2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010年4月

2010年4月 7日 (水)

豊臣秀頼生き残りのための大妙手

 通常はIFシリーズの続きは書かないんですが、昨日ふと考えてこの方法なら豊臣家が滅亡することはまずないという大妙手を考えたので発表します。

 そもそも豊臣家滅亡の原因は何だったのでしょうか?ほとんどの人が豊臣政権内の武断派と文治派の対立を家康にうまくつけこまれ、対立構造をそのまま軍事対決まで激化させて、自分がその一方の旗頭になったことが最大の原因だと指摘するでしょう。

 だったら、武断派を絶対裏切らせなければ良い(もっとも本人達は裏切ったとは思っていないでしょうが…)。そこで大きなキーマン(いやキーウーマンか?)になるのは、北政所ねね(出家して高台院)です。武断派の福島正則や加藤清正らにとって幼少のころから母代わりになって育ててくれた北政所は裏切れないでしょう。

 どういうことかというと、北政所に秀頼の養育責任を任せるのです。話は秀吉死去の数年前に遡ります。正室北政所に子がなく、側室茶々に世継ぎの秀頼が生まれたことによって立場が逆転します。

 世継ぎの御生母として茶々の権力が増大するにつれ、北政所の立場は微妙になってきます。北政所派といってよい加藤清正ら尾張派に対し、茶々の出身地である近江派の石田三成ら官僚が力をつけてくるのは当然です。

 もし秀吉が往年の智謀と慧眼をまだ持っていたら、自分の死後豊臣家がどうなるか容易に予見できたに違いありません。それを防ぐには、子のない正室北政所に生まれたばかりの秀頼を預け、茶々は出家させるか何かして秀頼と切りはなささなければいけません。

 これによって北政所と秀頼の関係は強固になります。武断派はとうぜん北政所に付いていくでしょうから家康も付け入れなくなります。正室と世継ぎという最強タッグだからです。場合によっては文治派を切り捨てることも選択しなければならないと思います。

 最悪、家康が文治派を操って対立を図ろうとしても、もともと文治派は戦下手ばっかりで頼りなく、しかも人望もないですから手のうちようがないんです。

 秀吉は、盟友前田利家を秀頼後見にしますが、わたしは黒田官兵衛こそそれに適任な武将はいないと思います。官兵衛を秀頼守役として大坂城に入れるのです。

 官兵衛は天下に野心を持っていたと言われますが、私は意外に守役だったらその責務を全うしてくれるような気がします。智謀はあっても悪人にはなれない人物だと判断するからです。それに事務能力もそこそこありますし、文治派退陣後の天下の政も無難にやってくれるのではないでしょうか?

 いかがです?これなら豊臣政権は長持ちするような気がしませんか?

歴史のIF第3弾! 「大坂の陣」 豊臣方勝利のための戦略

 柘植久慶氏の「逆撃」シリーズを読むと、私も歴史のIFを書きたい衝動に駆られます。第3弾は大坂の陣です。史実では冬の陣・夏の陣で豊臣秀吉の遺児秀頼が、徳川家康に滅ぼされてしまった戦いです。
 真田信繁(幸村)、後藤又兵衛らヒーローを産んだ戦いで、広く人口に膾炙しています。

 歴史上、徳川家の覇権が決定的になった戦いですが、豊臣方逆転の可能性はなかったのでしょうか?私が考えるに可能性はたいへん低いですが、万が一の可能性はなくもないとみています。しかしそのためにはクリアしなければいけない条件がいくつかあります。

 まず、第一に豊臣方の覚悟です。この戦いは豊臣・徳川が生きるか死ぬかで、妥協はないということ。
 次に、それに関連して淀殿ではなく秀頼が自らリーダーシップを取ること。
 第三に、戦の全指揮権を戦慣れしている真田信繁に預けること。
 第四に、籠城策は下策中の下策。積極的に打って出てこそ万が一の勝機があるということ。
 第五は、総大将として飾り物でも良いから秀頼が戦場に姿をみせること。

 最低限、これは実行しなければ勝つことは不可能でしょう。加藤清正ら豊臣恩顧の有力大名が亡くなった後ですから、戦の帰趨は戦場での勝利のみで決せられます。その結果、日和見の諸大名がはじめて動揺するはずです。


 以上、現実には実現不可能な条件(淀殿の性格や大坂城上層部の弱腰、猜疑心)ですが、これらをクリアできたと仮定して話を進めます。


 史実のように冬の陣・夏の陣のような戦い方では駄目です。籠城は援軍の可能性があってはじめて有効な策です。真田信繁が主張したように出撃策を採用すべきです。

 ただ、信繁案は宇治川・瀬田の線で東軍を防ぐとありますが、古来このラインで防衛に成功した例はありません。もっと東で防ぐべきでしょう。それに、裏道である伊賀越えの対策も練らなければなりません。

 家康は、このことを予測して彦根に譜代の井伊氏、伊賀・伊勢には準譜代といっても良い藤堂氏を配しています。しかも西には姫路城の池田氏など天下普請で築いたり、修築した親徳川方城塞群が大坂城を囲んでいます。このあたり家康の用意周到さは感心させられます。

 秀吉の残した莫大な黄金で集めた浪人衆は十万余。徳川方が全国の大名を総動員して集めた兵力が三十万ですから、野戦での決定的勝利がない限り、徳川方優位は揺らぎません。

 そのためには有利な場所を戦場に選定しなければなりません。ということは関ヶ原でしょう。そのためには彦根城をなんとかしなければならないのですが、徳川方集結の前に、急襲で叩くか、押さえの兵を置いておくべきでしょう。

 とすると関ヶ原に集められる豊臣方の決戦兵力はどれくらいになるでしょうか。西への押さえにも兵力を割かなければならないでしょうから、5~6万かせいぜい8万がよいところかもしれません。
 対して徳川方は最低でも15万は集めてくるでしょう。2倍以上の劣勢を真田信繁の軍略で逆転できるか?

