処世術の天才 細川幽斎(藤孝) - 後編 -
細川藤孝の生涯の危機は三度あったと思います。
①足利義昭と織田信長の対立
②本能寺の変
③関ヶ原の合戦
そのすべてで、勝ち組を選択したのですから、慧眼恐るべきものがあります。①については前編で紹介したので②と③について見ていきましょう。
細川藤孝は明智光秀の指揮下、丹波・丹後を転戦します。そして平定後、功により丹後12万石を与えられます。光秀とは公私ともに仲がよく、嫡男忠興の妻に、光秀の娘玉を迎えたほどでした。
しかし、天正十年(1582年)、またしても危機が訪れます。明智光秀が本能寺において主君織田信長を討ったのです。当然光秀は、細川家は自分に味方してくれると期待していました。
藤孝はこの状況を冷静に分析します。そして光秀に未来がないと結論づけます。光秀の使者を追い返した藤孝は息子忠興とともに謹慎し、忠興の妻玉を離縁し幽閉します。このとき出家して幽斎と称しました。以後幽斎で通します。
毛利と講和し急ぎ東上した羽柴秀吉に、帰順の使者を送り歓迎されます。山崎の合戦は秀吉軍の大勝利に終わりました。またしても幽斎の読み勝ちです。以後、細川氏は豊臣政権の有力大名として存続しました。
そして最後の危機は関ヶ原でした。当主の地位を息子忠興に譲っていた幽斎はこのとき居城の田辺城にいました。主力は息子忠興に従ってわずかな兵しかいませんでした。
関ヶ原の前哨戦が始まると、田辺城は行きがけの駄賃とばかり西軍に囲まれます。吹けば飛ぶような小城に老骨一人、しかし頑強に抵抗します。やはり幽斎は武将でした。そして芸は身を助けます。
三条西家より「古今伝授」を受けていた幽斎の身を案じ、古今伝授が断たれる事を心配された後陽成天皇の勅命で開城、自身は丹波亀山城に移されます。
関ヶ原が東軍の勝利に終わると、家康は幽斎の功もあって、細川家を豊前小倉三十七万石に封じます。のち肥後加藤家改易後、肥後五十四万石を賜り幕末に続きます。
幽斎は関ヶ原のあと、京に隠棲しました。慶長十五年(1610年)に京都三条車屋町の自邸で死去。享年七十七歳。文武両道に優れたまさに名将でした。人生の節目における判断はことごとく的中。処世術の天才といえるのではないでしょうか。
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