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2010年2月18日 (木)

名君 北条泰時

 河井敦著「日本を変えた44人の改革者」(学研)という良書があります。日本史上改革を目指した44人にスポットをあてて、成功と失敗を理由を挙げて考察しています。
 そのなかで、私が面白いと思ったのは鎌倉幕府第三代執権、北条泰時でした。彼は父義時の影に隠れてあまり目立たない存在だったからです。

 北条泰時は父と違い、清廉な人柄だったようです。父義時が幕府の権力を握るために、畠山重忠、和田義盛ら幕府草創期の重臣を罠にかけて、次々と滅ぼしていった手法とちがい、それまでの独裁から御家人たちの合議制を採用したのも泰時でした。

 彼の人柄がよく現れているエピソードがあります。1221年後鳥羽上皇が幕府に対して起こした反乱「承久の変」で泰時は寄せ手の大将に選ばれました。泰時はどうしても上皇と戦うのに抵抗があったと見え、出立したもののすぐ鎌倉に戻って、執権であった父義時に尋ねます。
「もし、後鳥羽上皇がみずから軍を率いてきたなら、私はどうすればよろしいですか?」
それに対して義時はこう答えたといいます。
「上皇が出馬されたら、兜を脱ぎ弓の弦を切ってすぐ降伏せよ。しかしそうでなければ、敵を叩き潰せ」
義時は上皇が出馬するはずがないと読んでいました。これを聞いてやっと泰時は納得し、京に向かったそうです。

 戦は圧倒的な力で幕府軍が勝利しますが、戦に関わった後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を島流しにし、時の仲恭天皇を廃するという義時の過酷な処置を、泰時は終生気に病んだそうです。政治的リアリスト義時と、理想主義者泰時の違いでしょう。
 父の死後、三代執権に就任すると泰時は兄弟たちを大事にし父の遺領もことごとく彼らに与えました。特に義時の後妻伊賀氏の子である政村は、泰時相続のとき伊賀氏を中心とする反乱勢力に担がれようとしましたが、そんな事は気にせず重用したそうです。一族の団結を重視した泰時の態度に、彼らはいっそうの忠誠を誓いました。

 泰時は御成敗式目を定めます。これは以後、武士の基本法となるほど画期的なものでした。この一点だけでも泰時を歴史的に評価しても良いと思います。彼が為政者であった20年間は、御家人たちの支持を受け安泰であったといわれています。1230年の飢饉のときも、自領の富者に米を放出させて農民に貸し出すとともに、返済できない時は自分が弁済するとまで言ったそうです。また質素な生活を心がけ、慎ましい食生活をおくったといいます。
 誠実な人柄だったのでしょう。泰時の代に、鎌倉幕府の支配体制が完全に固まりました。

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