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2010年3月29日 (月)

私論 「三河 松平一族」

 徳川300年の源流とも言うべき三河松平氏には興味が尽きません。私なりに歴史をまとめてみました。ただし、独断と偏見で決め付けているところはご容赦ください。

 松平氏発祥の地である松平郷は巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたります。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 南北朝末期、この地に一人の漂泊の僧が訪れます。名門新田源氏世良田氏の末裔と称するこの時宗の遊行僧は名を徳阿弥と言いました。
 戦乱の世です。しかし後の戦国時代と違ってかろうじて家柄がものをいいました。もちろん彼が本当に世良田氏の末裔だったかどうかは誰も分かりません。史書によると実際に宗家の新田義貞に従った世良田氏最後の当主政親が、転戦の末この三河の地で没したという伝承がありました。
 その世良田氏を騙るのは、何の後ろ盾もない徳阿弥にとって有利だったのでしょう。得意の弁舌によってこの地を治める土豪松平氏の婿養子におさまった徳阿弥は、還俗して松平親氏と名乗ります。これが松平初代です。

 もともと松平氏は賀茂神社の氏子で葵の紋を使用していました。まさかこの紋所が後に天下で最も高貴な紋章になるとは誰も思わなかったことでしょう。

 松平氏は三代信光のときに南方の平野部に進出し十八松平と称される分家を各地に配し支配を固めます。そのなかで安祥城に拠った次男親忠の家系が有力になり、松平宗家となりました。この安祥松平家はしばらく内紛が続きますが、七代清康の時代に絶頂期を迎えます。

 十四歳で家督を継ぐと、1524年三河守護代であった西郷氏を山中城に滅ぼし西郷氏の所領であった岡崎の地に城を築き本拠と定めました。軍を四方に派遣しほぼ三河を統一する勢いでした。しかし1535年尾張進出をもくろみ守山城を攻めたとき、家臣の阿部弥七郎に斬りつけられ殺されます。(守山崩れ)
 享年二十五歳。英雄になったかもしれない男のあっけない最後でした。癇癖であったため家臣の信望がなかったとも言われています。このあたり後の織田信長にも似ていますね。

 大黒柱を失った松平家は、息子の広忠があとを継ぎますがわずか十歳であったため隣国駿河の太守、今川義元に庇護を頼みました。今川氏はこれを好機として三河支配を固めます。松平主従の苦難は広忠の息子、元康の時代まで続きました。ようやく独立を勝ち取ったのは1560年、今川義元が桶狭間で信長に討ち取られた後でした。
 
 松平元康、後に天下を統一する徳川家康その人です。

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