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2010年3月29日 (月)

『泗川城の戦い』 恐るべき島津の武勇

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 独裁者秀吉の誇大妄想的な野望から始まった朝鮮出兵は、彼の死によって終焉を迎えようとしていました。しかし、現地に残された十数万の日本兵にとってはこれからが正念場でした。
 嵩にかかって攻めてくる明・朝鮮連合軍の攻撃を防ぎながら困難な撤退戦を行わなければならなかったのです。

 慶長三年(1598年)十月、明将董一元率いる二十万の明軍が泗川城に攻め寄せます。この城は船舶の航行を守るために築かれた城で、文禄の役時に築かれた泗川古城と、慶長の役時に築城されまだ未完成ながら大軍の籠もれる泗川新城からなっていました。ここが陥落すると日本軍の退路が断たれるという重要拠点でした。
 守るのは薩摩の島津義弘・忠恒(後の家久)父子のわずか六千。主力は新城に籠もり、古城には五百の守備兵をおきました。

 明軍はまず古城に攻め寄せます。島津勢は百五十の損害を出して新城に合流しました。敵がわずか六千だと侮った明軍は強攻策にでます。 
 島津勢は日本軍の中でも鉄砲の保有率が高く、それを有効に使う戦術を持っていました。敵をギリギリまで引き付けて、島津勢は戦いの火蓋を切ります。銃身が熱で真っ赤になり熱くて持てなくなるまで鉄砲を撃ちまくりました。
 おそらく明軍はこれほど猛烈な火勢を経験した事などなかったでしょう。大混乱に陥ります。そこを衝いて島津勢は討って出ました。当主義弘・忠恒自ら刀を振るうほどの戦いで、敵を斬って斬って斬りまくりました。島津氏の報告では斬首38717、明の報告書では8万余の大損害をだして明軍は壊走しました。

 以後、明軍は恐れて島津勢に近づかなかったそうです。島津勢の武勇は伝説になり「石蔓子」(シーマンツー=しまづ)と呼ばれ恐怖の的になりました。
 この島津父子の獅子奮迅の大活躍により、日本軍は無事撤退できました。この功は朝鮮の役を通じて唯一の加増となるほど評価されます。
 後年、関ヶ原で敗北した島津氏が本領安堵になったのは、家康が『泗川城の戦い』 での島津氏の武勇を恐れたからだとも言われています。

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