に耐え切れず、結局大和国吉野に脱出して南朝を開くのですが哀れなのは義貞でした。

 金ヶ崎城には、高師泰・斯波高経に率いられた足利方の大軍が押し寄せます。新田軍は奮戦しますが衆寡敵せず1337年落城しました。尊良親王と義貞の嫡男義顕は自害、恒良親王は捕らえられて京に送られます。義貞は弟脇屋義助とともにかろうじて包囲を脱出、越前に落ちました。

 越前守護に任ぜられた斯波高経は執拗に義貞を付け狙います。しかし同年秋には勢いを盛り返し新田軍は鯖江合戦で斯波高経を撃破、越前府中を占領しました。1338年、北朝方の平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻撃している味方を督戦するため、義貞は同地に向かいます。ところがその途中、敵の待ち伏せにあって眉間に矢を受け絶命しました。享年三十八歳。
 義貞の哀れさは、天下の趨勢とは何の関係もない地方での攻防で、家格が高い一族とはいえ足利氏の家来にすぎない斯波高経に殺されたことにあります。その死は、彼の息子、孫たちの行く末を暗示していました。

 新田氏は義貞の三男、義宗が後を継ぎます。越後の新田一族に匿われて育った義宗は幕府内で尊氏と直義の対立である観応の擾乱に乗じて1352年、上野国で挙兵しました。このとき北条氏の遺児である北条時行も参加します。鎌倉幕府滅亡の加害者と被害者の連合は皮肉でしたが、足利氏という共通の敵のために立ち上がったものでした。
 武蔵国金井で足利軍に勝利した南朝方は、再び鎌倉を奪取します。が長くは続きませんでした。鎌倉公方足利基氏(尊氏次男)は、父尊氏の軍と合流し反撃に転じます。鎌倉を放棄した義宗は越後に逃亡しました。北条時行は捕らえられ斬られます。

 1358年、尊氏の死を受けて再び越後で挙兵しますが、異母兄義興は武蔵矢口渡で謀殺され自身も上野国沼田荘で1368年戦死しました。その子、貞方は陸奥南朝の拠点であった霊山に赴きます。そこで成長した貞方は息子貞邦と共に伊達氏と協力して、北朝方の芦名氏・相馬氏と戦いました。一時奥州で勢力を張った貞方でしたが南北朝合一が成されます。

 これに不満を持った貞方は、秘かに関東の旧南朝方に書状を送り決起を促します。しかし戦いに疲れた諸将の一人から鎌倉府に通報されました。貞方父子は鎌倉府侍所千葉兼胤に捕らわれます。
 1409年、祖父ゆかりの鎌倉七里ケ浜において嫡男貞邦とともに処刑され、ここに清和源氏の名門、新田氏嫡流は完全に滅びました。

「四条畷の合戦」 - 大楠公の遺児、楠木正行最期の戦い -

 太平記のクライマックス、湊川の合戦に向かう楠木正成が死を覚悟して、嫡子正行(まさつら)と桜井の駅での別れる場面は、読む人に涙を誘います。このとき正行はわずか十一歳でした。

 父正成は湊川で戦死、仇敵足利尊氏はこの悲劇の英雄の死を悼み遺骸を丁重に妻子のもとに送り届けます。これを見た正行は発作的に自害しようとしたと伝えられますが、母の必死の諫めを受け思いとどまりました。
 
 それから十年あまり、楠木一族は所領のある河内で雌伏の時を過ごします。時代は懐良親王の征西府大宰府政権という例外はありましたが、北朝足利幕府の伸張の前に、南朝勢力は劣勢を強いられていました。

 時に正平二年(1347年)八月十日、二十三歳の若武者に成長していた正行はついに兵を挙げます。太平記では、この年が父正成の十三回忌に当たっていたからだと説明していますが、客観的な情勢として足利幕府内で尊氏の弟直義と、権臣高師直の対立が先鋭化し混乱していたことが大きな理由だったと思います。

 楠木軍は三千騎、おそらく全軍でしょう。住吉・天王寺に進出、あわてた幕府は細川顕氏にこれを迎え討たせますが、河内池尻で敗北します。正行はさらに藤井寺でも父譲りの奇襲戦法で、細川軍を散々に撃ち破りました。
 
 楠木軍は破竹の勢いで攻め上ります。事態を憂慮した幕府は高師直に六万の大軍(資料によっては八万)を与えて楠木軍に当たらせます。
 両軍は四条畷でぶつかりました。正平三年正月五日のことです。正行はすでに死を覚悟していました。大軍の前には少々の奇襲戦法など何の役にもたたないと悟っていたのです。彼は父の武名に恥じない戦い、それだけを念頭において合戦に挑みました。
 早朝から始まった戦いは、劣勢の楠木軍が真っ向からぶつかり一進一退の激戦となりました。捨て身の楠木軍はついに敵将、高師直の本陣に肉薄します。あと一息で師直を討ち取るところまでいきましたが、家来が身代わりとなって戦死、師直は遁走しました。

 しかし、楠木軍の攻勢はこれまででした。戦いはすでに夕刻になっていました。楠木軍の兵で傷を負っていない者は一人もいませんでした。
 もはやこれまでと覚悟した正行は、弟正時と刺し違えて自決します。その遺骸の上には三十二人の兵が後を追って折り重なって自害したといいます。

 北朝側は、正行敗死の報をうけて、ようやく安堵したそうです。楠木軍がいかに北朝方から恐れられていたか、これで証明されます。ただ、楠木軍だけの力では、北朝優位の流れは一時せき止める事はできても、流れを変えるほどの力はありませんでした。

 この後、楠木氏は弟の正儀が継ぎますが、一時強勢になったものの振るわず、正儀以後は何度か挙兵しそのたびに鎮圧されました。そして足利幕府が全国を制圧していくのと反比例するように挙兵の規模は小さくなっていきます。
 
 最後は、伊勢に勢力を持った北畠氏を頼って落ちていったとも、自然消滅したとも伝えられています。残党は諸国に散っていったことでしょう。その行方は今や掴む事はできません

帰雲城と内ヶ島氏 - 地震によって一夜にして滅びた城 -

  合掌造りの家で有名な世界文化遺産、岐阜県白川郷。この地方は埋蔵金マニアの間でも有名です。1585年、天正大地震(マグネチュード7・8)による大規模な山崩れで一夜にして滅びた帰雲城の伝説です。

 飛騨国は地図で見ると分かるとおり山地がほとんどで、平地はわずかです。一国の生産高も四万石少々と貧しい土地でした。しかし、飛騨西北部白川郷一帯を領した内ヶ島氏は120年に渡って繁栄し、本拠帰雲城は城下3百軒と称されるほどでした。
 米のほとんど取れないこの地で繁栄した理由は、金でした。内ヶ島氏は領内に複数の金山を保有し伝説では安土城で使われた黄金も白川郷産だと言われています。

 内ヶ島氏は、寛政年間(1460年~66年)に八代将軍足利義政の命で信州松代から入部し、白川郷一帯を領したと伝えられます。出自は楠木正成の後裔とも、武蔵七党岡部氏一族とも言われはっきりしていません。ただ幕府奉公衆だったことは間違いなさそうです。

 面白い説があって、この内ヶ島氏は武士ではなく、鉱山師集団ではなかったかと主張する研究家がいます。といいますのも、金山を開発するのには特殊な技術がいり、専門家でないと手に負えないそうなのです。幕府の命で、飛騨白川郷の金山を開発するために派遣された技術者集団、そう見ると納得する事実があります。

 1585年、豊臣秀吉の命を受けた金森長近は2千余の兵力で飛騨に侵攻します。飛騨は統一した勢力はなく旗頭の三木(姉小路)氏は金森勢にあっというまに滅ぼされます。しかし内ヶ島氏は降伏を許され本領安堵されました。おそらく金山をもっていたため、滅ぼすより支配して金を献上させるほうが得策と判断されたのでしょう。内ヶ島氏が特殊技術をもっていたためでした。

 未曾有の国難を上手く乗り切って生き残った内ヶ島氏は、伝説ではその日酒宴の真っ最中だったそうです。しかし、巨大地震が発生、背後の帰雲山が山崩れを起こします。2枚目の写真はその生々しい傷跡です。大量の土砂は一瞬にして城と城下町を飲み込みました。

 数百億とも言われる黄金とともに埋没した帰雲城。場所はいまだ特定されていませんが誰か掘ってみませんか?莫大な財宝を手に入れることができるかもしれませんよ。ただし千体を越す人骨とともにですが…。私は恐ろしくてできません。

湊川の合戦にはたして宮方の勝機はあったか?

