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2010年3月

2010年3月29日 (月)

大久保長安の埋蔵金

 世間では徳川埋蔵金などと騒ぎますが、伝説の域をでません。それより可能性が高いのが江戸時代初期に佐渡金山、石見銀山などの奉行を務めた大久保石見守長安の埋蔵金でしょう。

 武田家にその経理の才で猿楽師から取り立てられた長安は、武田滅亡後、徳川家康に見出されまず大久保忠隣の与力に任ぜられます。このとき大久保の姓を賜り大久保長安と名を改めました。
 徳川政権下でも、その実務の才を重用され直轄地の代官などを歴任します。1591年には八王子の地に8千石を与えられ、佐渡金山、石見銀山などの奉行・代官を兼任するほど家康に信任されました。

 当時金山などでは幕府に収める金銀の量と自分の取り分は折半でした。そのかわり人夫などの人件費など諸経費は本人の負担です。長安は外国から新しい技術を導入し経費を浮かせる事で莫大な富を手にすることができました。

 長安は莫大な資産を蓄え、その富は大名や将軍さえ凌ぐものといわれました。長安の生前は、苦々しくは思いつつも家康は黙認していました。しかし、その死後本多正信父子によって長安が不正に蓄財していたと讒言されると、家康の怒りは頂点に達しその遺体を磔にしたばかりか、遺児7人を含む一族郎党30余名を打ち首獄門にするという徹底さでした。

 長安が反逆を企んでいたというのがその理由でしたが、これは幕府内の大久保忠隣を中心とする武断派と本多父子を中心とする文治派の暗闘の結果でした。それはともかく、家宅捜索された長安の屋敷からは黄金70万両をはじめとする莫大な遺産が発見されます。

 しかし、このことがあると予見していた長安は、その莫大な財産のほとんどをかって自分が代官をしていた箱根に隠したといわれています。これがいわゆる『石見守の秘宝』です。

 この埋蔵金も徳川埋蔵金とおなじく、諸説があって混乱しています。しかし、戦前の有名な宗教家で預言者でもあった出口王仁三郎は、「箱根に埋蔵金があるのは確かだが、関係者の執念がついていて、時期がこなければ発見できない」と語っています。

 もし見つかったら、驚くべき財宝だと思います。呪いがかかっているのは怖いですが、見てみたい気もします。
 

大江広元  - 鎌倉幕府を確立した男 -

大江 広元(おおえ の ひろもと、久安4年(1148年) - 嘉禄元年6月10日(1225年7月16日))は、最初は朝廷に仕える下級貴族のいわゆる官人であったが、関東に下り鎌倉幕府に仕え、政所初代別当(長官)となった。備後守護長井氏の始祖であり、江戸時代栄えた酒井氏の先祖でもあるといわれる。また毛利氏も末流にあたる。官位は正四位下行陸奥守。

広元は藤原光能の息子であると言われている。母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたため、中原広元(なかはら の ひろもと)と呼ばれることもある。後に学問の大家であると言われた大江維光の養子となって、そのもとで太政官の書記を務めたという。広元はこのような経緯から知恵者として育っていったのである。

広元には兄の中原親能がいた。親能は源頼朝と親しく、その縁から元暦元年(1184年)に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所別当として辣腕を振るった。文治元年(1185年)に頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。

正治元年(1199年)の頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与する。承久の乱のときも、長男 大江親広が官軍側につき、親子相克するも、広元はあくまで幕府軍の側に立って朝廷との一戦に慎重な御家人を鼓舞、主戦論を唱えた北条政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。

                         - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -

 一文字三星、この紋所どこかで見たことはないですか?そう戦国時代、中国地方に勢力を張った毛利氏の紋所です。毛利氏は、大江広元の子孫とされます。

 大江広元と聞いて、ピンと来る人はかなりの歴史通です。一般にはあまり知られていないと思います。しかし、彼の果たした役割は非常に大きいものでした。

 代々学者の家柄だった大江家は中央での出世の道は閉ざされていました。兄の縁で鎌倉の源頼朝に仕えるようになると、彼はその側近として謀才を十二分に発揮します。

 義経追討を名目にして、朝廷を脅し全国に守護・地頭を設けさせたのは広元の献策でした。また都の情報を分析し頼朝に報告するのも彼の役目でした。有職故実に通じ、都の情勢にも明るい広元は、頼朝にとってなくてはならない存在となっていました。

 鎌倉幕府が、遠国にありながら的確な判断で対後白河法皇の外交戦に勝利し続けたのは鎌倉に大江広元がいたからだと言っても過言ではありません。当時、都には人材がいました。広元や実務に明るい三善康信らです。それらが皆鎌倉に去ってしまったことは、朝廷の没落を象徴していました。

 頼朝が天下総追捕使(実質上の天下人)に任ぜられ、公文所を改組して政所を置いたときには、広元は初代別当(長官)になります。さらに明法博士、左衛門大尉(だいじょう)に任ぜられ、検非違使を兼ねるようになりました。

 時の関白、九条兼実は「大江家は代々儒学の家だ。それが左衛門大尉、検非違使を兼ねるとは秩序の紊乱ではないか」と怒りますが、それが時勢の流れでした。頼朝の絶大な信頼のもと、幕府内の実力者になっていた大江広元は朝廷でさえも一目置かなければならないほどの存在になっていたのです。

 頼朝の死後も、広元は鎌倉幕府の確立に尽力しました。北条氏と結び、幕府のためにならぬと判断すれば、たとえ頼朝の子供達であれ容赦しませんでした。

 朝廷側の最後の反撃である承久の変でも、後鳥羽上皇に弓引くことに躊躇する鎌倉御家人たちに対して、「断固戦うべし」と主張したのも広元でした。この言葉に勇気づけられた北条政子の演説によって御家人達が動かされ、勝利をあげることができました。

 広元は、朝廷に長く仕えていたため、(上皇も含め)貴族達が言葉では勇ましい事を言っても、からっきし勇気がなく、いざとなったら逃げるという習性を知り尽くしていたのでしょう。

 大江広元は1225年、77歳の長寿を保って入寂します。鎌倉幕府の成立、そして安定化を見事に図り満足した一生だったことでしょう。

 大江氏はその後備後守護に任ぜられますが1247年の宝治合戦で庶家の毛利季光が三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまいます。しかし生き残った一族の末裔に毛利元就という謀略の天才を生みました。

 どこか広元と元就は似通った面があります。やはり血筋なのでしょう。

土佐一条氏

 伊勢の北畠氏、飛騨の姉小路氏とともに三国司と称される家柄。れっきとした公家、それも五摂家の一つという高貴な家柄です。戦国期の土佐に君臨し、最後は長宗我部元親に滅ぼされる土佐一条氏には興味がありました。

 いままで私は、土佐一条氏を五摂家から別れ土着した一族だと思っていたんですが、調べてみるとそれが誤解であった事に気付きました。血脈をみるとむしろ土佐一条氏の流れが現代まで続いているみたいです。(途中、天皇家から養子に入ったりはしてますが)

 そもそも土佐一条氏は、1475年に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市)に下向したのに始まります。

 応仁の乱の戦火を避け奈良に疎開した一条兼良は、一条家の経済基盤を整えるため嫡子、教房を所領のあった土佐国幡多郡に下向させます。同時に教房の嫡子(兼良の嫡孫)政房を同じく所領のあった摂津福原荘に派遣しました。

 しかし政房のほうは、兵乱にあって殺されてしまいます。兼良や教房の悲嘆はいかばかりだったでしょう。しかし、父教房のほうは、なんとか幡多郡を中心に支配体制を固める事に成功しました。

