鎮西八郎為朝と雁回山
熊本県中部、かって小西行長の居城があった宇土市に北から下ると左手に雁の形をした山が見えてきます。雁回山(314m)です。
名前の由来は、強弓で有名な鎮西八郎為朝にあります。平安時代末期、都では為朝は乱暴で手のつけられない少年でした。あまりの無法ぶりに父である源為義も庇いきれず、九州へ追放しました。
これでおとなしくなるのならまだしも、為朝は野に放たれた虎のように暴れまわります。肥後の豪族、阿蘇大宮司忠国の婿に収まると、勝手に近隣を切りとりし「鎮西の総追捕使」と僭称するようになりました。
為朝が城を築いたのが雁回山です。もとは木原山といいましたが、毎日強弓で山の上空を飛ぶ雁を射落としたため、雁が恐れをなして山を迂回して飛ぶようになり、そう名付けられました。
ところで、為朝は数年で九州を統一したという伝説がありますがこれは疑わしいです。といいますのも肥後には後に南北朝で活躍する菊池氏や、筑紫には大族原田党といった強力な武士団がいて簡単に制圧する事は不可能でした。個人的な武勇でどうこうできる相手ではありません。しかも彼らは後に有力な平家党となります。味方は阿蘇氏と豊後の源氏方緒方氏くらいでしょうか。南条範夫の小説で、阿蘇山のふもとで平家方の大軍と決戦したというシーンがありますが、もとよりフィクションです。当時平家は九州にそれほど勢力を持っていませんでした。実像はせいぜい雁回山を中心に肥後中部を暴れ回ったというところでしょうか。
ただ、現地の豪族にとっては迷惑この上ない話でした。「鎮西の総追捕使」の僭称を都に訴えたのは案外彼らだったのかもしれません。朝廷は為朝に召喚命令をだしますが、彼はこれを無視します。そのために父の為義が官職を解かれました。それを聞いた為朝は釈明するため、自ら上洛します。そしてそのまま保元の乱に突入するのです。
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