 私鳳山は歴史のIFを考えるのが三度の飯より好きです。いろんな歴史の場面でこうすれば勝てたんじゃないかと想像すると楽しくて仕方がありません。作家の柘植久慶氏もそれが好きらしく、逆撃シリーズなどで書かれているので、私も愛読しています。

 その中の一つ、建武三年(1336年)に現神戸市で戦われた足利尊氏と宮方の決戦、湊川の合戦は私が楠木正成贔屓なだけに残念な戦いでした。どうやったら勝てたか考える前に、簡単に状況を振り返ってみましょう。

 関東で新田義貞の追討軍を破った足利尊氏は、新田軍を追うように京都に入ります。しかし、宮方は京都防衛に固執せずあっさり明け渡しました。そして京に入る交通路を閉ざしたために足利軍は補給に苦しみます。さらに奥州にいた北畠顕家が大軍を率いて来襲したため、京を支えきれず捲土重来を期してひとまず九州に落ち延びました。
 それもただ敗走したわけではなく、後光厳上皇の院宣を賜り後醍醐天皇とは別の官軍としての体裁をとりました。いわゆる南北朝の始まりです。そして播磨の赤松円心を白旗城に籠もらせ時間稼ぎをさせます。
 その間に九州で勢力を回復した尊氏は海陸五十万騎と号する大軍で上洛の途につきます。五十万という数は当時の日本の人口からいってありえないので、想像ですが実数5~6万というところでしょうか。
 それにしてもかなりの大軍だったということは間違いないでしょう。

 その間、宮方は迷走しています。宮方の大将、新田義貞は赤松円心の術中にまんまとはまり、播磨に釘付けでした。貴重な時間を空費したのです。

 足利軍は水軍を尊氏、陸軍を弟の直義が率いていました。京都では楠木正成が宮方の不利を悟りいったん京都を明け渡してから、前回のように四境を閉ざして兵糧攻めにするよう献策します。しかし後醍醐側近の戦を知らない青公卿から「二度も京を明け渡すのはどうしたものか?」という愚にも付かないくだらない意見を出され、正成案は廃されました。
 死を覚悟した正成は、息子正行と桜井の駅で別れを告げ湊川の戦場に向かいます。

 こうしてわずか700騎の楠木勢は、足利の大軍のまえに獅子奮迅の活躍をみせ、ついに自刃してはてます。新田義貞はどうしていたかというと、後方でマゴマゴしている間に、細川定禅率いる四国水軍が後方の生田の森に上陸したため、背後を断たれることをおそれ背走しました。

 こうしてみてくると、宮方の逆転は不可能のように思えます。大将の新田義貞の凡将ぶりはあきれるばかりです。では、どの時点だったら可能だったんでしょうか?

 私は、尊氏が京を追われた直後がその時だったと思います。尊氏追い落としの最大の功労者、北畠顕家は京に止まることなく、奥州に反乱が起こったためすぐさま戻っているのです。私は南朝軍の総大将の器は彼しかなかったように思います。なぜ、南朝方は顕家を奥州に戻したのでしょう?
 奥州の反乱に新田義貞を派遣し(厄介払いともいえます)、顕家を征夷大将軍にすれば、もっと違う戦い方もできたんじゃないでしょうか?北畠氏は村上源氏なので、任官できたはずですから。

 そんな戦略眼を後醍醐天皇とその側近たちに求めるのは酷でしょう。あの建武の新政における統治能力のなさが証明しています。宮方に征夷大将軍にたいするアレルギーがあったのは事実です。しかし勝つためには武家勢力を味方に付けなければなりません。その点顕家なら武勇の点でも知略の点でも申し分ない人材でした。義貞は鎮守府将軍かなんかに適当に任官させておけばよいのです。

 もっとも、足利尊氏を滅ぼすことができても、宮方の政権は早晩瓦解したと思います。武士の支持を得ないことには政権がもたないからです。そんな現実が見えず、大義名分論などと寝ぼけた事を言っている間は天下の支配など不可能でしょうね。聡明な正成は、現実を認識していたからこそ自殺ともいえる戦いに赴いたのだと思います。

 結論から言えば、どちらにしろ宮方の逆転は大変難しいし、逆転できても政権維持はできなかったと言えるかもしれません。

姉川の合戦の謎

 私鳳山が長年疑問に思っている事がいくつかあります。そのうちの一つ、織田信長三大合戦の一つ、姉川の戦いについてです。

 桶狭間(田楽狭間)の合戦は、信長の雄飛を決定付けた戦い、長篠(設楽が原)の合戦は信長の覇権を決定付けた戦いだったと捉えているんですが、この姉川の合戦の歴史的意味がいまいち不明なんです。
 経過を簡単に紹介すると、金ヶ崎の退陣から回復した織田信長が浅井・朝倉連合軍と雌雄を決するために琵琶湖東岸姉川の地で戦いました。
 元亀元年(1570年)6月28日(旧暦)のことです。両軍の兵力は織田軍2万3千、援軍の徳川軍5千。一方朝倉軍一万、浅井軍8千でした。(兵力は諸説あり)

 戦いは姉川北岸に布陣した浅井・朝倉連合軍が緒戦押し捲り、13段あった織田軍の構えを11段破ったほどでした。しかし徳川軍の強襲渡河攻撃と、横山城包囲から援軍に駆けつけた稲葉一鉄ら美濃衆の横槍でからくも踏ん張り、押し返す事に成功します。結果は織田・徳川軍の圧勝に終わりました。

 この結果、浅井・朝倉軍は甚大な被害を受け二度と立ち上がれなくなったと歴史書には書かれています。ところが、その3ヵ月後には浅井・朝倉軍は近江坂本に侵攻、織田家の宿将森可成の籠もる坂本城を落としているのです。その後比叡山に立てこもって織田軍とにらみ合います。(志賀の陣)
 これには、さすがの信長も困って朝廷を動かしやっと講和する始末でした。元亀三年(1573年)の信玄上洛戦の折も、朝倉義景は二万の兵を率いて近江に出陣しています。

 こうなると、姉川の合戦で本当に被害を受けたのか疑問に思います。むしろ秀吉らによる浅井氏重臣への調略で内部がガタガタになったことが浅井氏滅亡の主因であり、朝倉氏に対しては信玄没後の、信長の電撃的な越前侵攻が崩壊の原因ではないかと考えます。
 いろいろ調べてみると、姉川の合戦は後に天下をとった徳川氏が自分の武勇を示すために脚色した可能性が高いのではないでしょうか。織田軍を押し捲った浅井氏の活躍も、浅井氏の血が流れる(お市の方の三女お督(ごう)は2代将軍秀忠の正室、三代家光の母)将軍家にとって都合のよい話ですし。

 姉川の合戦は、巷で言われるほど激しい戦いではなく、痛みわけかひょっとすると織田軍の敗北だった可能性もあるのではないでしょうか。そこまで言うと言いすぎですが、姉川の合戦は歴史で言われるほど重要な戦いではなかったように思います。

名君 北条泰時

 河井敦著「日本を変えた44人の改革者」(学研)という良書があります。日本史上改革を目指した44人にスポットをあてて、成功と失敗を理由を挙げて考察しています。
 そのなかで、私が面白いと思ったのは鎌倉幕府第三代執権、北条泰時でした。彼は父義時の影に隠れてあまり目立たない存在だったからです。

 北条泰時は父と違い、清廉な人柄だったようです。父義時が幕府の権力を握るために、畠山重忠、和田義盛ら幕府草創期の重臣を罠にかけて、次々と滅ぼしていった手法とちがい、それまでの独裁から御家人たちの合議制を採用したのも泰時でした。

 彼の人柄がよく現れているエピソードがあります。1221年後鳥羽上皇が幕府に対して起こした反乱「承久の変」で泰時は寄せ手の大将に選ばれました。泰時はどうしても上皇と戦うのに抵抗があったと見え、出立したもののすぐ鎌倉に戻って、執権であった父義時に尋ねます。
「もし、後鳥羽上皇がみずから軍を率いてきたなら、私はどうすればよろしいですか?」
それに対して義時はこう答えたといいます。
「上皇が出馬されたら、兜を脱ぎ弓の弦を切ってすぐ降伏せよ。しかしそうでなければ、敵を叩き潰せ」
義時は上皇が出馬するはずがないと読んでいました。これを聞いてやっと泰時は納得し、京に向かったそうです。

 戦は圧倒的な力で幕府軍が勝利しますが、戦に関わった後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を島流しにし、時の仲恭天皇を廃するという義時の過酷な処置を、泰時は終生気に病んだそうです。政治的リアリスト義時と、理想主義者泰時の違いでしょう。
 父の死後、三代執権に就任すると泰時は兄弟たちを大事にし父の遺領もことごとく彼らに与えました。特に義時の後妻伊賀氏の子である政村は、泰時相続のとき伊賀氏を中心とする反乱勢力に担がれようとしましたが、そんな事は気にせず重用したそうです。一族の団結を重視した泰時の態度に、彼らはいっそうの忠誠を誓いました。

 泰時は御成敗式目を定めます。これは以後、武士の基本法となるほど画期的なものでした。この一点だけでも泰時を歴史的に評価しても良いと思います。彼が為政者であった20年間は、御家人たちの支持を受け安泰であったといわれています。1230年の飢饉のときも、自領の富者に米を放出させて農民に貸し出すとともに、返済できない時は自分が弁済するとまで言ったそうです。また質素な生活を心がけ、慎ましい食生活をおくったといいます。
 誠実な人柄だったのでしょう。泰時の代に、鎌倉幕府の支配体制が完全に固まりました。

徳川家茂と皇女和宮

 前に最悪の将軍として五代綱吉を挙げましたので、私が最も好きな十四代家茂(いえもち)を書きます。
 徳川十三代、家定が亡くなると時期将軍候補として紀州慶福(よしとみ)と一橋慶喜があがりました。時の大老井伊直弼は、政敵水戸斉昭の実子である一橋慶喜を嫌い、慶福を推しました。慶福は名を家茂と改め徳川十四代将軍に就任します。1858年、家茂はわずか13歳でした。

 1860年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されます。幕府はこの難局を乗り切るため公武合体を画策しました。家茂の正室として孝明天皇の妹君、和宮の降嫁を願い出たのです。このとき和宮は有栖川宮家の熾仁親王との婚約がなり、婚儀もまもなくという時期でした。初めは拒否していた和宮でしたが、対応に苦慮する兄孝明天皇を見かねて、泣く泣く江戸に下る事を承知します。

 1862年、家茂と和宮の婚儀は整いました。十三代家定未亡人で薩摩からきた天璋院との不和が巻き起こります。それぞれ数百人のお付の者を従えたため大奥は緊張しました。しかし、唯一の救いは同い年の夫、家茂でした。聡明で心根の優しい家茂は、和宮の胸中を慮り、優しく接しました。政略結婚ではありましたが和宮は、しだいに家茂を愛するようになります。