 一条家は、もともと嫡流の政房が継ぐ予定でした。しかし不慮の事故で亡くなったため、教房の弟、冬良が継ぐこととなります。
 
 教房は土佐の領国経営に一生を捧げますが、この地で房家という子を設けてしまいます。これで話がややこしくなりました。

 家督は叔父である冬良が継いでいるため、房家は出家することとされていました。ところが名君と慕われた教房が五十八歳で亡くなると、土佐の国人衆が運動して出家するはずの房家を元服させてしまったのです。国人衆にとってみれば、都の一条家に支配されるよりは、教房の血を引く房家に直接統治して欲しかったのでしょう。

 都の一条家も、所領が他人に奪われるよりはと、困惑しながらも認めざるを得ませんでした。これが土佐一条家の初代です。さて一条宗家ですが、当主の冬良に子がなかったため、房家の次男、房通を養子に迎え家督を継がせました。

 これで房家は土佐と京の両方の一条家の祖となります。貴族とはいえ、領地を支配していくうちに戦国大名化していきました。

 永正五年(1508)、長岡郡岡豊城主の長宗我部兼序が、吾川郡の本山氏、吉良氏、香美郡の山田氏、高岡郡の大平氏らの連合軍に攻められます。驕慢の振る舞いから、周辺豪族達の反感を買っていたようです。連合軍の攻撃にさすがの兼序も敗れて自殺し、一子千雄丸を家臣に託して一条房家に庇護を求めました。房家は千雄丸を憐れんで庇護し、養育、長宗我部氏の再興に尽力します。

 房家の肝いりで、成長した千雄丸は奪われていた所領を返してもらいます。これが元親の父、国親です。そのような大恩があるにもかかわらず、一条氏は長宗我部元親に滅ぼされてしまうのですから哀れです。

 確かに房家の代が土佐一条氏の絶頂でした。その後は幼少の当主が続き衰退していきます。房家の曾孫にあたる兼定の時代に、ついに一条家は滅ぼされました。一条氏の血筋は、傀儡として何代か続きますが、中村御所、土佐一条氏としては兼定が最後でした。

桶狭間(田楽狭間)の合戦の疑問

『桶狭間合戦』

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を壊走させた、歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な戦いである。東海地方に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで、戦国時代の重要な転機となった。

                       - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -

 織田信長の雄飛を決定付けたあまりにも有名な桶狭間の合戦。2万5千の今川勢にわずか2千の寡兵で奇襲し、みごと義元を討ち取った大番狂わせとして史上名高い戦いです。

 しかし、私はこの戦いに疑問を持っているんです。海道一の弓取りと言われた今川義元が、なぜ桶狭間という谷に陣を構えただろうかというのが一つ。
 本陣を奇襲されたとはいえ5千はいた今川勢が、なぜ半分以下の織田勢に敗れたのか?
 
 色々調べていくうちに、今川勢が本陣を構えたのは桶狭間山だったということ、織田勢の来襲は見えていて、奇襲というよりむしろ強襲だったということなどが分かりました。

 しかし、そうなるとますます織田勢の勝利は難しくなります。今川勢が惰弱だったという説もありますが、今までの経過はむしろ今川方が三河から織田勢力を追い出し、尾張に進出するという勢いだったのでこの説は納得できません。国力も今川方は駿・遠・三に尾張の一部を領し80万石以上だったのに対し、織田は尾張半国20万石余りで4倍以上の開きがあります。

 それなのに勝ったのは信長でした。この長年の疑問はNHKの「そのとき歴史が動いた」でなんとなく解けたような気がします。
 今川義元が討たれたのが山上でなく、田楽狭間だったということを紹介していました。私の想像では桶狭間山から大高城その他の戦略拠点に本陣を移す最中だったのではないかと考えます。
 これなら、納得します。的確な情報網によって、今川軍が本陣を移そうとしているという情報を掴んだ織田軍が奇襲をかけた。なるほどこれなら寡兵でも倍以上の大軍に勝てます。敵は移動の最中、勢いよく駆け上がって山上から攻めかかれば、非常に有利な体勢になります。
 織田軍の勝機はたしかにこの瞬間しかなかったでしょう。

 反対に、今川義元にとってみれば非常に不運な敗北でした。もっとも、移動していた織田軍を味方と誤認にていた可能性もあります。追い詰められた織田軍がのこのこ敵の目の前に現れてくるはずがないという心理的な奇襲だったともいえます。

 織田信長の偉いところは、この勝利に驕る事なく以後は敵より必ず有利な兵力・態勢をもって望んだというところでしょうか。

黄金の国ジパング

 数年前、世界遺産の番組で石見銀山を紹介していました。なかなか興味深く見させていただきましたが、調べていくうちに鉱山そのものに関心が移りました。
 
 ところで皆さんは菱刈金山というのをご存知ですか?私も名前だけしか知っていなかったのですがとても凄い金山だったのです。
 鹿児島・宮崎・熊本の県境に近い大口盆地。そのはずれの菱刈町で金鉱脈が発見されたのは、近代も近代1981年のことでした。1985年本格採掘開始、1997年までの12年間で総産出量83t。どれほど凄いかといいますと、有名な佐渡金山が300年かけて採掘した金の量を上回るそうです。その推定埋蔵量250t。
 鉱石1tあたりの金の含有量約60g(通常は5~6g、多くても10g)というたいへん有望な金鉱脈です。菱刈金山の産出量は日本全体の9割を占めるほどだそうです。

 日本は火山国なので火山活動がさかんです。マグマの働きによって金を含む熱水が岩盤の割れ目から地上に噴き出します。その過程で金は石英とともに沈殿し石英脈ができます。このような場所を金鉱脈というそうです。

 地表に現れた金鉱脈はほとんど取り尽されたそうですが、技術の発展により地下に眠る金鉱脈の探査が可能になってきました。今後新たな金鉱脈が発見されるかもしれないそうです。
 世界最大の産金国南アフリカは、まもなく資源が枯渇するといわれています。本当に近い将来、黄金の国ジパングが出現するかもしれません。なかでも九州は有望な金鉱脈が眠っている可能性が高いそうなので、うちの実家の近所の山を探してみよう!(笑)

倶利伽羅峠の合戦    - 木曾義仲の将器 -

 皆さんは源平合戦期における一番の戦上手は誰だと思いますか?頼朝は政略家ではあっても戦下手ですから、平清盛か源義経、木曾義仲の三人に絞られると思います。

 清盛もどちらかというと政略家の比重が重いため、義経か義仲のどちらかになるでしょう。作家の柘植久慶さんは、著書「源平合戦・戦場の教訓」のなかで義仲に軍配をあげています。義経がつねに少人数による奇襲を多用し、堂々たる野戦の経験がないのに対して、義仲は横田河原、般若野、倶利伽羅峠の三つの合戦で勝利し評価は高いそうです。

 特に木曾冠者源義仲が、平家十万の大軍を破った倶利伽羅峠の合戦は、有名な「火牛戦法」のエピソードもありますが、その前にすでに勝敗は決していたと指摘しています。

 般若野の前哨戦で敗れた平家軍は越中・加賀の国境倶利伽羅峠で木曾軍を食い止めようとします。しかし平家軍の総大将、平維盛は総勢十万を礪波山に七万、志雄山に三万と配置し山岳地帯の要害に陣を構えてしまいます。これが愚策中の愚策でした。
 木曾軍は勢いに乗るとはいえ半分の五万しかいません。大軍の戦い方としては数で押す以外にありません。ところが山岳地帯で戦っては、その数の優位を生かせないのです。自分も防御に有利ですが、戦場の心理として、守りに入った軍は勢いがなくなります。

 慧眼にも平家の弱点に気付いた義仲は、街道と山道をすべて押さえると逆に少数の兵で迂回して包囲する形をとりました。これで勝負あったと柘植さんは指摘するのです。「火牛戦法」の奇襲策はその総仕上げにしかすぎません。平家軍は奇襲を受け、群衆心理で谷底に向かって敗走し壊滅的打撃をうけます。
これで都までの道が開かれた木曾軍は、破竹の勢いで進撃しました。

