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2010年2月18日 (木)

稀代の悪法「生類憐れみの令」

 江戸時代、京の八百屋の娘お辰は、庶民に希な美貌で公家六条有純邸に奉公に上がる事となりました。
 有純の娘お梅が春日の局に望まれて将軍家光の側室として大奥に上がる事となり、お辰もこれに従って江戸に下ります。
 ところが主家の姫の供であったお辰が、何の因果か姫君を差し置いて家光の寵愛を受けるようになるのですから運命は分かりません。よほど美しかったのでしょうが、家光の子を身ごもり、側室「お玉の方」として権勢を振るうようになります。1646年お玉は無事男子を出産しました。徳松と名付けられた赤ん坊こそ、後の五代将軍綱吉です。

 庶民から大出世して将軍の側室となり、子が五代将軍となるのですから、お玉(家光の死後剃髪して桂昌院)が信心深くなるのも止むを得ません。親孝行な綱吉もその影響を受けていました。
 そこへつけこんだのが稀代の悪僧亮賢や隆光らでした。綱吉親子に取り入り、「お世継ぎが生まれないのは殺生を慎まないからだ」としたり顔で進言します。これが稀代の悪法といわれる「生類憐みの令」の始まりでした。

 綱吉も初めは良い政治を行っていたのですが、母に頭が上がらなかったのでしょう。母の勧めでこの悪法を布告します。綱吉とはどういう人物だったのでしょうか?儒学を学び、将軍になるまえ館林藩主のころは名君と讃えられていました。ゆえに子のない兄家綱の跡を継いで将軍に選ばれたのです。
 しかし私は、綱吉は儒学の上っ面だけをなでて、真の学問を学ばなかったのではと考えます。でなければ「生類憐みの令」などという法律が、どのように運用されるか予想がつくはずです。殺生を慎むというなら、まず自分からそれを行い、手本を見せて自然に周囲が学ぶという姿勢をとるはずです。それができなかったからこそ、徳川十五代最悪の暗君として後世指弾されることとなりました。

 城内の井戸に猫が落ちて死に、その責任を取らされて台所頭が遠島になり、犬を殺した罪で俸禄召し上げ、中には死罪となった武士もいました。殺生を戒めるなら人間こそ第一のはずなのに支離滅裂です。子供の病気に燕が効くといわれ、それを射た者が死刑、子供は追放されました。庶民にもその害は及びます。魚や卵を食す事が禁じられシジミ売りの一家が困窮して一家心中にまで追い込まれました。
 あまりの悪法ぶりにたまりかねた水戸光圀(水戸黄門)が、わざと犬の皮20枚を献上して諌めましたが効果はありませんでした。水戸光圀だから助かりましたが、他のものなら綱吉の怒りを買い死罪になるところでした。

 側用人として仕えた柳沢吉保も奸臣で綱吉を諌めるどころか、これに迎合して悪政を助長したのですから最悪です。吉保は綱吉の寵を失った側室を身ごもったまま譲り受けるというおぞましい関係でした。

 この悪法は、綱吉の死まで続きます。甥の家宣が六代将軍を継ぐと、「生類憐みの令」は直ちに廃止されます。あれほど殺生を戒めたのに世継ぎが生まれなかったのは天罰でしょう。柳沢吉保も失脚し幕閣を追われました。

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