 ここに微笑ましいエピソードがあります。ある日家茂が庭に出ようとすると草履が乱れていました。それを見た和宮は、とっさに裸足のまま庭へ降り、草履を調えます。これにはお付きの女官たちも驚いたそうです。それだけ家茂を愛していたということでしょう。

 家茂は、勝海舟と佐倉順天堂で有名な蘭医佐藤泰然の実子で御典医松本家に養子に入った松本良順を特に愛したといいます。どちらも直言の士で、欲のない大義を重んずる人物です。聡明な家茂は、私利私欲のない二人だからこそ信頼したのでしょう。
 勝も家茂を深く慕ったそうです。後年家茂を偲ぶ時は涙を浮かべたと言います。一方、松本良順が最後まで幕府に従い、奥州、箱館(函館)と軍医として参戦し、幕府に殉じたのも、このときの知遇があったればこそでしょう。

 家茂と和宮、若き夫婦の安穏の時間はわずかでした。時代は激動のうねりとなって二人に襲い掛かります。禁門の変、そして長州征伐、和宮を江戸に残し、将軍家茂は大坂城に入ります。しかしそこで病に倒れました。和宮は、心配し医者を送ったり、お百度参りをして病気平癒を祈りました。しかし、和宮の献身もむなしく、家茂は二十一歳の短い生涯を終えます。1866年のことです。わずか4年半の結婚生活でした。

 和宮に形見の西陣織が渡されます。家茂が出立する時「お土産は何が良い?」といわれて「西陣織を」と願ったまさにそれでした。和宮は西陣織を抱きしめると、奥に入り突っ伏して号泣したそうです。

 朝廷は、和宮に京に帰るよう勧めました。しかし、和宮はこれを拒否します。最愛の夫の菩提をともらうため髪をおろし静寛院宮となりました。1867年12月兄孝明天皇も崩御します。

 時代はおおきく動いていました。1868年徳川家は朝敵となり、征討軍が派遣されました。皮肉にも征討都督は、かっての婚約者、熾仁親王でした。和宮は運命の非情を嘆いたことでしょう。しかし、彼女は気丈にも徳川家と運命を共にする事を決意します。徳川家の家名存続と、江戸を戦火から救うため必死の嘆願をしました。江戸無血開城の影には、彼女の努力があったことを忘れてはなりません。

 1877年、和宮は病気療養のため箱根に滞在していました。その地で時代に翻弄された波乱の生涯を終えます。三十二歳でした。

 遺言によって、最愛の夫家茂の傍らに葬られます。二人はようやく安住の地を得たのです。

稀代の悪法「生類憐れみの令」

 江戸時代、京の八百屋の娘お辰は、庶民に希な美貌で公家六条有純邸に奉公に上がる事となりました。
 有純の娘お梅が春日の局に望まれて将軍家光の側室として大奥に上がる事となり、お辰もこれに従って江戸に下ります。
 ところが主家の姫の供であったお辰が、何の因果か姫君を差し置いて家光の寵愛を受けるようになるのですから運命は分かりません。よほど美しかったのでしょうが、家光の子を身ごもり、側室「お玉の方」として権勢を振るうようになります。1646年お玉は無事男子を出産しました。徳松と名付けられた赤ん坊こそ、後の五代将軍綱吉です。

 庶民から大出世して将軍の側室となり、子が五代将軍となるのですから、お玉(家光の死後剃髪して桂昌院)が信心深くなるのも止むを得ません。親孝行な綱吉もその影響を受けていました。
 そこへつけこんだのが稀代の悪僧亮賢や隆光らでした。綱吉親子に取り入り、「お世継ぎが生まれないのは殺生を慎まないからだ」としたり顔で進言します。これが稀代の悪法といわれる「生類憐みの令」の始まりでした。

 綱吉も初めは良い政治を行っていたのですが、母に頭が上がらなかったのでしょう。母の勧めでこの悪法を布告します。綱吉とはどういう人物だったのでしょうか?儒学を学び、将軍になるまえ館林藩主のころは名君と讃えられていました。ゆえに子のない兄家綱の跡を継いで将軍に選ばれたのです。
 しかし私は、綱吉は儒学の上っ面だけをなでて、真の学問を学ばなかったのではと考えます。でなければ「生類憐みの令」などという法律が、どのように運用されるか予想がつくはずです。殺生を慎むというなら、まず自分からそれを行い、手本を見せて自然に周囲が学ぶという姿勢をとるはずです。それができなかったからこそ、徳川十五代最悪の暗君として後世指弾されることとなりました。

 城内の井戸に猫が落ちて死に、その責任を取らされて台所頭が遠島になり、犬を殺した罪で俸禄召し上げ、中には死罪となった武士もいました。殺生を戒めるなら人間こそ第一のはずなのに支離滅裂です。子供の病気に燕が効くといわれ、それを射た者が死刑、子供は追放されました。庶民にもその害は及びます。魚や卵を食す事が禁じられシジミ売りの一家が困窮して一家心中にまで追い込まれました。
 あまりの悪法ぶりにたまりかねた水戸光圀(水戸黄門)が、わざと犬の皮20枚を献上して諌めましたが効果はありませんでした。水戸光圀だから助かりましたが、他のものなら綱吉の怒りを買い死罪になるところでした。

 側用人として仕えた柳沢吉保も奸臣で綱吉を諌めるどころか、これに迎合して悪政を助長したのですから最悪です。吉保は綱吉の寵を失った側室を身ごもったまま譲り受けるというおぞましい関係でした。

 この悪法は、綱吉の死まで続きます。甥の家宣が六代将軍を継ぐと、「生類憐みの令」は直ちに廃止されます。あれほど殺生を戒めたのに世継ぎが生まれなかったのは天罰でしょう。柳沢吉保も失脚し幕閣を追われました。

島原城と松倉重政

 江戸時代初期を揺るがせた『天草・島原の乱』は、島原の領主松倉重政と、唐津藩飛び地天草領の悪政が引き起こしたものでした。このまま座して死ぬなら、戦って死ぬほうがましだと農民に決意させたものはなんだったのでしょうか?それをこれからご紹介します。

 もともとの肥前島原領主は、天正遣欧使節で有名な有馬氏です。当主有馬直純は、はやくから家康に側近として仕え家康の養女を妻にしていました。幕命によるキリシタン弾圧と、家中に根強いキリシタン家臣の扱いに根をあげ、幕府に転封願いを出します。こんなわがままが通ったのも直純が家康の娘婿だったからでした。
 有馬氏は日向延岡に五万三千石に加増され移ります。余談ですが、この有馬氏は強運でした。三代清純のときに、お家騒動で一度改易になりますが、すぐ越後糸魚川藩として復活、やがて越前丸岡に封ぜられ幕末に到ります。五万石前後の石高を保ち家を永らえるのですから驚かされます。津軽氏と同様、外様ながら準譜代として扱われ、五代誉純が若年寄、八代道純が老中と幕閣の要職を歴任しました。

 空白となった島原の領主として抜擢されたのは、大和五条藩主松倉重政でした。松倉氏はもともと筒井家の家老でしたが、主家が伊賀転封となったときに離れ、豊臣氏に仕えます。重政は目先が利いたため、関ヶ原で単騎家康に味方し功によって大和五条の地を与えられました。
 1616年、大阪の陣の功によって重政は、肥前島原四万三千石の領主となります。重政は有馬氏の居城日野江城が南に片寄っているため、新たに島原城を築城しました。この城は、四万石程度の小大名には不相応な巨城でした。連郭式で万を越える人数を収容できるほどでした。

 司馬遼太郎氏が「街道をゆく」でこの城を訪れていますが、二の丸に通じる橋を落とせば本丸だけでも籠城でき、本丸の鉄砲が二の丸を撃つためのものだと見て、松倉重政という人物はそうとう臆病な性格ではなかったかと考察しています。たしかに臆病者だからこそ巨城を築き、幕府の顔色を窺いながら統治したのでしょう。
 島原城を築くだけでも、領民の負担は相当なものでした。しかも重政は幕府に気に入られるため、与えられた割り当て以上に天下普請に人夫を送り込みました。費用も割り当て以上だすというおべっかぶりで、その負担は当然、領民にかかりました。
 さらに将軍家光に、キリシタン対策が甘いと指摘されたため、弾圧は過酷なものになりました。紹介するのも不愉快ですが、税を払えない農民に蓑を被せて火をつけ「蓑踊り」と称したり、雲仙の地獄に生きたまま突き落とすといった惨たらしいものでした。この暴政は息子の勝家の時代も続きます。
 
 キリシタン信者の多い島原の農民は、我慢の限界に達しました。南の天草でも同様の圧政が続き、「どうせ死ぬなら戦って死のう!」と立ち上がりました。これが「天草・島原の乱」です。
 天草四郎という少年を祭り上げた一揆勢は、天草富岡城の攻略に失敗した事から島原で合流、松倉氏の島原城を攻撃します。しかし、さすがに島原城は堅城でした。攻めあぐねた一揆勢は、有馬氏の廃城であった原城に籠もりました。一揆勢三万七千。
 幕府はことの重大さを察し、近隣諸大名に出陣を命じました。最終的には十二万もの大軍が、原城を囲みます。血みどろの戦いの末、一揆勢はことごとく(内通した絵師以外)斬り殺されました。

 松倉勝家は責任を取らされて斬首。江戸時代を通じても大名の斬首は異例です。それだけ幕府は松倉氏の失政を重く見ていたのでしょう。しかしキリシタン弾圧は、この後も続き多くの犠牲者をだしました。

第一次国府台合戦と房総戦国記

 以前、甲斐武田氏の分家が上総に入り上総武田氏になったことは紹介しました。(甲斐武田一族参照)
甲斐守護武田信満(十三代)の子、右馬介信長は、古河公方足利成氏に従い功を上げ、上総守護代に任ぜられます。信長の嫡孫道信から始まる嫡流家は庁南(ちょうなん)城、道信の弟信興は真里谷(まりたに・まりやつ)城を本拠に定めました。さらに久留里、椎津、造南、峰上、笹子に一族を配し上総支配を固めます。