 では、平家軍はどのように戦ったら勝機があったでしょうか?柘植さんは倶利伽羅峠の前方にある小矢部川の線を防衛拠点にすべきだったと述べています。
 そのうえで小矢部川の渡しを一時明け渡して、木曾軍に渡河を許し山裾に布陣した予備部隊で包囲攻撃すれば木曾軍を殲滅することも夢ではなかったそうです。確かに地図をみると納得できます。

 この作戦こそが、木曾義仲が最も嫌った展開でした。しかし平家軍には、これを実行する能力を持った武将がいなかったのです。平家は清盛以外、まともな武将がいなかったのでしょう。滅亡は仕方のないことだったと思います。

「壇ノ浦の戦い」 - 負けるべくして負けた平家 -

 作家柘植久慶さんの「源平合戦・戦場の教訓」は、源平合戦を軍事的観点から考察した良著です。なかなか考えさせられる記述が多いのですが、壇ノ浦の戦いが平家の軍の組織的欠陥によって滅びたという記述は、私も薄々感じていたために納得させられました。

 一の谷、屋島で連敗した平家は、この壇ノ浦が最後の決戦場でした。にもかかわらず平家は甘い覚悟で挑みます。それは女官をはじめ家族と同道して戦いに赴いたのです。柘植氏は第二次インドシナ戦争における南ベトナム政府軍を例に挙げ、家族と同道した軍隊は家族の安全を気にかけ、ある程度激戦になると逃げることを考え始めるということを指摘します。逆に1836年アラモの攻防戦では、籠城するテキサス独立軍が家族をすべて退去させ全滅するまで戦ったという例を挙げます。

 この場合、安徳天皇はともかくとして、女官や家族達は後方の彦島に退去させ、もし戦いに敗れたら全員自害して果てるという覚悟を示していたら、勝敗の行方も分からなかったそうです。私もまったく同感です。どうも平家は、あまりにも貴族化しすぎ武士としての戦い方を忘れてしまっていたのでは?と想像してしまいます。水鳥の飛び立つ音を敵襲と勘違いして雪崩をうって壊走するはずです。

 柘植氏によれば、家族と同道する軍隊は軍事後進国に多いそうです。平家は軍隊としては失格の集団だったのでしょう。平家贔屓なだけに残念ですが、歴然とした事実です。

徳川家康と世良田次郎三郎の謎

 隆慶一郎の小説に「影武者徳川家康」という本があります。徳川家康が実は関ヶ原の合戦で西軍により暗殺され、影武者と入れ替わっていたという内容で、新潮社から上・中・下巻の3巻が発行されています。

 入れ替わったとされるのは、世良田次郎三郎なる人物で三河一向一揆で本多正信と共に家康と戦ったササラ者の頭でした。容貌が家康とソックリだということで影武者になったといいます。

 もちろんこの話はフィクションで世良田次郎三郎という名乗りは、家康の祖父清康のときから称していたそうです。世良田氏というのは架空の名前ではなくれっきとした新田源氏の一族で、南北朝時代に三河国で最後の当主が没したという伝説があり、三河ではそれなりの権威をもっていたそうです。
 その世良田氏の名前をあやかり(私は血統的には無関係と見ます)、松平氏の通り名である次郎三郎をつけたのは清康の三河統一の意思の表れでしょう。

 ところで家康が途中で亡くなり影武者と入れ替わったという説は、この関ヶ原の時期だけではなく大坂夏の陣のとき、あるいは松平元康から徳川家康に名前を変えた時期など諸説あります。その中で有力なのは松平=>徳川になった時期です。

 真偽のほうは定かではないのですがなかなか興味深い説であることは間違いありません。これは明治時代に村岡素一郎という人が書いた「史疑徳川家康事蹟」が元になっています。南條範夫の「三百年のベール」八切止夫の「徳川家康は二人だった」はこれをもとに書かれた作品です。
 どちらも読みましたが大変面白い本でした。両者が指摘するのは、いくら信長の命とはいえ正妻の築山御前と嫡子の信康を簡単に斬殺するだろうかという疑問です。史実では家康の酷薄な性格がなせるもので片付けていますが、将来を嘱望された大事な跡取りですよ。処刑したとしてどこかに匿っておき、ほとぼりがさめてから出すという方法もなくはありません(例 黒田長政[松寿丸])。

 家康と信康の間に血がつながっていないとすれば納得できます。いや、むしろ信長の命を奇禍として正当な後継者である信康を抹殺することは家康にとってまことに好都合なことだったと思います。

 八切止夫の「徳川家康は二人だった」で詳しいのですが家康が晩年「自分は幼少の頃、銭五貫で駿河に売られたことがある」と語ったといいます。史実では五百貫で尾張の織田信秀に売られたとなっていることですが、これはどう見てもおかしな話です。しかし「駿府政事録」という林道春(羅山の祖先)が直接家康から聞いた話を記した本に書いてあるので史実だと思います。
 また尾張藩の編纂した諸資料には、徳川家康と松平元康は別人で合戦したこともあるという文章や、守山崩れは祖父清康の時代ではなく元康の時代の話で、そのあと別人(この場合は徳川家康)が松平家を乗っ取ったという記述があるそうです。このために尾張藩は幕府の逆鱗に触れ、御三家筆頭でありながら将軍を一人も出さなかったという俗説もあります。

 はたして真実はどこにあるのでしょうか?私は半信半疑なのですが、もし真実だとしてもおかしくはないという立場です。

私論 「三河 松平一族」

 徳川300年の源流とも言うべき三河松平氏には興味が尽きません。私なりに歴史をまとめてみました。ただし、独断と偏見で決め付けているところはご容赦ください。

 松平氏発祥の地である松平郷は巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたります。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 南北朝末期、この地に一人の漂泊の僧が訪れます。名門新田源氏世良田氏の末裔と称するこの時宗の遊行僧は名を徳阿弥と言いました。
 戦乱の世です。しかし後の戦国時代と違ってかろうじて家柄がものをいいました。もちろん彼が本当に世良田氏の末裔だったかどうかは誰も分かりません。史書によると実際に宗家の新田義貞に従った世良田氏最後の当主政親が、転戦の末この三河の地で没したという伝承がありました。
 その世良田氏を騙るのは、何の後ろ盾もない徳阿弥にとって有利だったのでしょう。得意の弁舌によってこの地を治める土豪松平氏の婿養子におさまった徳阿弥は、還俗して松平親氏と名乗ります。これが松平初代です。

 もともと松平氏は賀茂神社の氏子で葵の紋を使用していました。まさかこの紋所が後に天下で最も高貴な紋章になるとは誰も思わなかったことでしょう。

 松平氏は三代信光のときに南方の平野部に進出し十八松平と称される分家を各地に配し支配を固めます。そのなかで安祥城に拠った次男親忠の家系が有力になり、松平宗家となりました。この安祥松平家はしばらく内紛が続きますが、七代清康の時代に絶頂期を迎えます。

 十四歳で家督を継ぐと、1524年三河守護代であった西郷氏を山中城に滅ぼし西郷氏の所領であった岡崎の地に城を築き本拠と定めました。軍を四方に派遣しほぼ三河を統一する勢いでした。しかし1535年尾張進出をもくろみ守山城を攻めたとき、家臣の阿部弥七郎に斬りつけられ殺されます。(守山崩れ)
 享年二十五歳。英雄になったかもしれない男のあっけない最後でした。癇癖であったため家臣の信望がなかったとも言われています。このあたり後の織田信長にも似ていますね。

