島原城と松倉重政
江戸時代初期を揺るがせた『天草・島原の乱』は、島原の領主松倉重政と、唐津藩飛び地天草領の悪政が引き起こしたものでした。このまま座して死ぬなら、戦って死ぬほうがましだと農民に決意させたものはなんだったのでしょうか?それをこれからご紹介します。
もともとの肥前島原領主は、天正遣欧使節で有名な有馬氏です。当主有馬直純は、はやくから家康に側近として仕え家康の養女を妻にしていました。幕命によるキリシタン弾圧と、家中に根強いキリシタン家臣の扱いに根をあげ、幕府に転封願いを出します。こんなわがままが通ったのも直純が家康の娘婿だったからでした。
有馬氏は日向延岡に五万三千石に加増され移ります。余談ですが、この有馬氏は強運でした。三代清純のときに、お家騒動で一度改易になりますが、すぐ越後糸魚川藩として復活、やがて越前丸岡に封ぜられ幕末に到ります。五万石前後の石高を保ち家を永らえるのですから驚かされます。津軽氏と同様、外様ながら準譜代として扱われ、五代誉純が若年寄、八代道純が老中と幕閣の要職を歴任しました。
空白となった島原の領主として抜擢されたのは、大和五条藩主松倉重政でした。松倉氏はもともと筒井家の家老でしたが、主家が伊賀転封となったときに離れ、豊臣氏に仕えます。重政は目先が利いたため、関ヶ原で単騎家康に味方し功によって大和五条の地を与えられました。
1616年、大阪の陣の功によって重政は、肥前島原四万三千石の領主となります。重政は有馬氏の居城日野江城が南に片寄っているため、新たに島原城を築城しました。この城は、四万石程度の小大名には不相応な巨城でした。連郭式で万を越える人数を収容できるほどでした。
司馬遼太郎氏が「街道をゆく」でこの城を訪れていますが、二の丸に通じる橋を落とせば本丸だけでも籠城でき、本丸の鉄砲が二の丸を撃つためのものだと見て、松倉重政という人物はそうとう臆病な性格ではなかったかと考察しています。たしかに臆病者だからこそ巨城を築き、幕府の顔色を窺いながら統治したのでしょう。
島原城を築くだけでも、領民の負担は相当なものでした。しかも重政は幕府に気に入られるため、与えられた割り当て以上に天下普請に人夫を送り込みました。費用も割り当て以上だすというおべっかぶりで、その負担は当然、領民にかかりました。
さらに将軍家光に、キリシタン対策が甘いと指摘されたため、弾圧は過酷なものになりました。紹介するのも不愉快ですが、税を払えない農民に蓑を被せて火をつけ「蓑踊り」と称したり、雲仙の地獄に生きたまま突き落とすといった惨たらしいものでした。この暴政は息子の勝家の時代も続きます。
キリシタン信者の多い島原の農民は、我慢の限界に達しました。南の天草でも同様の圧政が続き、「どうせ死ぬなら戦って死のう!」と立ち上がりました。これが「天草・島原の乱」です。
天草四郎という少年を祭り上げた一揆勢は、天草富岡城の攻略に失敗した事から島原で合流、松倉氏の島原城を攻撃します。しかし、さすがに島原城は堅城でした。攻めあぐねた一揆勢は、有馬氏の廃城であった原城に籠もりました。一揆勢三万七千。
幕府はことの重大さを察し、近隣諸大名に出陣を命じました。最終的には十二万もの大軍が、原城を囲みます。血みどろの戦いの末、一揆勢はことごとく(内通した絵師以外)斬り殺されました。
松倉勝家は責任を取らされて斬首。江戸時代を通じても大名の斬首は異例です。それだけ幕府は松倉氏の失政を重く見ていたのでしょう。しかしキリシタン弾圧は、この後も続き多くの犠牲者をだしました。
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