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2010年3月29日 (月)

徳川家康と世良田次郎三郎の謎

 隆慶一郎の小説に「影武者徳川家康」という本があります。徳川家康が実は関ヶ原の合戦で西軍により暗殺され、影武者と入れ替わっていたという内容で、新潮社から上・中・下巻の3巻が発行されています。

 入れ替わったとされるのは、世良田次郎三郎なる人物で三河一向一揆で本多正信と共に家康と戦ったササラ者の頭でした。容貌が家康とソックリだということで影武者になったといいます。

 もちろんこの話はフィクションで世良田次郎三郎という名乗りは、家康の祖父清康のときから称していたそうです。世良田氏というのは架空の名前ではなくれっきとした新田源氏の一族で、南北朝時代に三河国で最後の当主が没したという伝説があり、三河ではそれなりの権威をもっていたそうです。
 その世良田氏の名前をあやかり(私は血統的には無関係と見ます)、松平氏の通り名である次郎三郎をつけたのは清康の三河統一の意思の表れでしょう。

 ところで家康が途中で亡くなり影武者と入れ替わったという説は、この関ヶ原の時期だけではなく大坂夏の陣のとき、あるいは松平元康から徳川家康に名前を変えた時期など諸説あります。その中で有力なのは松平=>徳川になった時期です。

 真偽のほうは定かではないのですがなかなか興味深い説であることは間違いありません。これは明治時代に村岡素一郎という人が書いた「史疑徳川家康事蹟」が元になっています。南條範夫の「三百年のベール」八切止夫の「徳川家康は二人だった」はこれをもとに書かれた作品です。
 どちらも読みましたが大変面白い本でした。両者が指摘するのは、いくら信長の命とはいえ正妻の築山御前と嫡子の信康を簡単に斬殺するだろうかという疑問です。史実では家康の酷薄な性格がなせるもので片付けていますが、将来を嘱望された大事な跡取りですよ。処刑したとしてどこかに匿っておき、ほとぼりがさめてから出すという方法もなくはありません(例 黒田長政[松寿丸])。

 家康と信康の間に血がつながっていないとすれば納得できます。いや、むしろ信長の命を奇禍として正当な後継者である信康を抹殺することは家康にとってまことに好都合なことだったと思います。

 八切止夫の「徳川家康は二人だった」で詳しいのですが家康が晩年「自分は幼少の頃、銭五貫で駿河に売られたことがある」と語ったといいます。史実では五百貫で尾張の織田信秀に売られたとなっていることですが、これはどう見てもおかしな話です。しかし「駿府政事録」という林道春(羅山の祖先)が直接家康から聞いた話を記した本に書いてあるので史実だと思います。
 また尾張藩の編纂した諸資料には、徳川家康と松平元康は別人で合戦したこともあるという文章や、守山崩れは祖父清康の時代ではなく元康の時代の話で、そのあと別人(この場合は徳川家康)が松平家を乗っ取ったという記述があるそうです。このために尾張藩は幕府の逆鱗に触れ、御三家筆頭でありながら将軍を一人も出さなかったという俗説もあります。

 はたして真実はどこにあるのでしょうか?私は半信半疑なのですが、もし真実だとしてもおかしくはないという立場です。

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