徳川家茂と皇女和宮
前に最悪の将軍として五代綱吉を挙げましたので、私が最も好きな十四代家茂(いえもち)を書きます。
徳川十三代、家定が亡くなると時期将軍候補として紀州慶福(よしとみ)と一橋慶喜があがりました。時の大老井伊直弼は、政敵水戸斉昭の実子である一橋慶喜を嫌い、慶福を推しました。慶福は名を家茂と改め徳川十四代将軍に就任します。1858年、家茂はわずか13歳でした。
1860年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されます。幕府はこの難局を乗り切るため公武合体を画策しました。家茂の正室として孝明天皇の妹君、和宮の降嫁を願い出たのです。このとき和宮は有栖川宮家の熾仁親王との婚約がなり、婚儀もまもなくという時期でした。初めは拒否していた和宮でしたが、対応に苦慮する兄孝明天皇を見かねて、泣く泣く江戸に下る事を承知します。
1862年、家茂と和宮の婚儀は整いました。十三代家定未亡人で薩摩からきた天璋院との不和が巻き起こります。それぞれ数百人のお付の者を従えたため大奥は緊張しました。しかし、唯一の救いは同い年の夫、家茂でした。聡明で心根の優しい家茂は、和宮の胸中を慮り、優しく接しました。政略結婚ではありましたが和宮は、しだいに家茂を愛するようになります。
ここに微笑ましいエピソードがあります。ある日家茂が庭に出ようとすると草履が乱れていました。それを見た和宮は、とっさに裸足のまま庭へ降り、草履を調えます。これにはお付きの女官たちも驚いたそうです。それだけ家茂を愛していたということでしょう。
家茂は、勝海舟と佐倉順天堂で有名な蘭医佐藤泰然の実子で御典医松本家に養子に入った松本良順を特に愛したといいます。どちらも直言の士で、欲のない大義を重んずる人物です。聡明な家茂は、私利私欲のない二人だからこそ信頼したのでしょう。
勝も家茂を深く慕ったそうです。後年家茂を偲ぶ時は涙を浮かべたと言います。一方、松本良順が最後まで幕府に従い、奥州、箱館(函館)と軍医として参戦し、幕府に殉じたのも、このときの知遇があったればこそでしょう。
家茂と和宮、若き夫婦の安穏の時間はわずかでした。時代は激動のうねりとなって二人に襲い掛かります。禁門の変、そして長州征伐、和宮を江戸に残し、将軍家茂は大坂城に入ります。しかしそこで病に倒れました。和宮は、心配し医者を送ったり、お百度参りをして病気平癒を祈りました。しかし、和宮の献身もむなしく、家茂は二十一歳の短い生涯を終えます。1866年のことです。わずか4年半の結婚生活でした。
和宮に形見の西陣織が渡されます。家茂が出立する時「お土産は何が良い?」といわれて「西陣織を」と願ったまさにそれでした。和宮は西陣織を抱きしめると、奥に入り突っ伏して号泣したそうです。
朝廷は、和宮に京に帰るよう勧めました。しかし、和宮はこれを拒否します。最愛の夫の菩提をともらうため髪をおろし静寛院宮となりました。1867年12月兄孝明天皇も崩御します。
時代はおおきく動いていました。1868年徳川家は朝敵となり、征討軍が派遣されました。皮肉にも征討都督は、かっての婚約者、熾仁親王でした。和宮は運命の非情を嘆いたことでしょう。しかし、彼女は気丈にも徳川家と運命を共にする事を決意します。徳川家の家名存続と、江戸を戦火から救うため必死の嘆願をしました。江戸無血開城の影には、彼女の努力があったことを忘れてはなりません。
1877年、和宮は病気療養のため箱根に滞在していました。その地で時代に翻弄された波乱の生涯を終えます。三十二歳でした。
遺言によって、最愛の夫家茂の傍らに葬られます。二人はようやく安住の地を得たのです。
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