「花倉の乱」と今川義元
海道一の弓取り、今川義元。しかし彼はすんなりと家督を継げたわけではありませんでした。血みどろの戦いの末勝ち取ったものだったのです。義元が家督相続争いで勝利し、駿河今川氏第九代を継承することになった「花倉の乱」をご紹介します。
今川氏七代氏親と、正室である中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)の三男(五男説もあり)に生まれた芳菊丸は、家督争いを避けるため幼くして仏門に入れられます。梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と名付けられ教育係として重臣庵原氏出身の太原雪斎が付けられ遠く京都で修行させられました。
ところが天文五年(1536年)、兄で八代を継いでいた氏輝が急死したため梅岳承芳は急遽呼び戻されます。ところが同じ仏門にはいっていた異母兄玄広恵探も重臣福島(くしま)越前守の後押しで、家督相続を目論見ます。
この福島越前守は、資料によっては武田晴信生誕のときに甲斐に侵入した今川軍の大将、福島正成ではないかとも言われていますがはっきり分かりません。福島氏は遠江に勢力を張った一族だったといわれています。花倉とは静岡県藤枝市の地名で玄広恵探らが挙兵した場所にちなみます。
はじめ、寿桂尼は話し合いで解決しようと福島越前守を呼び寄せ説得しますが、拒否されます。そればかりか、玄広恵探一派は駿府の守護館を襲撃、これは梅岳承芳派の必死の防戦で撃退されました。
梅岳承芳の有利な点は、なにより正室の子という血筋です。さらに玄広恵探は福島越前守の娘の子でした。権勢を誇った福島越前守が家中に嫌われていたため、もし玄広恵探が家督を継ぐとさらなる福島一族の専横が起こりかねないと危惧されていました。
恵探派は花倉城、方ノ上城(焼津市)に籠城して抵抗を続けます。しかし梅岳承芳を正統とみた北条氏などの援兵を得て方ノ上城、ついで花倉城が陥落しました。玄広恵探は逃亡先の瀬戸谷普門寺で自刃、今川家を真っ二つに分けた内乱は終りを遂げます。福島越前守は甲斐に逃亡し、そこで討ち取られたそうです。一説では相模の北条氏に仕えたという話もあります。
余談ですが、北条家中で武勇を謳われた北条綱成はこの福島正成の遺児とも言われます。北条氏綱に気に入られ娘婿になり北条の姓を与えられたほどでした。
とにかく、家督を相続した梅岳承芳は還俗して義元と名乗ります。臨済寺の住持となった太原雪斎が黒衣の宰相としてこれを補佐しました。戦国大名、今川義元の誕生でした。
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