新田一族の悲劇
1336年の湊川の合戦は足利尊氏の覇権が確立したのと同時に、南朝衰退の始まりでもありました。敗走する新田軍の後を追うように京に入った足利軍は、再び都を制圧します。後醍醐天皇を奉じた宮方は比叡山に籠もるしかありませんでした。
後醍醐天皇は秘かに足利方と和議を進めようと画策します。その動きを察知した義貞一族の堀口貞満は、怒り奏上しました。
「我らがこれまで忠節を尽くしてきたのを見捨てて足利に降伏なされるのなら、義貞以下一族全員の首を刎ねてからにしていただきたい」
一時降伏の動きは阻止されました。しかし、これにより新田義貞は後醍醐天皇により、しだいに疎ましい存在になります。
後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り、尊良親王を義貞に委任することで官軍の体をつくり、自らは足利軍に降伏します。実際は体よく追っ払われた形でしたが、義貞は両親王を奉じて越前金ヶ崎城に籠城しました。降伏した後醍醐天皇は、足利方の圧迫に耐え切れず、結局大和国吉野に脱出して南朝を開くのですが哀れなのは義貞でした。
金ヶ崎城には、高師泰・斯波高経に率いられた足利方の大軍が押し寄せます。新田軍は奮戦しますが衆寡敵せず1337年落城しました。尊良親王と義貞の嫡男義顕は自害、恒良親王は捕らえられて京に送られます。義貞は弟脇屋義助とともにかろうじて包囲を脱出、越前に落ちました。
越前守護に任ぜられた斯波高経は執拗に義貞を付け狙います。しかし同年秋には勢いを盛り返し新田軍は鯖江合戦で斯波高経を撃破、越前府中を占領しました。1338年、北朝方の平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻撃している味方を督戦するため、義貞は同地に向かいます。ところがその途中、敵の待ち伏せにあって眉間に矢を受け絶命しました。享年三十八歳。
義貞の哀れさは、天下の趨勢とは何の関係もない地方での攻防で、家格が高い一族とはいえ足利氏の家来にすぎない斯波高経に殺されたことにあります。その死は、彼の息子、孫たちの行く末を暗示していました。
新田氏は義貞の三男、義宗が後を継ぎます。越後の新田一族に匿われて育った義宗は幕府内で尊氏と直義の対立である観応の擾乱に乗じて1352年、上野国で挙兵しました。このとき北条氏の遺児である北条時行も参加します。鎌倉幕府滅亡の加害者と被害者の連合は皮肉でしたが、足利氏という共通の敵のために立ち上がったものでした。
武蔵国金井で足利軍に勝利した南朝方は、再び鎌倉を奪取します。が長くは続きませんでした。鎌倉公方足利基氏(尊氏次男)は、父尊氏の軍と合流し反撃に転じます。鎌倉を放棄した義宗は越後に逃亡しました。北条時行は捕らえられ斬られます。
1358年、尊氏の死を受けて再び越後で挙兵しますが、異母兄義興は武蔵矢口渡で謀殺され自身も上野国沼田荘で1368年戦死しました。その子、貞方は陸奥南朝の拠点であった霊山に赴きます。そこで成長した貞方は息子貞邦と共に伊達氏と協力して、北朝方の芦名氏・相馬氏と戦いました。一時奥州で勢力を張った貞方でしたが南北朝合一が成されます。
これに不満を持った貞方は、秘かに関東の旧南朝方に書状を送り決起を促します。しかし戦いに疲れた諸将の一人から鎌倉府に通報されました。貞方父子は鎌倉府侍所千葉兼胤に捕らわれます。
1409年、祖父ゆかりの鎌倉七里ケ浜において嫡男貞邦とともに処刑され、ここに清和源氏の名門、新田氏嫡流は完全に滅びました。
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