 大黒柱を失った松平家は、息子の広忠があとを継ぎますがわずか十歳であったため隣国駿河の太守、今川義元に庇護を頼みました。今川氏はこれを好機として三河支配を固めます。松平主従の苦難は広忠の息子、元康の時代まで続きました。ようやく独立を勝ち取ったのは1560年、今川義元が桶狭間で信長に討ち取られた後でした。
 
 松平元康、後に天下を統一する徳川家康その人です。

乃木希典と西南戦争

 明治十年に起こった日本最後の内戦、西南戦争。北上する薩軍は谷干城少将を守将とする熊本城を攻めあぐね、一部の押さえを置いたまま主力は植木方面に進出します。明治新政府は、各地の鎮台から兵力を集結しこれに当たろうとしますが、とりあえずは小倉第十四連隊を南下させ時間稼ぎさせる作戦にでました。

 連隊長、乃木希典少佐(当時)は無謀にも突出し植木で薩軍とぶつかります。戦闘は大敗、軍旗まで奪われるという恥辱まで加えられて木葉山の枝峰にあった稲佐山に籠城しました。戦国時代の山城跡で、現国道208号線側からみると比高30メートルくらいあって、なかなかの要害です。しかし、ここを訪れた人なら分かりますが、木葉山の峰伝いから攻めると案外もろいことに気付きます。
 おそらく戦国時代当時は、この弱点に気付いていたはずで堀切などで遮断していたと思いますが、乃木連隊の場合は、野戦築城の時間はなかったはずです。

 私が理解に苦しむのは、植木の戦場に近いここでは防御工事もできず籠城する意味がなかったのではと考えます。それよりも野津鎭雄少将の第一旅団が南下していたはずなので、もっと北上して菊池川の線まで後退していれば合流もしやすいし、遅滞戦闘で薩軍を苦しめることもできたのではないかと思います。
 実際、稲佐山の戦闘は薩軍の木葉山側からの夜襲で一日で決着がつきます。敗走した乃木連隊は、玉名市石貫で、南関から南下してきた第一旅団に拾われ窮地を脱しました。

 そして玉名市高瀬の地で、集結した官軍と、最大進出線の薩軍が激戦を繰り広げることになります。高瀬の戦闘で敗北した薩軍は、勝利の機会を永遠に失うこととなり、有名な田原坂の戦いに続くのです。

 乃木希典は日露戦争、旅順要塞攻略戦でも失敗を繰り返します。精神指導者としての乃木は、尊敬に値する人物ですが、厳しい言い方ですがどうも近代戦には疎かったのではないでしょうか。戦術的センスがなさ過ぎます。

 そういえば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にあったエピソードですが、演習で児玉源太郎と戦った乃木は、あっというまに児玉に破られても、しばらく敗北に気付かなかったそうです。日露戦争、203高地の悲劇はこの植木、稲佐山の戦闘にすでに萌芽があったような気がしてなりません。

『錦の御旗』 - 自ら招いた幕府の敗因 -

 1867年、徳川十五代将軍慶喜は大政奉還によって政権を朝廷に返しました。しかしその数日前に『倒幕の密勅』を受けていた薩長側は、あくまで武力討伐路線を棄てず、結局両者は1868年1月3日鳥羽伏見において激突することとなります。いわゆる戊辰戦争の始まりでした。

 両軍の兵力は、薩長側五千に対して幕府軍一万五千。火力に優れているとはいえ薩長軍が圧倒的に不利でした。初日の戦闘は幕府軍有利のうちに終り、いったん淀城にしりぞいた幕軍は再び鳥羽伏見に押し寄せます。
 そのときでした。薩長軍の陣頭に数流の旗が翻りました。錦地に鮮やかな金で菊の御紋がの刺繍してあります。いわゆる錦旗でした。
 これを見た幕軍将兵は自分達の立場を悟ります。薩長が官軍、自分達が賊軍であると。士気は一気に崩壊、総崩れとなりました。いったん淀城まで退いて体勢を立て直そうとした幕軍でしたが、城門は固く閉ざされたままでした。
 この淀城は、現役の老中、稲葉正邦の居城です。それが藩主不在のまま寝返るのですから、錦旗の威力は計り知れません。しかも山崎を守っていた伊勢津藩藤堂勢までが寝返る始末。いままで薩長に向いていた砲門が、逆に幕軍に向けられました。幕軍は雪崩をうって大坂城まで逃散します。

 これでは、将軍慶喜が抗戦の意思を失うのも肯けます。大坂城で籠城したところで、朝敵という汚名は歴史が続く限り被せられます。それほど錦旗の官軍の威光は凄まじいものでした。


 ところで、ここまで日本人の深層心理に植えつけられた意識は、例えば戦国時代にはないものでした。徳川幕府が、自分の支配に都合のよい学問、朱子学を押し付けたのがそもそもの原因です。朱子学のいう大義名分論は、行き着くところ将軍ではなく天皇、朝廷を重んずる思想になります。朱子学を修めれば修めるほどそうなるのは必然です。いわば将軍は、正当な日本の主権者である天皇の実権を奪った簒奪者と考えるようになっていきます。この思想は、将軍慶喜までが影響を受けるようになりました。
 支配の論理であった朱子学は、ついには大元である幕府権力さえも空洞化してしまうという恐るべき反作用があったのです。

 その意味では、幕府を滅ぼしたのは幕府自身でした。まさに歴史の皮肉と言えます。

私が一度は行ってみたいところ - 宮崎県椎葉の里 -

 1185年壇ノ浦の合戦で滅びた平家。その残党は日本各地の山奥に逃れたと伝えられます。猜疑心のつよい源頼朝は、鎮西総奉行天野遠景に命じて平家残党を追捕させました。
 実際上は、平家追捕を隠れ蓑にした西国へ対する鎌倉幕府支配権確立が主目的ではありましたが、もちろん平家残党狩りも続けられました。
 そのなかに病弱の兄那須与一に代わって出陣していた那須大八郎がいました。日向国五ヶ瀬川上流まできて鎌倉勢は引き返そうとします。しかし、物見の報告で遥か南の山々に炊煙が上がるのを発見した大八郎は、功名心に駆られ一人残りました。
 
 人跡未踏の道なき道を、九州脊梁山脈深く分け入った那須勢は、ついに貧しい山里を発見します。平家の残党達が開いた隠れ里でした。
 発見された以上は平家の人々も覚悟しました。しかしもはや合戦する力はありません。村の男達は協議の末、「自分達が全員自害するから女子供は見逃してくれ」と大八郎に直談判します。

 大八郎自身も、もはや平家が反抗する力もなく貧しくも慎ましい生活をしていることに心打たれました。それに対し功名心に駆られ、このような弱き人々を討とうとした自分が恥ずかしくなっていきます。
 いつしか、那須勢は村の人々に混じって畑仕事などを手伝うようになりました。そして、そのなかで大八郎は一人の女性と出会います。
 村の指導者の娘で、小松大臣重盛の子孫と伝えられる鶴富姫でした。二人は愛しあい、姫は子供を身ごもりました。そして大八郎自身もこのまま村に残ろうと思い始めていた矢先でした。

 いつまでも帰ってこない大八郎を不審に思った鎌倉方は、八方手を尽くしてついに隠れ里を発見しました。頼朝の怒りは凄まじく、大八郎が帰還しなければ、那須一族の所領を取り上げると言い放ちました。
 豊後の守護、大友能直は話の分かる人物でした。
「ともかく鎌倉に参上して申し開きをすれば、所領のことは許されよう。隠れ里のことも悪いようにはしない。」
との情誼溢れる書状を受け取った大八郎は、泣く泣く山を下りることにしました。自分のために歴史ある那須一族を滅ぼすわけにはいかなかったのです。

