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2010年2月18日 (木)

姉川の合戦の謎

 私鳳山が長年疑問に思っている事がいくつかあります。そのうちの一つ、織田信長三大合戦の一つ、姉川の戦いについてです。

 桶狭間(田楽狭間)の合戦は、信長の雄飛を決定付けた戦い、長篠(設楽が原)の合戦は信長の覇権を決定付けた戦いだったと捉えているんですが、この姉川の合戦の歴史的意味がいまいち不明なんです。
 経過を簡単に紹介すると、金ヶ崎の退陣から回復した織田信長が浅井・朝倉連合軍と雌雄を決するために琵琶湖東岸姉川の地で戦いました。
 元亀元年(1570年)6月28日(旧暦)のことです。両軍の兵力は織田軍2万3千、援軍の徳川軍5千。一方朝倉軍一万、浅井軍8千でした。(兵力は諸説あり)

 戦いは姉川北岸に布陣した浅井・朝倉連合軍が緒戦押し捲り、13段あった織田軍の構えを11段破ったほどでした。しかし徳川軍の強襲渡河攻撃と、横山城包囲から援軍に駆けつけた稲葉一鉄ら美濃衆の横槍でからくも踏ん張り、押し返す事に成功します。結果は織田・徳川軍の圧勝に終わりました。

 この結果、浅井・朝倉軍は甚大な被害を受け二度と立ち上がれなくなったと歴史書には書かれています。ところが、その3ヵ月後には浅井・朝倉軍は近江坂本に侵攻、織田家の宿将森可成の籠もる坂本城を落としているのです。その後比叡山に立てこもって織田軍とにらみ合います。(志賀の陣)
 これには、さすがの信長も困って朝廷を動かしやっと講和する始末でした。元亀三年(1573年)の信玄上洛戦の折も、朝倉義景は二万の兵を率いて近江に出陣しています。

 こうなると、姉川の合戦で本当に被害を受けたのか疑問に思います。むしろ秀吉らによる浅井氏重臣への調略で内部がガタガタになったことが浅井氏滅亡の主因であり、朝倉氏に対しては信玄没後の、信長の電撃的な越前侵攻が崩壊の原因ではないかと考えます。
 いろいろ調べてみると、姉川の合戦は後に天下をとった徳川氏が自分の武勇を示すために脚色した可能性が高いのではないでしょうか。織田軍を押し捲った浅井氏の活躍も、浅井氏の血が流れる(お市の方の三女お督(ごう)は2代将軍秀忠の正室、三代家光の母)将軍家にとって都合のよい話ですし。

 姉川の合戦は、巷で言われるほど激しい戦いではなく、痛みわけかひょっとすると織田軍の敗北だった可能性もあるのではないでしょうか。そこまで言うと言いすぎですが、姉川の合戦は歴史で言われるほど重要な戦いではなかったように思います。

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