 一方、安房国では里見氏が台頭してきていました。もともと里見氏は上野国碓氷郡里見郷を本貫とする新田源氏の一族でした。鎌倉公方に従って安房に領地を得たとも、結城合戦後に安房に逃れてきたとも言われていますが、初代里見義実は土地の領主安西氏を追放して同国支配を固めました。
 ところで、里見氏は北条氏の不倶戴天の敵というイメージがありますが、一時期北条氏と同盟関係にあったことは知られていません。といいますのも、「天文の内訌」で父実堯を殺された分家の義堯が、北条氏綱の力を借り本家義豊を稲村城に滅ぼし家督を継いだという事実がありました。以後、里見氏はこれを徳として北条氏に従うようになっていたのです。

 ここに足利義明という人物が登場します。古河公方足利高基の弟で、兄弟不和から奥州を放浪していました。当時上総では、庁南武田宗信が小弓城の原氏と抗争し劣勢に陥っていました。これを見た分家の真里谷武田信勝は、本家の危機を救うため義明に目をつけます。これを奉じ、安房の里見氏の協力を取り付けることによって小弓城の原氏を滅ぼしました。
 
 義明は小弓城に入り「小弓御所」と称しました。真里谷信勝はこの功により小弓御所の管領となって上総一円に勢力を拡大しました。
 やがて真里谷氏に内訌が起こります。真里谷城主信応が、異母兄信隆を討つため小弓御所義明に出馬を要請しました。信隆は対抗上、隣国武蔵に勢力を拡大してきた北条氏綱と結びます。義明は信隆を討つため安房の里見義堯に参陣を命じました。
 義堯は苦しい立場に追い込まれました。天文の内訌で北条氏綱に恩があったのですが、参陣を断れば今度は小弓御所を敵に回すことになります。苦渋の選択でしたが義堯は真里谷信隆攻めに参加することを決めました。
 房総の大軍に攻められた信隆はたまらず北条氏のもとに逃亡し保護されます。これにより小弓御所と北条氏の対立は決定的になりました。

 1538年10月小弓義明は、房総の兵一万余を率いて武蔵国境に近い国府台(こうのだい)城に入ります。北条氏綱は嫡子氏康と共に2万の大軍を率い江戸城に達しました。
 小弓軍は軍議を開き、北条軍が江戸川を渡河したところを叩くことにしました。しかし、慎重論を唱える里見義堯を無視し、義明は自ら出陣して敵を討つと主張して譲りませんでした。このとき、義堯は秘かに義明を見限ったといいます。
 里見軍は主戦場と想定される松戸を離れ、いつでも退却できる市川方面に陣を移し北条軍の横槍を防ぐと称しました。

 10月7日、両軍は国府台の北、相模台(現松戸市)で激突します。一進一退の攻防が続きました。そんな中、弟と息子の戦死を知らされた義明は逆上します。そして自ら突撃しあえない最期を迎えました。あとは数で勝る北条軍の独壇場でした。小弓軍は、総大将を討たれ散り散りになって壊走しました。しかし里見軍だけは、ほとんど戦いに参加せず被害をうけることなく撤退に成功します。

 北条軍はそのまま小弓城、真里谷城を占領し信応を降伏させました。後釜には信隆を入れ、以後真里谷武田氏は北条方となります。ところで、ほとんど無傷だった里見義堯は小弓御所が滅んで空白になった上総に進出します。旧真里谷領の久留里城、大多喜城を攻め落とし房総半島の大半を領有するようになりました。いわゆる『負け太り』です。

 里見氏は久留里城に本拠を移し、房総における対北条戦の主役に躍り出ました。以後南関東は北条氏と里見氏の対立を軸として回っていくこととなります。そして両者が雌雄を決した第二次国府台合戦へと向かってゆくのです。

肥後小国郷と北条時定

 九州の地図をご覧になれば、大分県日田地方は東西は筑後と豊後に接し、南北には豊前と肥後に通じる交通の要衝であることが分かります。実際江戸時代には、この地の重要性から代官が置かれ天領として支配されました。北九州の要といっても良い位置にあり、ここを支配するものが北九州を制しました。

 古代においても同様で、邪馬台国九州説を述べる場合、日田の地は避けては通れません。その日田の南に接する小国(おぐに)と呼ばれる小盆地があります。四方を山に囲まれた要害の地で、日田盆地に下るのも容易です。小国という名の通り、まさに小さな国とも言ってよい地域です。肥後の国のうちに入りますが、独立した小天地でした。
 鎌倉時代、この地は執権北条氏の直轄地でした。承久の乱後、公家領だったこの地を接収した北条氏が、恩賞として御家人に与えずに直轄地としたのは、小国の重要性を熟知していたからに他なりません。日田に容易に進出できる場所でありながら、四境を閉ざせば難攻不落の要塞になりうる地形、それが小国郷でした。黒川温泉や杖立温泉のある地といえばピンと来る人も多いでしょう。

 小国がクローズアップされるのは元寇直後でした。五代執権北条時頼の弟で、八代時宗の叔父に当たる北条時定が鎮西奉行としてこの地に下向します。この地にある古刹、満願寺は文永11年(1274)の元寇の役の際、北条時定が国土安泰を祈願して建てた寺だといわれています。
 時定は肥前守護も兼ねていましたので、常時小国に滞在したかは疑問ですが、九州における北条氏の拠点として位置付けられていたことは確かでしょう。
 時定が没すると弟の定宗、その死後は嫡子随時(ゆきとき)が後を継ぎます。随時は鎮西探題に任ぜられますがわずか三十一歳で亡くなります。その後を継いで鎌倉から下向してきた北条英時が最後の鎮西探題でした。随時の死後、小国領がどうなったのかは不明です。南北朝の動乱を経て南の阿蘇大宮司家領となったのち、小国は完全に肥後領主の勢力下に入りました。

 今は、黒川温泉を初めとする温泉、観光地になりましたが、かっては北条氏の九州支配の拠点だった小国地方、訪れる機会があれば当時に思いを馳せるのも一興です。 

ミニエー銃 - 長州を救った銃 -

 幕末の長州藩、あくまでも攘夷を貫き禁門の変で敗退、慶応二年(1866年)には幕府の大軍に包囲され絶体絶命の危機にありました。石州口、芸州口、大島口、小倉口すべてに万を越える幕府軍が布陣していました。いわゆる「第2次長州征伐」です。
 徹底抗戦を選択した長州藩には、奇兵隊をはじめとする諸隊と、薩長同盟の密約により購入した新式の銃がありました。それがこれから紹介するミニエー銃です。 

 幕末期、洋式銃といえばゲベール銃でした。フリントロック式(火打石)で火縄よりは進化していましたが、銃身に溝が切ってない前装式滑腔銃で欧州では旧式になっていました。
 長州藩は、坂本竜馬の紹介で、長崎の武器商人グラバーを訪ねます。そこで購入したのがミニエー銃でした。これは銃身に溝を切ってあり(ライフルと言う)、椎実型の弾丸が発射されると回転が加わり射程と命中精度が飛躍的に向上したものでした。小説『竜馬がゆく』では後装式と紹介されていますが、実際はまだ前装式でした。のちにこのミニエー式エンフィールド銃を後装式に改造したスナイドル銃は、戊辰戦争後期の主力銃となったほどです。ゲベール銃一発撃つ間にミニエー銃は10発撃てたといいます。
 
 長州藩は、このミニエー銃を4300挺、旧式のゲベールも数を揃えるため3000挺購入したそうです。新式銃は各戦線で猛威を振るいました。例えば芸州口では、ほら貝を吹きながら戦国時代そのままに進軍してきた彦根藩兵に対し、山野に伏して待ち伏せした長州兵がミニエー銃を撃ちまくり撃退しました。数で劣る(10分の一以下)長州軍の勝因は、士気の高さとミニエー銃に代表される火力の優越でした。

 ところでこの戦いに参加した幕府歩兵隊は、ナポレオン三世から贈られた、最新式の後装式ライフル銃であるシャスポー銃2000挺を装備していたはずです。なぜ先頭にたって長州に攻め込まなかったのでしょうか?あっさり勝っていたはずですが…。温存していたとしたら馬鹿げています。この長州征伐の失敗で幕府の威信は地に落ち、滅亡にむかうのですから。

 士気の点で、長州軍と寄せ集めの幕府軍に天と地ほどの差があったのかもしれません。

鎮西八郎為朝と雁回山

 熊本県中部、かって小西行長の居城があった宇土市に北から下ると左手に雁の形をした山が見えてきます。雁回山(314m)です。
 名前の由来は、強弓で有名な鎮西八郎為朝にあります。平安時代末期、都では為朝は乱暴で手のつけられない少年でした。あまりの無法ぶりに父である源為義も庇いきれず、九州へ追放しました。
 これでおとなしくなるのならまだしも、為朝は野に放たれた虎のように暴れまわります。肥後の豪族、阿蘇大宮司忠国の婿に収まると、勝手に近隣を切りとりし「鎮西の総追捕使」と僭称するようになりました。
 為朝が城を築いたのが雁回山です。もとは木原山といいましたが、毎日強弓で山の上空を飛ぶ雁を射落としたため、雁が恐れをなして山を迂回して飛ぶようになり、そう名付けられました。

 ところで、為朝は数年で九州を統一したという伝説がありますがこれは疑わしいです。といいますのも肥後には後に南北朝で活躍する菊池氏や、筑紫には大族原田党といった強力な武士団がいて簡単に制圧する事は不可能でした。個人的な武勇でどうこうできる相手ではありません。しかも彼らは後に有力な平家党となります。味方は阿蘇氏と豊後の源氏方緒方氏くらいでしょうか。南条範夫の小説で、阿蘇山のふもとで平家方の大軍と決戦したというシーンがありますが、もとよりフィクションです。当時平家は九州にそれほど勢力を持っていませんでした。実像はせいぜい雁回山を中心に肥後中部を暴れ回ったというところでしょうか。

