「四条畷の合戦」 - 大楠公の遺児、楠木正行最期の戦い -
太平記のクライマックス、湊川の合戦に向かう楠木正成が死を覚悟して、嫡子正行(まさつら)と桜井の駅での別れる場面は、読む人に涙を誘います。このとき正行はわずか十一歳でした。
父正成は湊川で戦死、仇敵足利尊氏はこの悲劇の英雄の死を悼み遺骸を丁重に妻子のもとに送り届けます。これを見た正行は発作的に自害しようとしたと伝えられますが、母の必死の諫めを受け思いとどまりました。
それから十年あまり、楠木一族は所領のある河内で雌伏の時を過ごします。時代は懐良親王の征西府大宰府政権という例外はありましたが、北朝足利幕府の伸張の前に、南朝勢力は劣勢を強いられていました。
時に正平二年(1347年)八月十日、二十三歳の若武者に成長していた正行はついに兵を挙げます。太平記では、この年が父正成の十三回忌に当たっていたからだと説明していますが、客観的な情勢として足利幕府内で尊氏の弟直義と、権臣高師直の対立が先鋭化し混乱していたことが大きな理由だったと思います。
楠木軍は三千騎、おそらく全軍でしょう。住吉・天王寺に進出、あわてた幕府は細川顕氏にこれを迎え討たせますが、河内池尻で敗北します。正行はさらに藤井寺でも父譲りの奇襲戦法で、細川軍を散々に撃ち破りました。
楠木軍は破竹の勢いで攻め上ります。事態を憂慮した幕府は高師直に六万の大軍(資料によっては八万)を与えて楠木軍に当たらせます。
両軍は四条畷でぶつかりました。正平三年正月五日のことです。正行はすでに死を覚悟していました。大軍の前には少々の奇襲戦法など何の役にもたたないと悟っていたのです。彼は父の武名に恥じない戦い、それだけを念頭において合戦に挑みました。
早朝から始まった戦いは、劣勢の楠木軍が真っ向からぶつかり一進一退の激戦となりました。捨て身の楠木軍はついに敵将、高師直の本陣に肉薄します。あと一息で師直を討ち取るところまでいきましたが、家来が身代わりとなって戦死、師直は遁走しました。
しかし、楠木軍の攻勢はこれまででした。戦いはすでに夕刻になっていました。楠木軍の兵で傷を負っていない者は一人もいませんでした。
もはやこれまでと覚悟した正行は、弟正時と刺し違えて自決します。その遺骸の上には三十二人の兵が後を追って折り重なって自害したといいます。
北朝側は、正行敗死の報をうけて、ようやく安堵したそうです。楠木軍がいかに北朝方から恐れられていたか、これで証明されます。ただ、楠木軍だけの力では、北朝優位の流れは一時せき止める事はできても、流れを変えるほどの力はありませんでした。
この後、楠木氏は弟の正儀が継ぎますが、一時強勢になったものの振るわず、正儀以後は何度か挙兵しそのたびに鎮圧されました。そして足利幕府が全国を制圧していくのと反比例するように挙兵の規模は小さくなっていきます。
最後は、伊勢に勢力を持った北畠氏を頼って落ちていったとも、自然消滅したとも伝えられています。残党は諸国に散っていったことでしょう。その行方は今や掴む事はできません
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