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2010年3月29日 (月)

『錦の御旗』 - 自ら招いた幕府の敗因 -

 1867年、徳川十五代将軍慶喜は大政奉還によって政権を朝廷に返しました。しかしその数日前に『倒幕の密勅』を受けていた薩長側は、あくまで武力討伐路線を棄てず、結局両者は1868年1月3日鳥羽伏見において激突することとなります。いわゆる戊辰戦争の始まりでした。

 両軍の兵力は、薩長側五千に対して幕府軍一万五千。火力に優れているとはいえ薩長軍が圧倒的に不利でした。初日の戦闘は幕府軍有利のうちに終り、いったん淀城にしりぞいた幕軍は再び鳥羽伏見に押し寄せます。
 そのときでした。薩長軍の陣頭に数流の旗が翻りました。錦地に鮮やかな金で菊の御紋がの刺繍してあります。いわゆる錦旗でした。
 これを見た幕軍将兵は自分達の立場を悟ります。薩長が官軍、自分達が賊軍であると。士気は一気に崩壊、総崩れとなりました。いったん淀城まで退いて体勢を立て直そうとした幕軍でしたが、城門は固く閉ざされたままでした。
 この淀城は、現役の老中、稲葉正邦の居城です。それが藩主不在のまま寝返るのですから、錦旗の威力は計り知れません。しかも山崎を守っていた伊勢津藩藤堂勢までが寝返る始末。いままで薩長に向いていた砲門が、逆に幕軍に向けられました。幕軍は雪崩をうって大坂城まで逃散します。

 これでは、将軍慶喜が抗戦の意思を失うのも肯けます。大坂城で籠城したところで、朝敵という汚名は歴史が続く限り被せられます。それほど錦旗の官軍の威光は凄まじいものでした。


 ところで、ここまで日本人の深層心理に植えつけられた意識は、例えば戦国時代にはないものでした。徳川幕府が、自分の支配に都合のよい学問、朱子学を押し付けたのがそもそもの原因です。朱子学のいう大義名分論は、行き着くところ将軍ではなく天皇、朝廷を重んずる思想になります。朱子学を修めれば修めるほどそうなるのは必然です。いわば将軍は、正当な日本の主権者である天皇の実権を奪った簒奪者と考えるようになっていきます。この思想は、将軍慶喜までが影響を受けるようになりました。
 支配の論理であった朱子学は、ついには大元である幕府権力さえも空洞化してしまうという恐るべき反作用があったのです。

 その意味では、幕府を滅ぼしたのは幕府自身でした。まさに歴史の皮肉と言えます。

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