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2010年3月29日 (月)

筑前岩屋城の戦いと高橋紹運

 斜陽の大友家を支えた二人の勇将、立花道雪と高橋紹運。道雪はもはや亡く、北上する島津の大軍を支えるのは紹運と、その嫡子で立花家に養子に入った立花統虎(のちの宗茂)親子だけでした。

 天正十四年(1586年)、主君大友宗麟は島津の攻勢にたまりかね、豊臣秀吉にすがりつきます。秀吉は三十万とも言われる大軍を動員してこれに応えました。
 島津義久は、秀吉の大軍を迎え撃つために一刻もはやく九州を統一しなければなりません。大友氏に残された領土は、本国豊後と紹運、統虎父子の守る筑前立花城と岩屋城、統虎の弟統増の宝満城の三つの城だけでした。

 秀吉の軍監として一足先に九州入りした黒田官兵衛は、使者を派遣して岩屋城に籠城する紹運に要害の立花城に合流する事を勧めます。
 しかし、紹運は「ご好意はかたじけないが、事ここにいたって敵に後ろを見せて城を退くのは本意ではありません。しかも父子が同じ城で戦うのはけっして良い謀ではありません。私は我が墓はこの城と思い、城を枕に討死にする覚悟です。どうか関白殿下(秀吉)にはよろしくお伝えください。」
そういって、拒否しました。使者も意気に感じ共に戦うと申し出たくらいでした。しかし、紹運はこれも許さず使者を帰します。

 さらに、立花城からの援軍も断り、わずか七百騎で籠城しました。おそらく紹運の考えは、自分が玉砕することによって時間を稼ぎ、秀吉の援軍がくるまで立花城を持たせるつもりだったのではないでしょうか。息子統虎への最後の愛情だったのかもしれません。

 島津軍は伊集院忠棟を総大将に四万余の大軍で、大宰府の北にあった岩屋城に攻め寄せます。わずか七百人の城兵は、名将高橋紹運の指揮のもと、頑として敵を寄せ付けませんでした。十日たっても城兵の士気は旺盛で、攻めれば攻めるほど損害が増すばかりでした。
 これには島津軍も辟易します。一旦後方に退くと新納蔵人を使者に立て降伏を勧めました。もとより死を覚悟の紹運はこれを一蹴します。ぐずぐずしていると秀吉の大軍が九州に上陸します。ついに島津軍は総攻撃の命を下しました。

 城が包囲されてから二週間後、ついに岩屋城は落城。力尽きた紹運は自害します。七百の城兵は全員玉砕しました。しかしこれにより貴重な時間を稼いだ立花城の統虎は、島津勢を寄せ付けず秀吉軍上陸まで持ちこたえます。秀吉軍上陸の報を受けた島津軍が囲みを解いて撤退すると、援軍到着を待たず統虎は討って出ました。そして瞬く間に岩屋、宝満両城を回復します。

 秀吉は、統虎の活躍を聞いて「鎮西第一の勇将」と激賞しました。しかし統虎の胸に去来するのは父の面影だったのではないでしょうか。

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