 ただ、現地の豪族にとっては迷惑この上ない話でした。「鎮西の総追捕使」の僭称を都に訴えたのは案外彼らだったのかもしれません。朝廷は為朝に召喚命令をだしますが、彼はこれを無視します。そのために父の為義が官職を解かれました。それを聞いた為朝は釈明するため、自ら上洛します。そしてそのまま保元の乱に突入するのです。

2010年2月 3日 (水)

フリードリヒ大王の「斜行戦術」

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 前の記事で、プロイセンのフリードリヒ2世(大王)が7年戦争(1756年~1763年)でイギリス(と同君連合のハノーヴァー)以外すべて敵という戦略的劣勢を跳ね返して勝利したという事を書きましたが、その秘密の一端は彼の新戦術にありました。


 実質ハノーヴァーの申し訳程度の援軍以外ほとんどプロイセン単独で、オーストリア、ロシア、フランスの大軍と渡り合っていたんですから驚かざるをえません。


 フリードリヒ2世は、戦略的劣勢を跳ね返すために戦術的優越で戦局を支えたのです。




 画像は彼の新戦術、いわゆる「斜行戦術」の概念を記したものです。(よい画像がなかったので自作しました)

 その具体的展開は
 
 ①少数の部隊をもって敵陣の一方を偽装攻撃する。

 ②敵軍がそちらに気を取られている隙に素早く主力を縦隊で斜めに移動し敵陣のもう片方にとりつく。

 ③そこから旋回し、素早く展開した砲兵(騎馬砲兵)の砲撃支援を受けながら敵の一翼を集中攻撃する。

 ④戦列を組む敵は、斜め側方から攻撃されると対応できないため局所的に優勢を奪われ敗退。



 となります。しかしこれを見て戦史に詳しい方やシミュレーションゲーマ-の方は疑問に思われるでしょう。

 
 ならば敵が斜め移動してる途中を横撃すればよい、あるいは偽装攻撃してきた敵をそのまま全力で追撃しプロイセン軍に意図しない対陣を強要しそのまま数で押し切ればよい、と。


 仰る通りです。斜行戦術を成功させるには、そのような付け入る隙を敵に与えない迅速な機動と、それに付いていける砲兵を持って支援しなければいけません。


 フリードリヒ2世は、そのために軍隊を鍛え上げ敵に勝る機動力と混乱しにくい鉄の規律を持ったプロイセン軍を作り上げました。


 また砲兵の機動力を挙げるため、騎馬砲兵という兵種を設け馬で砲を牽引するだけでなくそれを操る兵士も馬で移動する機動力のある砲兵部隊を作り上げました。


 この二つがなければ、斜行戦術は机上の空論に終わるのです。


 
 斜行戦術が理想的にうまくいった戦例は、7年戦争におけるロイテンの戦い(1757年12月5日)があげられます。

 この時プロイセン軍は3万5千。一方敵オーストリア軍は倍の7万。2倍の戦力差を跳ね返しプロイセン軍が完勝しました。



 しかしロイテン、ロスバッハのような鮮やかな戦例は戦争初期~中期に集中しています。なぜなら戦争による疲弊で軍隊が消耗し訓練度の劣る新兵が多くなったからです。また、敵も斜行戦術に慣れその対処法を学んでいました。


 人口500万に満たない国が20万の軍隊を持つ超軍事国家プロイセンは、戦時消耗するとそれを補充できないという最大の弱点を持っていたのです。


 一時はベルリン近郊まで敵軍に迫られ大王自身自殺を覚悟した時もありました。1762年のエリザヴェータ女帝急死によるロシアの脱落がなければ、プロイセンはこの時滅びていたかもしれません。


 後継者のピョートル3世がフリードリヒ2世の信奉者だという事も大きかったと思います。「芸は身を助く」といいますが、フリードリヒ2世の鮮やかな指揮能力が自分を助ける結果となったのです。


 フリードリヒ2世が、決して投げることなく粘り強く戦い続けた事が奇跡を生んだのだと思います。1762年5月スウェーデンと講和、11月フランスと講和、1763年2月にはオーストリア、ザクセンと講和し戦争は終結します。


 
 斜行戦術は、後年ナポレオンも戦時機動の好例として絶賛しています。しかしその戦術が力を十分に発揮するには軍隊の質が一定のレベルに達していることが絶対条件でした。


 フリードリヒの斜行戦術を研究しさらに発展、完成させたのが、かの天才ナポレオンだったと言えるかもしれません。

シュレジェン(シレジア)

 シュレジェンとは何か?おそらく欧州史か軍事史に詳しい方でないと何のことか分からないと思います(苦笑)。

 けっして前弩級戦艦ドイッチラント級のシュレジェンあるいは同級艦のシュレスビヒ・ホルシュタインの事ではありません(爆)。こっちの方がよけい分からないか?



 シュレジェン(シレジア)は現在のドイツ、ポーランド、チェコ、ハンガリーにまたがる地域で、歴史的に周辺諸国に次々と支配者が変わる悲劇の土地でした。


 なんで周りの国々がこの土地を欲しがったかというと、豊かだったからなんですね。ヨーロッパではフランドル地方などと並ぶ工業先進地域で、おまけに鉱物資源まであるという美味しい土地でした。


 ちなみに1241年モンゴルのバトゥがポーランド・ドイツ騎士団連合軍を破ったリーグニッツ(ワールシュタット)はこのシュレジェンにあります。


 シュレジェンは長らく神聖ローマ帝国とポーランドの係争の地になりますが14世紀の初めにボヘミア王国に組み入れられ神聖ローマ帝国の領邦(ボヘミアは神聖ローマ帝国の選帝侯)になります。


 シュレジェンが歴史の舞台に大きく取り上げられるのは1740年から始まったオーストリア継承戦争と1756年~1763年の7年戦争においてです。


 オーストリア皇帝(神聖ローマ帝国は実質的に形骸化していたため)カール6世が1740年没すると、後継者マリア・テレジアに皇位継承を認める代わりにシュレジェン地方を割譲するよう要求したのがプロイセン王(兼ブランデンブルク選帝侯)のフリードリヒ2世でした。

 歴史的に継承する権利あるとか嘘八百(どう考えても無理筋の要求だったらしい)を並べての要求でしたので、気丈なマリア・テレジアはこれを一蹴します。たかが一選帝侯ふぜいに大ハプスブルク家の後継者が屈っせられるかという反発が当然あったと思います。


 するとフリードリヒ2世は、皇帝候補のザクセンやバイエルンの選帝侯と結び実力行使とばかりシュレジェンに侵入します。ようするに土地さえ手に入れば誰が皇帝になろうと知った事ではなかったのです。


 フリードリヒ2世の用意周到さは、これにフランスとイギリスの後援を得た事です。ドイツ国内の問題が欧州列強を巻き込んだ大戦争になったのですからマリア・テレジアにとってはたまったもんではありませんでした。


 孤立無援のマリア・テレジアは身重の身で(当時23歳、又従兄のロレーヌ公子フランツ・シュテファンと結婚していた)同君連合のハンガリーの議会に乗り込み演説をしてハンガリーの援軍を得ることに成功したという有名なエピソードはこの時のこととされます。

 
 生き馬の目を抜く当時の欧州で悪人どもに酷い目に遭っている、美しい若き女帝(しかも身重!)の堂々たる演説はハンガリー貴族の同情を買いました。

 こうして反撃の態勢に入ったマリア・テレジアでしたがどうしてもプロイセン軍には勝てませんでした。フリードリヒ2世は、性格は性悪(笑)でしたが、戦争にかけては当時右に出るものがないくらいの戦上手でした。


 泣く泣くシュレジェン割譲を条件にプロイセンと講和し、それ以外のカス(失礼)を血みどろの戦いの末降したのは1745年のことでした。


 こうしてかろうじて実力でオーストリア女帝(名目上は夫フランツが神聖ローマ皇帝)の地位を列強に認めさせたマリア・テレジアでしたが、シュレジェンを奪われた恨みは忘れていませんでした。


 今度はフランス、ロシアと結び(外交革命)、1756年プロイセンに戦争を挑みます。

 この戦いでは、孤立無援になったのはプロイセンの方でした。しかし唯一の同盟国イギリスの資金援助を頼りに何度か壊滅的危機に晒されながらもフリードリヒ2世は粘り強く戦い抜きます。


 フリードリヒ2世は、戦況が有利な時も不利になってもシュレジェン領有だけは譲りませんでした。こうして7年の激闘ののち、ボロボロになりながらもシュレジェンを守り抜いたプロイセンは、ヨーロッパ列強の一員として欧州史に燦然と躍り出ます。


 マリア・テレジアの無念は想像に難くありません。ただフリードリヒ2世もこの戦争で身も心もボロボロになったようです。以後極端な人嫌いになりサンスーシ宮殿に籠り、心を許せるのは飼い犬だけだったと伝えられますから、これを聞いたらマリア・テレジアも少しは気が晴れたかも?



