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2010年3月29日 (月)

土佐一条氏

 伊勢の北畠氏、飛騨の姉小路氏とともに三国司と称される家柄。れっきとした公家、それも五摂家の一つという高貴な家柄です。戦国期の土佐に君臨し、最後は長宗我部元親に滅ぼされる土佐一条氏には興味がありました。

 いままで私は、土佐一条氏を五摂家から別れ土着した一族だと思っていたんですが、調べてみるとそれが誤解であった事に気付きました。血脈をみるとむしろ土佐一条氏の流れが現代まで続いているみたいです。(途中、天皇家から養子に入ったりはしてますが)

 そもそも土佐一条氏は、1475年に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市)に下向したのに始まります。

 応仁の乱の戦火を避け奈良に疎開した一条兼良は、一条家の経済基盤を整えるため嫡子、教房を所領のあった土佐国幡多郡に下向させます。同時に教房の嫡子(兼良の嫡孫)政房を同じく所領のあった摂津福原荘に派遣しました。

 しかし政房のほうは、兵乱にあって殺されてしまいます。兼良や教房の悲嘆はいかばかりだったでしょう。しかし、父教房のほうは、なんとか幡多郡を中心に支配体制を固める事に成功しました。

 一条家は、もともと嫡流の政房が継ぐ予定でした。しかし不慮の事故で亡くなったため、教房の弟、冬良が継ぐこととなります。
 
 教房は土佐の領国経営に一生を捧げますが、この地で房家という子を設けてしまいます。これで話がややこしくなりました。

 家督は叔父である冬良が継いでいるため、房家は出家することとされていました。ところが名君と慕われた教房が五十八歳で亡くなると、土佐の国人衆が運動して出家するはずの房家を元服させてしまったのです。国人衆にとってみれば、都の一条家に支配されるよりは、教房の血を引く房家に直接統治して欲しかったのでしょう。

 都の一条家も、所領が他人に奪われるよりはと、困惑しながらも認めざるを得ませんでした。これが土佐一条家の初代です。さて一条宗家ですが、当主の冬良に子がなかったため、房家の次男、房通を養子に迎え家督を継がせました。

 これで房家は土佐と京の両方の一条家の祖となります。貴族とはいえ、領地を支配していくうちに戦国大名化していきました。

 永正五年(1508)、長岡郡岡豊城主の長宗我部兼序が、吾川郡の本山氏、吉良氏、香美郡の山田氏、高岡郡の大平氏らの連合軍に攻められます。驕慢の振る舞いから、周辺豪族達の反感を買っていたようです。連合軍の攻撃にさすがの兼序も敗れて自殺し、一子千雄丸を家臣に託して一条房家に庇護を求めました。房家は千雄丸を憐れんで庇護し、養育、長宗我部氏の再興に尽力します。

 房家の肝いりで、成長した千雄丸は奪われていた所領を返してもらいます。これが元親の父、国親です。そのような大恩があるにもかかわらず、一条氏は長宗我部元親に滅ぼされてしまうのですから哀れです。

 確かに房家の代が土佐一条氏の絶頂でした。その後は幼少の当主が続き衰退していきます。房家の曾孫にあたる兼定の時代に、ついに一条家は滅ぼされました。一条氏の血筋は、傀儡として何代か続きますが、中村御所、土佐一条氏としては兼定が最後でした。

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