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2010年2月 3日 (水)

戦国時代の仇花 中山国

 中国戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)は秦・韓・魏・趙・斉・燕・楚のいわゆる戦国の七雄が並び立ったまさに戦国時代でした。


 ただそれ以外に国がなかったかというと間違いで、魯・宋・衛・曹などの春秋生き残りの諸国も細々ながら生き残っていました。まあ実質、宋は七雄の燕よりは国力があったと思いますが…。


 そのなかで特異な国とも言えるのが中山です。この国は実は漢民族の国ではありません。今の河北省の中部にあった中山は、遊牧民族ともいわれる白狄の一部族鮮虞部が建国しました。


 古代支那人は、自分以外の周辺の異民族を東夷、南蛮、西戎、北狄と蔑んで呼んでいましたが、私は北狄だからといってすべてが遊牧民族だとはいえないと思います。少なくとも白狄赤狄と呼ばれる諸族は、遊牧というより半農半牧、あるいはかなり農耕にシフトしていた民族ではなかったかと睨んでいます。晋文公重耳に仕え、外戚ともなった重臣狐偃ら狐氏一族は白狄出身と言われていますし。


 そうでないと中原諸国のような国家(この場合は多分に都市国家の意味合いを持つ)は建国できないでしょう。


 今回記事を書くに際し、ウィキペディアを覗いてみたんですがどうも納得いかない一文に出会いました。

問題の個所はここです。

【当初は弱小国であり、紀元前407年には魏の楽羊が率いる軍勢に都を落とされた。しかし、大山の中に逃れた桓公が20年にわたって抗戦を続け、国を復興した。】


 私の理解では、魏の文侯に滅ぼされたあと魏の公族が王になり、新たな中山国として生まれ変わったと思っていたんですが。


 念のために史記を当たってみたんですが、趙世家に「魏の文侯が将軍楽羊を遣わし中山を滅ぼした。そのあと太子撃(のちの武侯)が守備した」という一文があります。

 ウィキペディアの通りだと楽羊の子孫が代々中山の宰相を務めたという事実と矛盾するような気がします。作家の宮城谷昌光さんも「楽毅」のなかで私と同じ見解に立っておられますし。


 魏の征服後、魏の公族が新たに王に立ち代々受け継いだとするのが自然ではないでしょうか。この文章は何らかの歴史的事実に基づいて書いてあるのでしょうか?

 そのような歴史書があれば教えて欲しいと思います。どうも私のような素人考えでは納得できないもので。


 中山は紀元前296年、胡服騎射で有名な趙の武霊王に滅ぼされます。このあたりの経緯は小説「楽毅」に詳しいので興味のある方(いるのか?)は読んでください。



 1974年、中山国都霊寿古城遺跡と中山王陵が発掘されました。出土物を見ると戦国七雄の狭間で国を保ち続けた中山が意外に高度な文化を誇っていた事に驚かされます。


 謎の王国中山の解明は今後の発掘と研究を待たなければならないでしょう。




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 上記のウィキペディアの問題点は、中山三代桓公が中山人か魏人かで解釈が分かれるような気がします。太公望から始まる姜斉が田(陳)氏に乗っ取られた後も国号は「斉」のままだったように支配者が変わっても国の名前はそのままというケースは良くあると思うんです。


 20年にわたって抵抗し国を復興したというよりは、楽羊征服後の中山の混乱を収めるため魏の公族が王に立ったと解釈するのが自然な気がします。中山最初の首都顧から遷都した霊寿はもともと楽氏の領地だったという説もあることですし。


 もっともこれこれこういう歴史書に書いてあるし、発掘調査からちゃんと裏付けもあると指摘されれば、納得できるんですが…。

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