 別れの日、大八郎は妻、鶴富姫に言います。
「生まれてくる子供が男であったら、那須の里に送れ。女の子であったらここで育ててほしい。」
しかし、鶴富姫は生まれてきた子供を手放しませんでした。男であったが、世俗にまみれさせるのに忍びないと手元に置いたとも、女の子であったためだったとも言われています。その子孫は代々この一帯を支配し戦国時代まで続いたそうです。

 そのような伝説のある土地、宮崎県椎葉の里。文豪吉川英治も「新平家物語」で、この話を紹介しています。いまでは舗装道路も繋がり、車で行けるそうです。浪漫のある土地、私も一度は訪れたいと思っています。

百姓の持ちたる国 - 加賀本願寺百年王国 -

 歌舞伎「勧進帳」で有名な富樫氏。北陸、加賀の名家として知られますが、一方、一向一揆に攻め滅ぼされた大名家としても有名です。

 もともと富樫氏は名家とはいえ、強固な領国支配体制ではありませんでした。地侍勢力の強い加賀では、守護といえども強権支配などできず、微妙なバランスのうえに立つしかありません。
 しかも悪い事に越前吉崎御坊を中心にして、蓮如が精力的に布教活動したため、この加賀でも数十万といわれる一向宗信者がいました。

 初めのうちは富樫家最後の当主、政親も自家の内紛に本願寺勢力を利用していました。そのうち彼らの力に恐れを抱きはじめた政親は一向門徒を弾圧するようになります。

 守護としての富樫氏も不安定なものでした。一時加賀半国の守護を赤松氏に取られた時期もあり政親は一国支配を幕府に認めてもらうべく、将軍足利義尚による六角氏討伐(鈎の陣)に出兵するなどしてご機嫌をとりました。しかしそのための軍費は重く領民にのしかかります。
 不満を持った国人層が、同じく不満を抱いていた門徒勢力と結びつくのに時間は掛かりませんでした。1488年、20万ともいわれる一向一揆が加賀で起こります。(長享の一揆)
 一揆勢は政親を居城高尾城に囲みました。将軍足利義尚の命により越前朝倉氏、能登畠山氏らが援軍を出しますがことごとく国境で撃ち破られます。万策尽きた政親は一族郎党ともに自害して果てました。ここに鎌倉以来の名門富樫氏は滅びます。

 以後、現在の金沢城にあたる尾山御坊に支配の拠点を移した一揆勢は、1580年織田信長の命を受けた柴田勝家の軍勢に滅ぼされるまで約百年余り加賀国を支配しました。まさに「百姓の持ちたる国」です。

 日本史上、一国を支配するようになった一揆は珍しいケースだと思います。しかし織田信長にとって、世俗君主を否定する彼らは唾棄すべき存在でしかありませんでした。織田勢が加賀に乱入したとき、なで斬りという恐ろしい方針で数万とも数十万ともいわれる多くの犠牲者がでました。これは長島一向一揆の末路とも共通します。逆にそれだけ信長が恐れていたとも言えるでしょう。

土蜘蛛の正体

 英雄、源頼光と四天王による怪物「土蜘蛛」退治の話は人口に膾炙しています。かって日本列島に土蜘蛛と呼ばれる人々がいたようです。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
 土蜘蛛(つちぐも)は、

1、天皇に恭順しなかった古代の土豪の名前。
2、日本に伝わる巨大な蜘蛛の妖怪で、別名「八握脛(やつかはぎ)」。
3、能の演目。五番目物の鬼退治物。土蜘蛛 (能)を参照。

 古事記や日本書記にも登場する彼らですが、穴居生活をし、独自の文化を持ち大和朝廷に従うのをよしとしない自立を目指した人々だったようです。一説では「手足が長い」ということから自由自在に山野を駆け巡る彼らの特質、すなわち鉱山技術者だった可能性が高いそうです。
 土蜘蛛という呼び名は、自分の支配下に入らない彼らに大和朝廷側が付けた蔑称で、もしかしたら頼光が退治したのも、その末裔達ではなかったかと想像します。

 土蜘蛛は、また国栖(クズ)や佐伯などとも呼ばれたそうです。ここからも土蜘蛛がけっして妖怪などではなく、人間であったことが分かります。古代豪族佐伯氏は、討伐されて大和朝廷に帰順した土蜘蛛だった人々かもしれません。

 大和朝廷は、ただ服従しないという理由で、土蜘蛛などという蔑称をつけ自由に生きる彼らを討伐したのでしょう。こう考えると熊襲や蝦夷も同様です。「サンカ」も、もともとの日本の先住民で大和朝廷の支配下に入るのを嫌った人々だったのかも知れません。

筑前岩屋城の戦いと高橋紹運

 斜陽の大友家を支えた二人の勇将、立花道雪と高橋紹運。道雪はもはや亡く、北上する島津の大軍を支えるのは紹運と、その嫡子で立花家に養子に入った立花統虎(のちの宗茂)親子だけでした。

 天正十四年(1586年)、主君大友宗麟は島津の攻勢にたまりかね、豊臣秀吉にすがりつきます。秀吉は三十万とも言われる大軍を動員してこれに応えました。
 島津義久は、秀吉の大軍を迎え撃つために一刻もはやく九州を統一しなければなりません。大友氏に残された領土は、本国豊後と紹運、統虎父子の守る筑前立花城と岩屋城、統虎の弟統増の宝満城の三つの城だけでした。

 秀吉の軍監として一足先に九州入りした黒田官兵衛は、使者を派遣して岩屋城に籠城する紹運に要害の立花城に合流する事を勧めます。
 しかし、紹運は「ご好意はかたじけないが、事ここにいたって敵に後ろを見せて城を退くのは本意ではありません。しかも父子が同じ城で戦うのはけっして良い謀ではありません。私は我が墓はこの城と思い、城を枕に討死にする覚悟です。どうか関白殿下(秀吉)にはよろしくお伝えください。」
そういって、拒否しました。使者も意気に感じ共に戦うと申し出たくらいでした。しかし、紹運はこれも許さず使者を帰します。

 さらに、立花城からの援軍も断り、わずか七百騎で籠城しました。おそらく紹運の考えは、自分が玉砕することによって時間を稼ぎ、秀吉の援軍がくるまで立花城を持たせるつもりだったのではないでしょうか。息子統虎への最後の愛情だったのかもしれません。

 島津軍は伊集院忠棟を総大将に四万余の大軍で、大宰府の北にあった岩屋城に攻め寄せます。わずか七百人の城兵は、名将高橋紹運の指揮のもと、頑として敵を寄せ付けませんでした。十日たっても城兵の士気は旺盛で、攻めれば攻めるほど損害が増すばかりでした。
 これには島津軍も辟易します。一旦後方に退くと新納蔵人を使者に立て降伏を勧めました。もとより死を覚悟の紹運はこれを一蹴します。ぐずぐずしていると秀吉の大軍が九州に上陸します。ついに島津軍は総攻撃の命を下しました。

 城が包囲されてから二週間後、ついに岩屋城は落城。力尽きた紹運は自害します。七百の城兵は全員玉砕しました。しかしこれにより貴重な時間を稼いだ立花城の統虎は、島津勢を寄せ付けず秀吉軍上陸まで持ちこたえます。秀吉軍上陸の報を受けた島津軍が囲みを解いて撤退すると、援軍到着を待たず統虎は討って出ました。そして瞬く間に岩屋、宝満両城を回復します。

 秀吉は、統虎の活躍を聞いて「鎮西第一の勇将」と激賞しました。しかし統虎の胸に去来するのは父の面影だったのではないでしょうか。

剣豪将軍の最期

 永禄八年(1565年)5月19日、清水寺詣でと称する一万二千もの大軍が京に入りました。率いるのは松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)らです。
 この軍勢は清水寺には向かわず足利十三代将軍義輝の住む二条御所に向かいます。ひたひたと御所を囲む三好、松永らの旗印を見て義輝は死を覚悟しました。

