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2010年2月18日 (木)

肥後小国郷と北条時定

 九州の地図をご覧になれば、大分県日田地方は東西は筑後と豊後に接し、南北には豊前と肥後に通じる交通の要衝であることが分かります。実際江戸時代には、この地の重要性から代官が置かれ天領として支配されました。北九州の要といっても良い位置にあり、ここを支配するものが北九州を制しました。

 古代においても同様で、邪馬台国九州説を述べる場合、日田の地は避けては通れません。その日田の南に接する小国(おぐに)と呼ばれる小盆地があります。四方を山に囲まれた要害の地で、日田盆地に下るのも容易です。小国という名の通り、まさに小さな国とも言ってよい地域です。肥後の国のうちに入りますが、独立した小天地でした。
 鎌倉時代、この地は執権北条氏の直轄地でした。承久の乱後、公家領だったこの地を接収した北条氏が、恩賞として御家人に与えずに直轄地としたのは、小国の重要性を熟知していたからに他なりません。日田に容易に進出できる場所でありながら、四境を閉ざせば難攻不落の要塞になりうる地形、それが小国郷でした。黒川温泉や杖立温泉のある地といえばピンと来る人も多いでしょう。

 小国がクローズアップされるのは元寇直後でした。五代執権北条時頼の弟で、八代時宗の叔父に当たる北条時定が鎮西奉行としてこの地に下向します。この地にある古刹、満願寺は文永11年(1274)の元寇の役の際、北条時定が国土安泰を祈願して建てた寺だといわれています。
 時定は肥前守護も兼ねていましたので、常時小国に滞在したかは疑問ですが、九州における北条氏の拠点として位置付けられていたことは確かでしょう。
 時定が没すると弟の定宗、その死後は嫡子随時(ゆきとき)が後を継ぎます。随時は鎮西探題に任ぜられますがわずか三十一歳で亡くなります。その後を継いで鎌倉から下向してきた北条英時が最後の鎮西探題でした。随時の死後、小国領がどうなったのかは不明です。南北朝の動乱を経て南の阿蘇大宮司家領となったのち、小国は完全に肥後領主の勢力下に入りました。

 今は、黒川温泉を初めとする温泉、観光地になりましたが、かっては北条氏の九州支配の拠点だった小国地方、訪れる機会があれば当時に思いを馳せるのも一興です。 

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