桶狭間(田楽狭間)の合戦の疑問
『桶狭間合戦』
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を壊走させた、歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な戦いである。東海地方に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで、戦国時代の重要な転機となった。
- フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -
織田信長の雄飛を決定付けたあまりにも有名な桶狭間の合戦。2万5千の今川勢にわずか2千の寡兵で奇襲し、みごと義元を討ち取った大番狂わせとして史上名高い戦いです。
しかし、私はこの戦いに疑問を持っているんです。海道一の弓取りと言われた今川義元が、なぜ桶狭間という谷に陣を構えただろうかというのが一つ。
本陣を奇襲されたとはいえ5千はいた今川勢が、なぜ半分以下の織田勢に敗れたのか?
色々調べていくうちに、今川勢が本陣を構えたのは桶狭間山だったということ、織田勢の来襲は見えていて、奇襲というよりむしろ強襲だったということなどが分かりました。
しかし、そうなるとますます織田勢の勝利は難しくなります。今川勢が惰弱だったという説もありますが、今までの経過はむしろ今川方が三河から織田勢力を追い出し、尾張に進出するという勢いだったのでこの説は納得できません。国力も今川方は駿・遠・三に尾張の一部を領し80万石以上だったのに対し、織田は尾張半国20万石余りで4倍以上の開きがあります。
それなのに勝ったのは信長でした。この長年の疑問はNHKの「そのとき歴史が動いた」でなんとなく解けたような気がします。
今川義元が討たれたのが山上でなく、田楽狭間だったということを紹介していました。私の想像では桶狭間山から大高城その他の戦略拠点に本陣を移す最中だったのではないかと考えます。
これなら、納得します。的確な情報網によって、今川軍が本陣を移そうとしているという情報を掴んだ織田軍が奇襲をかけた。なるほどこれなら寡兵でも倍以上の大軍に勝てます。敵は移動の最中、勢いよく駆け上がって山上から攻めかかれば、非常に有利な体勢になります。
織田軍の勝機はたしかにこの瞬間しかなかったでしょう。
反対に、今川義元にとってみれば非常に不運な敗北でした。もっとも、移動していた織田軍を味方と誤認にていた可能性もあります。追い詰められた織田軍がのこのこ敵の目の前に現れてくるはずがないという心理的な奇襲だったともいえます。
織田信長の偉いところは、この勝利に驕る事なく以後は敵より必ず有利な兵力・態勢をもって望んだというところでしょうか。
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