神聖ローマ帝国の選帝侯
選帝侯(せんていこう、独: Kurfürst)とは、神聖ローマ帝国において、ドイツ王ないしローマ王(すなわち神聖ローマ皇帝)に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。
- ウィキペディアより -
皆さんは選帝侯という言葉を聞いたことがありますか?世界史をまじめに勉強した人以外覚えていないと思います。文字通り神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶ諸侯のことです。ただ調べてみたら皇帝ではなくドイツ王を選ぶ選挙みたいですね。実質ドイツ王が神聖ローマ皇帝に戴冠するので選帝侯で良いような気がしますが(苦笑)、こだわる研究者は選挙侯あるいは選定侯と呼ぶそうです。
1198年から1806年まで続いた制度で、ローマ教皇インノケンティウス3世が神聖ローマ皇帝を牽制するために『ドイツ王になるにはマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯の賛同が不可欠であると定めた』のが始まりみたいです。
私の理解では
マインツ、ケルン、トリエルの三司教と世俗君主であるブランデンブルグ辺境伯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン選帝侯、ボヘミア王の七選帝侯がずっと続いたと思っていたんですが、調べて見ると幾度か変遷があったようです。
まずプファルツ選帝侯が、30年戦争の時新教側に付いたので選挙権と封土を剥奪されてバイエルン侯に与えられます。バイエルンは皇帝側に付いたのでその報酬というわけでしょう。戦後プファルツ選帝侯に改めて選帝侯の権利を与えられますが、それは以前のものではなく改めて第8番目としての地位でした。
あと30年戦争時にブランシュバイク公が活躍しますが、これがハノーヴァー選帝侯になったみたいですね。1692年に選帝権を獲得します。ちなみにハノーヴァー公国は1714年以来イギリス王位(ハノーヴァー朝→ウィンザー朝)も獲得します。ヴィクトリア女王の前までは同君連合だったそうです。知らなかった…。
サリカ法典(ゲーム「クルセイダーキングス」で出てきますね!)で女子の継承を認めていなかったのでヴィクトリア即位の時に分枝したそうです。
ハノーヴァー朝の成立が、イギリスがドイツ情勢に本格的に介入してくるようになったきっかけかもしれません。その前からいろいろちょっかいは出してましたが(苦笑)。
イギリス(イングランド)という国は昔から大陸情勢に介入するのが好きですね。ブリテン島が貧しくて島だけではやっていけないからでしょうか?イメージ的にも豊かなフランス、貧しいイギリスですもんね。イギリスが豊かになったのは産業革命以降かもしれません。
こうやって見てくると、歴史は意外なところで繋がってるし興味は尽きませんね。
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