 実力者、三好長慶の死後幕府の権威復活を目指していた義輝と、引き続き幕政を牛耳ろうとしていた松永・三好三人衆(長慶の家老)との対立は先鋭化していました。しかし世間の人は、まさか将軍は襲いまいと考えていましたし、義輝自身もそうでした。しかし、彼らに世間の常識など通用しませんでした。

 義輝は日頃から剣を好み、剣聖塚原卜伝から秘剣「一の太刀」を授けられたほどの剣豪です。このときも秘蔵の名刀20ふりばかり、畳に突き刺します。これは人を斬ると刃こぼれや、人の脂が付いて日本刀といえど何人も斬れなくなるからです。

 次から次へと襲い掛かる敵兵を、義輝は畳に刺した名刀を次々と替え斬って斬って斬りまくりました。しかし多勢に無勢です。ついに力尽き数人がかりで襲い掛かった敵兵の手に落ちました。十三代将軍足利義輝の最期でした。

 義輝が個人の武勇に頼らざるを得なかったのは、足利将軍の権威がそれだけ衰えた証拠でした。ここに悲劇があったと思います。

 なお、将軍を討つという大逆を犯した三好、松永らですが結局天下を統べることなどできず、上洛してきた織田信長の勢力に滅ぼされるだけでした。

三好長慶 - 天下を取れなかった畿内の覇者 -

 戦国時代中期、京の主人は三好長慶でした。最盛期には五畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉)と淡路、讃岐、阿波の八ヶ国に勢力を張りざっと250万石を領する大勢力でした。
 とうぜん、天下を取る実力があったにもかかわらず何故かあっけなく滅びます。畿内の覇者でありながら天下を取れなかった男、三好長慶をご紹介します。

 三好氏は、一時阿波の守護だった甲斐源氏小笠原氏の流れだと伝えられます。管領細川氏に仕え代々阿波の守護代でした。長慶の父、元長も幼君細川晴元を補佐し、管領就任に大きく貢献しました。
 しかし、長ずるにつれ晴元は元長の実力に恐れをいだくようになります。そして元長と同族の政長に命じ、謀殺させました。

 このとき幼少だった長慶は許されます。長慶は国許阿波に帰って雌伏のときを過ごしました。国許で力を蓄えた長慶は、天文八年(1539年)二千五百の兵を率いて上洛します。
 管領細川晴元は、これを恐れ長慶が父元長の遺領を受け継ぐことを認めました。時の将軍足利義晴でさえ一時近江に身を隠す有様です。

 天文十七年(1548年)、ついに復讐の時がきました。長慶は晴元と敵対していた細川氏綱側に突如寝返ります。長慶を自分の軍事力として利用していた晴元にとっては寝耳に水の出来事でした。しかし、長慶は虎視眈々と復讐の時を待っていたのです。

 長慶は晴元と将軍足利義輝を近江に追放しました。そして父の敵、三好政長を討ちます。これにより細川京兆家による政権は崩壊、義輝と和睦した長慶は、将軍を操って事実上、三好政権を打ち立てます。
 長慶には優れた弟たちがいて兄を補佐しました。三好義賢(阿波)、十河一存(讃岐)、安宅冬康(淡路)です。

 これほどの勢力をもったら天下も夢ではありません。しかし、長慶は天下を狙うこともなく幕府内の実力者で満足しました。これが彼の限界でした。しかも、晩年彼を不幸が襲います。
 永禄四年(1561年)十河一存死去、永禄五年三好義賢死去。翌六年には嫡男として将来を期待していた義興までもが亡くなります。これは家宰、松永久秀による毒殺説もあります。
 これにより、すっかり意気消沈した長慶は無気力になり、久秀の言いなりになります。久秀はお家乗っ取りをたくらみ、唯一生き残っていた安宅冬康のことを長慶に讒言しました。長慶はこれを信じ弟冬康を殺します。これが引き金になったのでしょう。精神に異常をきたした長慶は永禄七年(1564年)河内飯盛城で世を去ります。

 晩年、長慶は言うことを聞かなくなった将軍義輝と対立します。しかし、将軍殺害だけは断固反対しました。彼の死後、歯止めの効かなくなった松永久秀は、長慶の重臣、三好三人衆と語らい、二条城に義輝を攻め殺すという大逆をしでかします。
 しょせん、彼らは天下を動かす器ではなかったのでしょう。長慶個人の力量に頼っていた三好政権は、これにより統治能力を失います。

 数年後、織田信長が六万の大軍を率いて上洛すると、風を食らって逃げるより他能のない者達でした。

「花倉の乱」と今川義元

 海道一の弓取り、今川義元。しかし彼はすんなりと家督を継げたわけではありませんでした。血みどろの戦いの末勝ち取ったものだったのです。義元が家督相続争いで勝利し、駿河今川氏第九代を継承することになった「花倉の乱」をご紹介します。

 今川氏七代氏親と、正室である中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)の三男(五男説もあり)に生まれた芳菊丸は、家督争いを避けるため幼くして仏門に入れられます。梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と名付けられ教育係として重臣庵原氏出身の太原雪斎が付けられ遠く京都で修行させられました。

 ところが天文五年(1536年)、兄で八代を継いでいた氏輝が急死したため梅岳承芳は急遽呼び戻されます。ところが同じ仏門にはいっていた異母兄玄広恵探も重臣福島(くしま)越前守の後押しで、家督相続を目論見ます。
 この福島越前守は、資料によっては武田晴信生誕のときに甲斐に侵入した今川軍の大将、福島正成ではないかとも言われていますがはっきり分かりません。福島氏は遠江に勢力を張った一族だったといわれています。花倉とは静岡県藤枝市の地名で玄広恵探らが挙兵した場所にちなみます。

 はじめ、寿桂尼は話し合いで解決しようと福島越前守を呼び寄せ説得しますが、拒否されます。そればかりか、玄広恵探一派は駿府の守護館を襲撃、これは梅岳承芳派の必死の防戦で撃退されました。
 梅岳承芳の有利な点は、なにより正室の子という血筋です。さらに玄広恵探は福島越前守の娘の子でした。権勢を誇った福島越前守が家中に嫌われていたため、もし玄広恵探が家督を継ぐとさらなる福島一族の専横が起こりかねないと危惧されていました。

 恵探派は花倉城、方ノ上城(焼津市)に籠城して抵抗を続けます。しかし梅岳承芳を正統とみた北条氏などの援兵を得て方ノ上城、ついで花倉城が陥落しました。玄広恵探は逃亡先の瀬戸谷普門寺で自刃、今川家を真っ二つに分けた内乱は終りを遂げます。福島越前守は甲斐に逃亡し、そこで討ち取られたそうです。一説では相模の北条氏に仕えたという話もあります。
 
 余談ですが、北条家中で武勇を謳われた北条綱成はこの福島正成の遺児とも言われます。北条氏綱に気に入られ娘婿になり北条の姓を与えられたほどでした。

 とにかく、家督を相続した梅岳承芳は還俗して義元と名乗ります。臨済寺の住持となった太原雪斎が黒衣の宰相としてこれを補佐しました。戦国大名、今川義元の誕生でした。

処世術の天才 細川幽斎(藤孝) - 後編 -

 細川藤孝の生涯の危機は三度あったと思います。
①足利義昭と織田信長の対立
②本能寺の変
③関ヶ原の合戦
そのすべてで、勝ち組を選択したのですから、慧眼恐るべきものがあります。①については前編で紹介したので②と③について見ていきましょう。