 シュレジェン地方は、以後プロイセンの領有になり、その後の工業化に大きく寄与しました。そして第2次大戦後シュレジェンはポーランド領にされ現在に至っています。

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン   - シリーズ『ドイツ30年戦争』④完結編 -

 1632年レヒ川の戦いで頼みの綱の総司令官ティリー伯を失った皇帝軍はパニックの極にありました。他に有能な指揮官のいない皇帝軍は、ある一人の男だけが頼りでした。彼の名はヴァレンシュタイン、ボヘミアの小貴族出身で一時は12万もの傭兵を支配下に置いた大傭兵隊長です。


 アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン( 1583年~1634年)は、ボヘミアの貧乏貴族の家に生まれました。平和な時なら平凡な一生を送ったに違いありません。

 が、世は乱世です。彼に運が向いてきたのは金持ちの未亡人と結婚したことでした。その金を元手に高利貸しをしながら蓄財に励みます。そしてボヘミアで反乱が起こると私財をなげうって兵を集め挙兵します。

 ヴァレンシュタインの傭兵軍にはすぐ雇い主が現れました。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世です。皇帝家の台所事情が苦しいという事は前に書きました。皇帝にとってヴァレンシュタインの傭兵軍は非常に助かる存在でした。なぜかといえば、ほとんど資金が要らないからです。

 その秘密は、ヴァレンシュタインが皇帝に申し出た契約でした。皇帝は傭兵軍に資金を出す必要がありません。その代わりに占領地に軍税というものを徴収する権利を得ました。

 軍税とは合法的な略奪です。皇帝がそれを認めているのですから民衆はどこにも不満の持って行きどころがありませんでした。軍隊による直接の税徴収、これは兵士たちにとっても大変魅力のあるものです。非合法な略奪と違い組織的に町々を回りあらゆる食料、物資、金品を集めて自分のものにできるのですからこれほど良い事はありません。


 ヴァレンシュタインの傭兵軍は人気となり、一時は12万5千を超える大軍に膨れ上がりました。

 一方、ヴァレンシュタインの傭兵軍の行くところはことごとく荒廃しました。根こそぎ持って行かれ餓死者すら出たくらいです。30年戦争の惨禍の原因の一つはこういった傭兵軍による略奪によるものでした。



 ヴァレンシュタインは雪だるまのように膨れ上がる傭兵軍を使って軍功をあげ、ついにはフリートラント侯という貴族にまで登りつめます。


 しかし同時にそれはヴァレンシュタインに慢心を起こしました。皇帝に雇われるのではなく独立採算制の傭兵軍つまり自分の私兵という驕りもあったのでしょう。

 いつしか彼は選帝侯になることを望み始めます。ところがこれにはプロテスタント諸侯だけではなく、皇帝側のカトリック諸侯の間でも反発を受けます。


 成り上がりの貧乏貴族が、自分たちの上に立つことに我慢ならなかったのです。新教旧教に関係なく選帝侯連名でヴァレンシュタイン弾劾の要求を皇帝に突きつけます。皇帝もまた言う事を聞かなくなったヴァレンシュタインを苦々しく思っていましたから、要求を受け入れ彼を罷免しました。



 皇帝はヴァレンシュタインに窮状を訴え再出馬を迫ります。最初は渋ったヴァレンシュタインでしたが、彼に全権を与えるとの皇帝の言葉に動かされ、1632年再び表舞台に立ちました。



 一方、プロテスタント連合軍の頂点にたったスウェーデン王グスタフ・アドルフも慢心の極に立っていました。当時の彼の手紙には自らを神聖ローマ皇帝になぞらえたものが残されています。


 こういった態度は、今まで協力的だったプロテスタント諸侯の反発をくらいこちらも人心が次第に離れていきました。


 両軍は1632年11月16日、ライプツィヒ郊外のリュッツェンで激突します。両軍の兵力はヴァレンシュタイン側が2万6千、スウェーデン軍は1万6千。


 ただし皇帝軍は数の多さに驕って兵力を二分していました。結局これが敗因になります。ヴァレンシュタインにかってのような軍略の冴えがなくなっていたのが敗因と見る向きもあります。


 ともかく劣勢なスウェーデン軍は、グスタフ・アドルフの指揮能力の高さもあってこのときも皇帝軍を圧倒しました。ところがこのとき信じられない悲劇が起こります。


 濃霧の中、国王グスタフ・アドルフが道に迷い流れ弾に当たって戦死したのです。享年37歳。これで戦争の行方はさらに混沌としたものになりました。


 スウェーデン軍の指揮は宰相のウクセンシェルナに引き継がれます。彼は国王のドイツ征服という野望を諦め、安全に撤退しかつ有利に講和できるための態勢作りに全力を挙げることにしました。


 皮肉なことにグスタフ・アドルフの死はヴァレンシュタインの存在価値さえ失わせました。一説では単独講和を結ぼうとした越権行為に激怒し、皇帝フェルディナント2世が暗殺団を送ったともいわれています。

 またこのときヴァレンシュタインのもとに、影の大ボスともいうべきフランスの宰相リシュリューの調略の手が伸びていました。リシュリューはボヘミア王にするという条件で寝返りを勧めます。しかしこれ成功しても失敗してもどちらでも良かったのです。

 ヴァレンシュタインと皇帝との間に疑心暗鬼を生じさせるだけで十分でした。メクレンブルク公に出世し選帝侯も手が届く位置にいたヴァレンシュタインがあまりにも巨大な存在になりすぎていたのです。


 1634年、皇帝の送り込んだ刺客の手にかかりヴァレンシュタイン絶命。享年51歳。



 中世から近世にかけてヨーロッパをまたにかけて活躍した傭兵軍の最後の輝きでした。以後ヨーロッパ世界はフランス革命を経て市民による徴兵軍に変わっていきます。



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 最後にその後の30年戦争について簡単に触れましょう。


 皇帝率いるカトリック軍と、プロテスタント軍という単純な区別は次第になくなっていきました。なぜならカトリック教国であるフランスが反ハプスブルクの旗幟を鮮明にして本格的に参戦してきたからです。

 ドイツ国内でもブランデンブルク、ザクセン両選帝侯を軸にどちらにも加わらない第3の勢力が生まれました。皇帝側のバイエルンもこれに協調する動きを見せます。


 そして1637年、皇帝フェルディナント2世が死去します。あとを継いだフェルディナント3世も戦い続けますが、人々は戦乱の世に倦んでいました。その後もいくつかの戦闘がありましたが、それは講和会議で自分の立場を有利にするためのものでしかありませんでした。


 1648年、ウェストファリア(ヴェストファーレン)条約締結。30年にもわたった泥沼の戦争が終わりました。この戦争は事実上神聖ローマ帝国を解体した戦争でした。ハプスブルク家はそれぞれオーストリアとスペイン本領の経営だけに気を配るようになりました。

 かわってフランス、オランダ、イギリスが台頭してきます。ドイツ国内でもブランデンブルク選帝侯が力をつけプロイセン王国として生まれ変わりました。


 史家の間では、ハプスブルク家がドイツを絶対王政国家に改造しようとして失敗した戦争だったと評価する者もいます。


 出遅れた国家統一は、1871年新興の軍事強国プロイセンによってようやく達成されました。

ティリー伯ヨハン・セルクラエス   - シリーズ『ドイツ30年戦争』③ -

 ヨハン・セルクラエス・グラーフ・フォン・ティリー( 1559年~1632年)は、バイエルン公マクシミリアン1世に仕えた将軍です。彼がなぜ神聖ローマ帝国軍の総司令官になったかといえば、帝国内部の複雑な事情がありました。


 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、すべての帝国領を専制的に支配していたわけではありません。ハプスブルグ家直轄領以外は多くの諸侯によって分割統治されていました。帝国とはいえそれら諸侯に対しては緩やかな支配しか及びません。ましてやプロテスタントとカトリックの宗教対立まであるのですから、皇帝が自由に動かせるのは自分の直轄領の軍隊しかいませんでした。


 ところがハプスブルグ家のドル箱ともいうべきボヘミア地方が最初の戦闘で荒廃し、皇帝はない袖は振れない状態に陥っていました。こうした状況がのちの傭兵隊長ヴァレンシュタイン台頭の遠因ともなります。

 バイエルン公は、この内戦で皇帝に恩を売ることで帝国内での地位向上、つまりは選帝侯位を狙って全面協力を申し出ます。

 渡りに船とばかりフェルディナント2世はこれに飛びつきます。軍隊も実質バイエルン軍主体でしたから、その総司令官ティリー伯に全帝国軍の総指揮権まで与えてしまいました。


 ティリー伯は有能な軍事指揮官でした。当時主流になりつつあったスペイン発祥のテルシオ戦術(槍兵の方陣の四隅にマスケット銃隊を配した陣形。防御力に優れていた)を使いこなし、1620年ボヘミア冬王フリードリヒ5世の軍を白山の戦いで撃破します。

 1621年には、プファルツ侵攻作戦に従事し完全に制圧します。この軍功を喜んだ皇帝フェルディナント2世は、フリードリヒ5世からプファルツ選帝侯位を剥奪しティリー伯の主君バイエルン公に与えました。


 1625年にはヴァレンシュタインの傭兵軍と協力して新教軍をあと一歩まで追い詰めます。

 しかしティリー伯の絶頂期はここまででした。主君のバイエルン公の動きが怪しくなってくるのです。バイエルン公マクシミリアン1世はこのまま皇帝軍が勝ち続けると、帝国貴族は完全に皇帝に抑えられてしまうという危惧から、ひそかに新教側のプランデンブルグ、ザクセンの両選帝侯と共闘の動きを見せ始めました。


 こうなるとティリー伯の立場は危うくなります。しかし「甲冑をまとった修道士」とまでいわれた謹厳実直な彼は、ただひたすら自分に与えられた任務だけを真面目に遂行していきます。


 ティリー伯は敬虔なカトリック信徒でした。新教徒を滅ぼすことが神の御心にかなうと信じ、プロテスタントを憎みぬきました。これは戦闘をするときは力になりますが、反面大きな弊害ともなります。


 1630年スウェーデンのグスタフ・アドルフが参戦すると、ティリー伯はスウェーデンに味方したハンザ同盟の都市マクデブルクを包囲します。包囲は半年に及び、1631年5月20日ついに陥落しました。

 ティリー伯は、兵士が町になだれ込み略奪暴行の限りを尽くしてもなにもしませんでした。彼の考えでは異端(プロテスタントのこと)はどうなろうと構わないという思いがあったのでしょう。

 3日3晩の劫掠で3万人の市民のうち生き残ったのは5千人。しかもそれは大半が兵士に捕えられた女性で、性的陵辱の対象となるという凄まじさでした。


 のちに「マクデブルクの惨劇」と呼ばれるようになる事件のダメージは深刻でした。これによってプロテスタントの憎悪は頂点に達し、スウェーデン軍を解放者として積極的に支援するようになります。


 結局はこれが皇帝軍を苦しめ、ティリー伯戦死の遠因になるのですから影響は大きなものとなりました。


 1631年9月17日、ライプツィヒ北方ブライテンフェルトで両軍は激突します。兵力はティリー伯率いる皇帝軍が騎兵1万、歩兵3万。一方スウェーデン・ザクセン連合軍は国王グスタフ・アドルフに率いられ兵力約4万。

 グスタフ・アドルフには秘策がありました。ネーデルラントでテルシオ戦術に対抗するために編み出されたネーデルラント総督ナッサウ伯マウリッツの「オランダ式大隊」をさらに改良した、所謂「スウェーデン式大隊」です。これは簡単に言うと「槍兵方陣の後方に銃兵方陣を置き、さらに後方に予備の銃兵方陣を置くというもの」(ウィキペディアより)で、テルシオの欠点である鈍重さを衝いた機動性に富む編成でした。

 さらにグスタフ・アドルフは軽量の連隊砲を採用し、騎兵の武器をマスケット騎兵銃からサーベルに戻しました。これは騎兵を攻撃ではなく、止めの追撃に使用するための改変です。


 このときのスウェーデン軍の編成は、時代を超越した近代的な編成でした。マスケット銃を防御ではなく攻撃に使用し、漸進斉射戦術という後方の銃隊を交互に前進させ射撃させる戦術で発射速度は実にテルシオの3倍!


 戦闘は7時間にわたって繰り広げられました。結果は、兵力は両軍互角ながら火力で圧倒したスウェーデン・ザクセン連合軍の圧勝に終わります。


 それまで一世を風靡したテルシオ戦術は、より近代的な戦術によって滅び去ったのです。


 皇帝軍の戦死者1万5千。一方スウェーデン軍の戦死者はわずか1500。ティリー伯も首と胴に傷を負い、右腕は粉々に破壊されます。


 ブライテンフェルトの戦いは、30年戦争でプロテスタント軍の初めての勝利でした。グスタフ・アドルフは英雄になりドイツ国内で8万の大軍を動かすようになりました。


 そして1632年4月15日、敗残の身を本領バイエルンに後退させたティリー軍を追って勢いづくスウェーデン軍は再びティリー軍を捕捉します。

 レヒ川の戦いがティリー伯にとって最後の戦いでした。戦闘序盤に砲撃を受けて負傷、ティリーは後方に運ばれます。指揮を引き継いだ将校も負傷し、指揮系統の乱れたティリー軍はそのままスウェーデン軍に押し切られました。

 ティリー伯はインゴルシュタットに運ばれます。が、回復の見込みはありませんでした。病床でティリー伯は皇帝に手紙を書きます。当時失脚していたヴァレンシュタイン以外にこの難局を挽回できるものはいないとして、彼の復帰を願う手紙でした。さらにヴァレンシュタイン本人にも「幸運を祈る」という手紙を出します。


 4月30日死去。享年74歳。


 それは一人の名将の死とともに、テルシオ戦術の終わりでもありました。

デンマーク王クリスチャン4世   - シリーズ『ドイツ30年戦争』② -

 一般のイメージとは違い30年戦争は常に戦闘状態にあったのではありません。間に数か月~数年のブランクを挟んで断続的に続きます。プロテスタントとカトリックの宗教対立を発端としてドイツを中心に西ヨーロッパの主要国を巻き込んだ大戦争というのが30年戦争でした。


 前稿で、お調子者の(失礼)プファルツ選帝侯フリードリヒ5世が大戦争のきっかけを作ったという事を書きました。ならばその傷口を広げ、のっぴきならない状況に追い込んだ人物こそ、これから紹介するデンマーク王クリスチャン4世です。


 クリスチャン4世はデンマーク史上ではなかなかの名君とされます。世界史の教科書でも劣勢に陥ったプロテスタント勢力を擁護するため参戦した、と紹介されることが多いです。


 しかし考えてみてください。そんな甘っちょろい事で国際政治が動くのなら戦争など起こるはずもありません。クリスチャン4世の場合もプロテスタントの擁護という大義名分のもと、自国の利益のためだけに行動したのです。

 デンマーク王クリスチャン4世は、ドイツ帝国内の一領邦ホルシュタイン侯(ユトラント半島の付け根あたり)も兼ねていました。ということは神聖ローマ帝国に介入できる名分はあったのです。


 1625年、クリスチャン4世は帝国内の十の行政区の一つニーダー(低地)ザクセン区(中心都市はハノーヴァー)の区長に任命されました。区長は行政区の中で自由な募兵特権が与えられます。これだけで満足しておけば良いものの、彼はこの地位を利用して自分の息子たちに空位になっていたハルバーシュタット、オスナブリュック司教の地位を得ようと画策します。しかしさすがにこれは皇帝フェルディナント2世によって拒否されました。


 怒ったクリスチャン4世は、帝国内の宗教対立から起こった内戦に介入することとなります。これは内戦に介入することを検討していたライバル、スウェーデン王グスタフ・アドルフに先駆けた単独介入でした。


 ここで疑問に思うのは、小国であるデンマークがなぜ介入できたか?です。その秘密はスウェーデンの場合もそうですが、神聖ローマ帝国の衰退を画策する英仏の莫大な軍事援助が裏で行われていたのです。

 とくにフランスは東西をスペイン、オーストリアの両ハプスブルグ家に抑えられています。直接の軍事介入こそしないもののお金で敵の勢力を弱められる事には積極的でした。


 1625年5月、クリスチャン4世は2万5千のデンマーク軍を率いて南下します。初めは順調に進軍していたクリスチャン4世ですが、1626年ルッターの戦いで帝国軍の名将ティリー伯の軍の前に一敗地に塗れます。

 さらに1627年には、帝国側の傭兵隊長ヴァレンシュタインに押しまくられデンマーク公領とユトラント半島全土を占領される始末でした。

 困り果てたクリスチャン4世は、1628年嫌っていたスウェーデンのグスタフ・アドルフと渋々の同盟を締結。スウェーデン軍の援助によってようやくヴァレンシュタイン軍を撃退します。


 これで懲りたのか、1629年皇帝フェルディナント2世と「リューベックの和約」を締結。30年戦争から手を引くこととなるのです。


 デンマーク王クリスチャン4世の介入は30年戦争の主役、グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインの引き立て役にすぎませんでした。一種の幕間劇です。ただし、彼の介入戦争によってボヘミアとプファルツに限定されていた戦争がドイツ全土に広がるきっかけになったとも言えます。


 個人的な欲望によってドイツ全土を荒廃させる戦争に発展させたのですから、デンマークにとっては名君であったとしても、世界史的には暗君と評価されても仕方ないのでしょう。

プファルツ選帝侯フリードリヒ5世冬王   - シリーズ『ドイツ30年戦争』① -

 ドイツ30年戦争(1618年~1648年)は、プロテスタント(新教)とカトリック(旧教)による宗教戦争であったとされます。しかし調べていくと、確かに宗教対立が発端ですが、その実態はスペイン・オーストリア両ハプスブルグ家によるドイツ支配強化を嫌った貴族たち(おもにプロテスタント諸侯)の抵抗という側面もありました。
そして最後はフランス、オランダ(ネーデルラント)、デンマーク、スウェーデンまでも巻き込んだ国際戦争に発展したのです。
 

 本シリーズでは、幾人かのキーに当たる人物に焦点を当ててドイツ未曾有の内戦ともいうべき30年戦争を見ていきたいと思います。まず最初は、30年戦争のきっかけを作った人物、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世です。なぜ彼が冬王と呼ばれたかはおいおい説明します。


 プファルツはドイツ西部ライン沿岸地方にある一侯国です。しかしただの侯国ではなく、別名ライン宮中伯、神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶことのできる所謂七選帝侯の一人。帝国では最上級の貴族でした。


 本稿の主人公フリードリヒ5世登場の前に当時のドイツの国情を話しておきましょう。


 中世を通じて欧州に君臨したローマカトリックは、次第に腐敗し単なる土地貴族と化していました。これに疑問を呈したルターやカルヴァンらは変革を求め所謂プロテスタント運動を起こします。

 庶民は皇帝、貴族たちによる圧政から逃れるためこの新教を受け入れプロテスタント運動は遼原の火のようにヨーロッパ中に広がりました。そしてドイツにおいてはローマカトリックと結びつくことで皇帝権の強化を図る神聖ローマ皇帝つまりハプスブルグ王朝に対する貴族の嫌悪がこれと結びつくのに時間はかかりませんでした。

 プランデンブルグ、ザクセン、プファルツという選帝侯までがプロテスタントに改宗するという事態に、はじめは静観してきたハプスブルグ家も皇帝フェルディナント2世が即位すると圧迫政策に変わりはじめます。


 ところで新教の一大中心地ボヘミア(現チェコ中西部)はもともと選帝侯であるボヘミア王が統治していましたが、王朝の断絶を受けてハプスブルグ家が王位を継承することとなっていました。フェルディナント2世は皇帝権の強化のためにもボヘミア王位を重視し、プロテスタントを弾圧してカトリックの牙城にすべく行動します。