 細川藤孝は明智光秀の指揮下、丹波・丹後を転戦します。そして平定後、功により丹後12万石を与えられます。光秀とは公私ともに仲がよく、嫡男忠興の妻に、光秀の娘玉を迎えたほどでした。
 しかし、天正十年(1582年)、またしても危機が訪れます。明智光秀が本能寺において主君織田信長を討ったのです。当然光秀は、細川家は自分に味方してくれると期待していました。
 藤孝はこの状況を冷静に分析します。そして光秀に未来がないと結論づけます。光秀の使者を追い返した藤孝は息子忠興とともに謹慎し、忠興の妻玉を離縁し幽閉します。このとき出家して幽斎と称しました。以後幽斎で通します。

 毛利と講和し急ぎ東上した羽柴秀吉に、帰順の使者を送り歓迎されます。山崎の合戦は秀吉軍の大勝利に終わりました。またしても幽斎の読み勝ちです。以後、細川氏は豊臣政権の有力大名として存続しました。

 そして最後の危機は関ヶ原でした。当主の地位を息子忠興に譲っていた幽斎はこのとき居城の田辺城にいました。主力は息子忠興に従ってわずかな兵しかいませんでした。
 関ヶ原の前哨戦が始まると、田辺城は行きがけの駄賃とばかり西軍に囲まれます。吹けば飛ぶような小城に老骨一人、しかし頑強に抵抗します。やはり幽斎は武将でした。そして芸は身を助けます。
 三条西家より「古今伝授」を受けていた幽斎の身を案じ、古今伝授が断たれる事を心配された後陽成天皇の勅命で開城、自身は丹波亀山城に移されます。
 関ヶ原が東軍の勝利に終わると、家康は幽斎の功もあって、細川家を豊前小倉三十七万石に封じます。のち肥後加藤家改易後、肥後五十四万石を賜り幕末に続きます。

 幽斎は関ヶ原のあと、京に隠棲しました。慶長十五年(1610年)に京都三条車屋町の自邸で死去。享年七十七歳。文武両道に優れたまさに名将でした。人生の節目における判断はことごとく的中。処世術の天才といえるのではないでしょうか。

処世術の天才 細川幽斎(藤孝) - 前編 -

 近年、細川護熙という総理大臣を出し鎌倉以来の命脈を保つ細川家。室町時代、足利幕府の三管領家の一つとして権勢を振るい、織豊時代には有力大名、江戸時代には肥後五十四万石の大大名としていわば時代の中心を歩んできたのですから、その生命力には驚かされるばかりです。

 その近世細川家を築いたのが細川藤孝(幽斎)であることには異論がないでしょう。しかし、藤孝の家系は頼之、勝元という強烈な個性を持った管領をだした細川京兆家(宗家)ではなく、傍流の細川泉州家でした。泉州家は頼之の弟、頼有の系統で代々和泉半国の守護を務めました。室町末期にはすっかり衰退し山城国勝龍寺城主として細々と続いていました。

 京兆家が晴元の時代に、筆頭家老格で阿波守護代の三好長慶と対立してその権勢を失っていくのとは対照的に泉州家は将軍側近として細々とではありましたが、命脈を保っていました。藤孝は幕府奉行衆の三淵晴員の三男として生まれ、細川泉州家に養子に入ります。晴員自身、細川家から三淵家に養子に入ったので元の鞘に収まったともいえます。
 一説では将軍足利義晴のご落胤とも言われますが、これは平清盛の例と同じく伝説にすぎないでしょう。

 藤孝は、幕府十三代将軍足利義輝の側近として仕えますが、このとき大事件が起こります。下克上の代表として近畿に権勢を振るった三好長慶死後、将軍の権威復活をもくろむ義輝と、松永久秀、三好三人衆らの対立が激化。松永、三好らは清水寺参りと称して永禄八年(1565年)京に兵を入れると将軍御座所であった二条城を急襲したのです。
 長慶でさえ憚った将軍殺害をなんなくやり遂げた久秀たちこそ下克上の典型でした。命からがら脱出した藤孝は奈良興福寺にいた義輝の弟、覚慶を還俗させ義秋(後の義昭)と名乗らせます。
 松永・三好らの追手を逃れ、近江六角氏、若狭武田氏、越前朝倉氏を頼って転々とした一行でしたが、越前の地で明智光秀と出会います。藤孝は兵法に通じ有職故実に明るい光秀と意気投合、上洛する気概のない朝倉義景を見限り、当時日の出の勢いだった尾張の織田信長を頼ることに決めました。

 そして藤孝らの判断が正しかったことはすぐに証明されます。三河の徳川家康、妹婿の浅井長政軍を加え六万の大軍で上洛した信長は、またたく間に三好三人衆の軍を駆逐、恐れをなした松永久秀は名物の茶器をさしだして降伏しました。
 
 信長は十五代将軍に就任した義昭のために焼失した二条城を再建、蜜月時代は続くかに見えました。しかしあくまで傀儡として操ろうとする信長と、将軍家の権威を回復しようとする義昭の仲がいつまでも続くはずがありませんでした。義昭は秘かに諸国の大名に御教書をだし、「信長を討て」と命じました。こらが信長に筒抜けになり対立は激化します。

 藤孝や光秀は悩みました。強大な信長に勝てるはずがありません。しかも自分を将軍にしてくれた恩を仇でかえすわけですから、なおさらです。義昭を諌めた藤孝らは、それが聞き入れられないと、しだいに将軍と距離をとるようになりました。そしてついに覚悟を決め信長に従います。
 有能な側近から去られ、無能なイエスマンばかりになった義昭に勝ち目はありませんでした。ついに籠城した槙ノ島城を落とされ、命だけは助けられて追放されます。足利幕府の終焉でした。

 以後、細川氏は織田家家臣として活躍することとなります。

                - 後編に続く -

「命を賭けた大博打 」 - 易聖高島嘉右衛門の父、遠州屋嘉兵衛 -

 明治の易聖として有名な高島嘉右衛門ですが、その父である遠州屋嘉兵衛がそれ以上の傑物だった事は知られていません。恥ずかしながら私も、高木彬光著『占い人生論』を読むまで知りませんでした。その知られざるエピソードをご紹介します。

 遠州屋嘉兵衛は常陸国牛渡村の庄屋の三男として生まれました。反抗精神旺盛で若い頃から家を飛び出し江戸に出ると、丁稚奉公からたたき上げ遠州屋の暖簾を分けてもらって自分の店を持ちました。
 彼の侠名が広がったのは天保四年(1833年)の南部領内の大飢饉の時でした。四月から八月まで四ヵ月間雨が降り続き農作物は全滅、領民は餓死寸前までいきました。
 商売柄、南部藩と取引のあった嘉兵衛は、藩の重役から何とかしてこの窮状を打開する策がないか相談をうけます。

 数日考えた嘉兵衛は自分の考えた策を重役に話します。それを聞いた重役は震え上がりました。しかし背に腹は変えられません。南部藩江戸家老は自分が切腹する覚悟でこの案を採用します。

 嘉兵衛は南部藩勘定奉行、遠山嘉兵衛という触れ込みで供を連れ九州は佐賀鍋島藩に乗り込みます。十一万両で米三万石を買い付けるという商談はすぐ成立しました。現金引換えという条件でしたが、情勢逼迫のためということでまず米だけを先に南部藩領に送らせます。
 そのあとで嘉兵衛は、「実は金がない」と白状します。騙されたと知った佐賀藩では大騒ぎになりました。しかし、自分と何の関係もない南部領民のために、死を覚悟しての大芝居は佐賀藩士たちの心を打ちます。嘉兵衛の真心が通じたのでしょう。十年の年賦払いという契約に切り替えて嘉兵衛は悠々と江戸に帰還しました。南部藩ではその功績を認め、子々孫々にいたるまで永代士分待遇にするという処置を取りました。

 どうです、凄い人がいたものですね。まさに義人と言えます。嘉兵衛も立派なら、騙されたと知ってもこれを殺さず、契約を切り替えることですました佐賀藩も立派です。そして死を覚悟して送り出した南部藩江戸家老も。この話を初めて読んだ時涙がでてきました。現代の世にこのような立派な人たちがはたしているのでしょうか?