 これに怒ったプラハ市民が1618年皇帝の代理人を国王執務室の窓から放り投げるという暴挙にでます。このプラハ窓外放擲事件がその後30年にわたって続けられる泥沼の30年戦争の発端でした。


 ボヘミアの貴族たちは、強大な皇帝軍に対抗するために外部からの援軍を期待してあろうことか選帝侯の一人プファルツ侯フリードリヒ5世を王に選出してしまいます。

 フリードリヒは、周囲の反対を押し切ってこれを受けボヘミア王に即位します。あからさまな皇帝に対する反逆です。1619年の事でした。

 フリードリヒとボヘミア貴族たちは、他のプロテスタント諸侯の援軍を期待していましたが皇帝フェルディナント2世の行動は早いものでした。反皇帝では一致していても実際の戦争となると皆が躊躇していました。その隙を突いた電撃作戦です。


 早くも1620年には、名将ティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる皇帝軍2万7千、大砲12門がボヘミアに侵入します。迎え撃つボヘミア軍は総勢2万1千、大砲7門。


 両軍は1620年11月8日、プラハ郊外の白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でぶつかりました。

 
 寄せ集めのボヘミア軍に対し、皇帝軍はティリーの母国バイエルンを中心とした精鋭部隊です。戦いは鎧袖一触、わずか半日で皇帝軍の圧勝に終わりました。


 ボヘミア貴族の多くが戦死し、ボヘミア王フリードリヒと妃エリーザベトは亡命します。最終的にはネーデルラントまで逃げたそうです。そのとばっちりを受けてボヘミアの新教徒15万人が亡命を余儀なくされました。


 皇帝の戦後処理は過酷を極め、反乱の指導者だったボヘミア貴族27名が処刑され658家の貴族と50の都市の領地が没収されます。

 戴冠式から1年と4日のボヘミア王であったため、フリードリヒはボヘミア冬王と揶揄されました。


 しかし皇帝の怒りはこれだけでは収まりませんでした。親戚のスペインハプスブルグ家に依頼してフリードリヒの本領プファルツ選帝侯領を占領させます。スペインにとっても植民地北部ネーデルラント(現オランダ)の独立戦争に苦しんでいたため、この申し出は渡りに船でした。

 海上をネーデルラントの同盟国イギリスに抑えられていたため、スペインにとってもライン川沿いにネーデルラントへ補給できるプファルツは格好の補給・出撃拠点となり得る土地でした。


 皇帝の悪意はさらに続きます。フリードリヒの選帝侯位を奪い、封地剥奪の勅令を発します。そしてあろうことか格下であるバイエルン侯に選帝侯位を与えてしまったのです。

 プファルツは戦後選帝侯位を回復しますが、これは従来の物ではなくあくまで新しく与えられた第8の地位でした。
 
 
 事実上これでフリードリヒ5世の政治生命は絶たれます。1630年には戦争に介入してきたスウェーデンのグスタフ・アドルフ王からスウェーデン配下のプファルツ侯として戦線に復帰するよう要求されますが、腐っても選帝侯、誇りが許さないフリードリヒ5世はこれを拒否して矜持を見せました。


 彼はその後の生涯を亡命先のハーグで過ごし、1632年故郷マインツで波乱の生涯を終えます。享年36歳。晩年というにはあまりにも早い死でした。


 その後のプファルツ選帝侯位は1648年、息子のカール1世ルートヴィヒによってようやく取り戻すことができました。



 ドイツ史上未曾有の大戦争を起こした張本人でありながら、あっさりと歴史の舞台から退場したフリードリヒ5世。得てしてこのような平凡な人物が歴史を動かすキーパーソンとなることが多いものです。まさに歴史の皮肉と言えるかもしれません。
 

神聖ローマ帝国の選帝侯

選帝侯(せんていこう、独: Kurfürst)とは、神聖ローマ帝国において、ドイツ王ないしローマ王(すなわち神聖ローマ皇帝)に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。

                     - ウィキペディアより -


 皆さんは選帝侯という言葉を聞いたことがありますか?世界史をまじめに勉強した人以外覚えていないと思います。文字通り神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶ諸侯のことです。ただ調べてみたら皇帝ではなくドイツ王を選ぶ選挙みたいですね。実質ドイツ王が神聖ローマ皇帝に戴冠するので選帝侯で良いような気がしますが(苦笑)、こだわる研究者は選挙侯あるいは選定侯と呼ぶそうです。

 1198年から1806年まで続いた制度で、ローマ教皇インノケンティウス3世が神聖ローマ皇帝を牽制するために『ドイツ王になるにはマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯の賛同が不可欠であると定めた』のが始まりみたいです。


 私の理解では

 マインツ、ケルン、トリエルの三司教と世俗君主であるブランデンブルグ辺境伯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン選帝侯、ボヘミア王の七選帝侯がずっと続いたと思っていたんですが、調べて見ると幾度か変遷があったようです。


 まずプファルツ選帝侯が、30年戦争の時新教側に付いたので選挙権と封土を剥奪されてバイエルン侯に与えられます。バイエルンは皇帝側に付いたのでその報酬というわけでしょう。戦後プファルツ選帝侯に改めて選帝侯の権利を与えられますが、それは以前のものではなく改めて第8番目としての地位でした。

 あと30年戦争時にブランシュバイク公が活躍しますが、これがハノーヴァー選帝侯になったみたいですね。1692年に選帝権を獲得します。ちなみにハノーヴァー公国は1714年以来イギリス王位(ハノーヴァー朝→ウィンザー朝)も獲得します。ヴィクトリア女王の前までは同君連合だったそうです。知らなかった…。

 サリカ法典(ゲーム「クルセイダーキングス」で出てきますね!)で女子の継承を認めていなかったのでヴィクトリア即位の時に分枝したそうです。


 ハノーヴァー朝の成立が、イギリスがドイツ情勢に本格的に介入してくるようになったきっかけかもしれません。その前からいろいろちょっかいは出してましたが(苦笑)。


 イギリス(イングランド)という国は昔から大陸情勢に介入するのが好きですね。ブリテン島が貧しくて島だけではやっていけないからでしょうか?イメージ的にも豊かなフランス、貧しいイギリスですもんね。イギリスが豊かになったのは産業革命以降かもしれません。



 こうやって見てくると、歴史は意外なところで繋がってるし興味は尽きませんね。

戦国時代の仇花 中山国

 中国戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)は秦・韓・魏・趙・斉・燕・楚のいわゆる戦国の七雄が並び立ったまさに戦国時代でした。


 ただそれ以外に国がなかったかというと間違いで、魯・宋・衛・曹などの春秋生き残りの諸国も細々ながら生き残っていました。まあ実質、宋は七雄の燕よりは国力があったと思いますが…。


 そのなかで特異な国とも言えるのが中山です。この国は実は漢民族の国ではありません。今の河北省の中部にあった中山は、遊牧民族ともいわれる白狄の一部族鮮虞部が建国しました。


 古代支那人は、自分以外の周辺の異民族を東夷、南蛮、西戎、北狄と蔑んで呼んでいましたが、私は北狄だからといってすべてが遊牧民族だとはいえないと思います。少なくとも白狄赤狄と呼ばれる諸族は、遊牧というより半農半牧、あるいはかなり農耕にシフトしていた民族ではなかったかと睨んでいます。晋文公重耳に仕え、外戚ともなった重臣狐偃ら狐氏一族は白狄出身と言われていますし。


 そうでないと中原諸国のような国家(この場合は多分に都市国家の意味合いを持つ)は建国できないでしょう。


 今回記事を書くに際し、ウィキペディアを覗いてみたんですがどうも納得いかない一文に出会いました。

問題の個所はここです。

【当初は弱小国であり、紀元前407年には魏の楽羊が率いる軍勢に都を落とされた。しかし、大山の中に逃れた桓公が20年にわたって抗戦を続け、国を復興した。】


 私の理解では、魏の文侯に滅ぼされたあと魏の公族が王になり、新たな中山国として生まれ変わったと思っていたんですが。


 念のために史記を当たってみたんですが、趙世家に「魏の文侯が将軍楽羊を遣わし中山を滅ぼした。そのあと太子撃(のちの武侯)が守備した」という一文があります。

 ウィキペディアの通りだと楽羊の子孫が代々中山の宰相を務めたという事実と矛盾するような気がします。作家の宮城谷昌光さんも「楽毅」のなかで私と同じ見解に立っておられますし。


 魏の征服後、魏の公族が新たに王に立ち代々受け継いだとするのが自然ではないでしょうか。この文章は何らかの歴史的事実に基づいて書いてあるのでしょうか?

 そのような歴史書があれば教えて欲しいと思います。どうも私のような素人考えでは納得できないもので。


 中山は紀元前296年、胡服騎射で有名な趙の武霊王に滅ぼされます。このあたりの経緯は小説「楽毅」に詳しいので興味のある方(いるのか?)は読んでください。



 1974年、中山国都霊寿古城遺跡と中山王陵が発掘されました。出土物を見ると戦国七雄の狭間で国を保ち続けた中山が意外に高度な文化を誇っていた事に驚かされます。


 謎の王国中山の解明は今後の発掘と研究を待たなければならないでしょう。




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 上記のウィキペディアの問題点は、中山三代桓公が中山人か魏人かで解釈が分かれるような気がします。太公望から始まる姜斉が田(陳)氏に乗っ取られた後も国号は「斉」のままだったように支配者が変わっても国の名前はそのままというケースは良くあると思うんです。


 20年にわたって抵抗し国を復興したというよりは、楽羊征服後の中山の混乱を収めるため魏の公族が王に立ったと解釈するのが自然な気がします。中山最初の首都顧から遷都した霊寿はもともと楽氏の領地だったという説もあることですし。


 もっともこれこれこういう歴史書に書いてあるし、発掘調査からちゃんと裏付けもあると指摘されれば、納得できるんですが…。

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