山本勘助と『風林火山』

 大河ドラマにもなった『風林火山』。井上靖原作で主人公は武田信玄の軍師、山本勘助。今までにも何回か映画化、ドラマ化されています。
 しかしNHKが大河ドラマ化すると聞いて、よく決断したなと当時感心したものです。といいますのも山本勘助なる人物、その実在性に疑問があるのです。「甲陽軍鑑」という軍記物でしか登場せず、軍記物作者の描いた架空の人物なのではないか?と言われています。
 その疑問の一つとして晴幸という名前があげられます。これが信幸なら問題ないのです。ところがこの『晴』の字は時の将軍、足利義晴から信玄が元服するときに一字を頂いた名前です。その重要な名前を、たかが侍大将に過ぎない部下に与えるだろうかということです。同じく将軍家から一字を拝領した毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎などは部下に与えていません。
 百歩譲って本名だったとしても、憚って改名したのではないでしょうか?

 ただ近年の研究では、実在はしたらしいが、甲陽軍鑑に書かれているような天才軍師ではなく、伝令将校のような役目だったのではないか?とされます。とすれば新田次郎の「武田信玄」にでてくる忍者のような役割が妥当な線だったのかもしれません。

 しかし、知名度は抜群です。川中島合戦ではなくてはならない重要なキャラクターです。一応伝えられる説として、『三河国の地侍の子として生まれ、諸国を流浪して剣術や軍学を極める。今川義元に仕官しようとするが、その醜さ(隻眼で片足が不自由)を嫌われ断られる。信玄の重臣板垣信方に気に入られ、その推挙で武田家に仕官。築城術に長け信濃国海津城は彼の縄張りと伝えられる。
 永禄四年(1561年)の第四次川中島合戦の時、「啄木鳥の戦法」を考案。妻女山にいる上杉勢を背後から1万2千の兵で奇襲。山を下りてきたところを八幡原で待ち構える本隊8千とで挟み撃ちにするというもの。しかし城のなかで腰に兵糧袋をさげている武田軍兵士のようすを見た上杉謙信に、奇襲を見破られ先手をうって山を下られる。濃霧のなか突如現れた上杉軍1万3千に武田軍は苦戦。信玄の弟武田信繁や山本勘助自身も戦死。ようやく山を下りてきた別動隊が駆けつけて、形成逆転。挟み撃ちを恐れた上杉軍が撤退したため、引き分けに終わった。山本勘助は自分の立てた作戦が失敗に終わったため責任を感じて敵陣に突っ込んだとも言われる。享年69歳』というものです。

 山本勘助は、軍記物の中だけに活躍した人物だったのかもしれませんね。

『隋書倭国伝』の謎

 私の愛読書、山本茂著『歴史毒本』に鋭い指摘があります。卑弥呼の邪馬台国がどこにあったか決定的ともいえる証拠になるかもしれません。
 邪馬台国の場所を推定するとき、魏志倭人伝を参考にすると思います。記事が曖昧なためいろいろな説があり、近畿説、九州説を中心に四国説、沖縄説はてはフィリピンなどの南洋説まであります。
 しかしここで視点を変えて、それ以降の歴史書からアプローチできないかと著者は考えたみたいです。

 『歴史毒本』によると、『隋書倭国伝』の文章に邪馬台国の後裔である倭国は大きな島にあり、阿蘇山という火山があったとのこと。私もネットで調べてみました。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。」たしかにその記述はあります。

 さらに「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。」
という記述もあります。都斯麻國とは対馬、一支國は壱岐のことでしょう。竹斯國は筑紫、その東にあった秦王國は北九州だと推定されます。と言いますのも北九州の対岸、下関の彦島の遺跡から中国殷(商)時代の石笛が発見され、中国となんらかの交流があったみたいなのです。倭国の都はそこから海岸沿いにあったそうなので、おそらく宇佐神宮のあたりが都ではなかったでしょうか?

 隋の使者が面会した王は男王だったとの記述もあります。日本が隋に使節を送ったのは推古女帝の時代とされます。ここでも矛盾があります。面会したのは天皇ではなく聖徳太子であったと解釈する研究者もいますが、大国隋の使者にそんな無礼ができるでしょうか?
 古代史研究者のなかにも、この『隋書倭国伝』の記述を見て無理な解釈をしている者もいます。
「天皇の名を騙った九州の豪族が隋に使節を派遣した。」
 なるほどこれなら矛盾は解明できますが、それよりも九州には大和朝廷とは別個の独立した九州王朝があって、その王が隋に使節を派遣したという方が自然なんじゃないでしょうか。

 歴史毒本によると、そのあとの「旧唐書」にも関連する記述があるそうです。
「日本国は倭国の別種なり。 - 中略 - 日本はもと小国だったが倭国の地を合併した、と。」
 中国の認識では、倭国と日本国は別の国だと思っていたことになります。日本国が今でいう大和朝廷だとすると、倭国はやはり九州王朝だと推定できないでしょうか。

 仮定・推定が多くて申し訳ないのですが、ということは筑紫の君磐井の乱は、大和朝廷の九州王朝(=倭国)侵略の戦争だったと考えられます。こうしてはじめて大和朝廷は九州王朝に取って代わり日本列島の支配者になったのかもしれません。

 古代史における宇佐神宮の重要性も、ここが倭国の都だったとしたら納得できます。卑弥呼の国はやはり九州にあったと言えます。

『泗川城の戦い』 恐るべき島津の武勇

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 独裁者秀吉の誇大妄想的な野望から始まった朝鮮出兵は、彼の死によって終焉を迎えようとしていました。しかし、現地に残された十数万の日本兵にとってはこれからが正念場でした。
 嵩にかかって攻めてくる明・朝鮮連合軍の攻撃を防ぎながら困難な撤退戦を行わなければならなかったのです。

 慶長三年(1598年)十月、明将董一元率いる二十万の明軍が泗川城に攻め寄せます。この城は船舶の航行を守るために築かれた城で、文禄の役時に築かれた泗川古城と、慶長の役時に築城されまだ未完成ながら大軍の籠もれる泗川新城からなっていました。ここが陥落すると日本軍の退路が断たれるという重要拠点でした。
 守るのは薩摩の島津義弘・忠恒(後の家久)父子のわずか六千。主力は新城に籠もり、古城には五百の守備兵をおきました。

 明軍はまず古城に攻め寄せます。島津勢は百五十の損害を出して新城に合流しました。敵がわずか六千だと侮った明軍は強攻策にでます。 
 島津勢は日本軍の中でも鉄砲の保有率が高く、それを有効に使う戦術を持っていました。敵をギリギリまで引き付けて、島津勢は戦いの火蓋を切ります。銃身が熱で真っ赤になり熱くて持てなくなるまで鉄砲を撃ちまくりました。
 おそらく明軍はこれほど猛烈な火勢を経験した事などなかったでしょう。大混乱に陥ります。そこを衝いて島津勢は討って出ました。当主義弘・忠恒自ら刀を振るうほどの戦いで、敵を斬って斬って斬りまくりました。島津氏の報告では斬首38717、明の報告書では8万余の大損害をだして明軍は壊走しました。

 以後、明軍は恐れて島津勢に近づかなかったそうです。島津勢の武勇は伝説になり「石蔓子」(シーマンツー=しまづ)と呼ばれ恐怖の的になりました。
 この島津父子の獅子奮迅の大活躍により、日本軍は無事撤退できました。この功は朝鮮の役を通じて唯一の加増となるほど評価されます。
 後年、関ヶ原で敗北した島津氏が本領安堵になったのは、家康が『泗川城の戦い』 での島津氏の武勇を恐れたからだとも言われています。

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