 そうそう、朝廷工作も忘れてはいけません。あと、無駄かもしれませんが全国の大名に檄文を発して、豊臣家の正当性、徳川家が簒奪者だということを訴えなければならないでしょう。

 それもこれも、関ヶ原での決定的勝利があってこそはじめて生きてくるのです。


 どうでしょうか?奇跡の連続でもない限り豊臣方勝利の可能性はないのですが、まったくゼロではないことも理解できるでしょう。このような不利な状況に追い込んだ家康を褒めるべきか、それともこのような状況にまで追い込まれた豊臣方を非難すべきか?

 どちらにしても、私がこの場面を小説に書くときは苦労しそうです(笑)。

肥前今川氏の興亡

 南北朝時代、一時九州を制圧する勢いだった征西将軍宮懐良親王と菊池武光。足利幕府は劣勢の北朝方を巻き返すため、切り札今川了俊を九州探題として投入します。

 名将今川了俊は、北朝方の武士団を纏め上げ南朝から大宰府を奪い返すことに成功、懐良親王、菊池武光という二人の重鎮を失った南朝方を圧迫、ついには肥後・筑後に押し込めることに成功しました。

 これには肥後南部から薩摩・大隈の南朝方を攻めた了俊の嫡男義範(のちの貞臣)と、肥前守護として兄了俊を助けた弟仲秋の存在がありました。

 しかしあまりに強大になりすぎた今川了俊を警戒した三代将軍足利義満により、1395年九州探題を解任されると義範と仲秋も九州に残ることは許されず、了俊とともに所領のあった遠江に戻りました。了俊の子孫は遠州守護として一時栄えますが、隣国斯波氏と争そっていくうちに没落、本家駿河今川氏の支配化に置かれます。(遠州今川氏)

 しかし肥前守護の時代に勢力を扶植した今川仲秋は土地の有力豪族千葉氏(関東千葉氏の分家)と姻戚関係になり、妻を娶って嫡子国秋をもうけていました。

 仲秋の肥前残留は認めなかったものの、幕府は所領として獲得していた佐賀郡・杵島郡の相続は嫡子国秋に認めたみたいです。

 十数年に亘って九州で転戦し曲がりなりにも南朝支配を覆した今川一族の功績にたいするせめてもの配慮だったようですが、佐賀・杵島両郡は佐賀平野の枢要を占め、これだけでもゆうに二十万石はありました。

 このまま成長すれば肥前今川氏は、戦国大名に成長できる地盤を得たわけですが、九州進出をもくろむ周防の大内氏が、九州探題渋川氏を傀儡として北部九州に介入してきたことにより情勢が変わりました。

 小城郡を支配する千葉氏と今川氏の蜜月時代が続けば、肥前進出の機会がないと悟った大内政弘は、千葉氏を唆して今川氏との離間を図ります。

 これは成功し両者は戦争状態に陥りました。国秋は千葉氏との合戦で討死に、後を継いだ胤秋も千葉氏との抗争を繰り返しました。そしてついに1467年、小城郡内に攻め込んだ胤秋は千葉氏の反撃で敗北、返り討ちとなりました。

 これで大きく勢力を後退させた今川氏は、嫡子義秋が最後の抵抗をみせますが、ついに千葉氏に滅ぼされてしまいます。これで肥前今川氏の嫡流は途絶えました。


 今川氏は叔父の秀秋が、千葉氏に召しだされて臣従しますが、姓を持永氏に変えてしまいます。持永氏は千葉氏滅亡後、竜造寺、鍋島と主家を変え、最後は鍋島藩士として続きました。

長州奇兵隊の最期

 先日、当ブログのファンから苦言とリクエストを頂きました。
「鳳山さん、最近歴史ネタ書いてないね?楽しみにしてるのに。あっ、そうそうこのまえNHKで奇兵隊のことを紹介してたんで、その後どうなったのか記事を書いてよ。」

 白状しますと、歴史ネタはエネルギーを消耗するのでバテ気味の私としてはセーブして書いていたところなんです。しかし、リクエストとあれば書かねばなりますまい(笑)。



 ところで私は、奇兵隊は解散後、前原一誠の萩の乱に参加して、滅びたと理解していたんですがその前に反乱を起こして多くの隊士が処刑されていたみたいですね。

 その前に、ご存じない方はいないとは思いますが、念のために
『奇兵隊とは、、、 幕末、長州藩にて高杉晋作が創設した、士農工商の身分を問わずに編成された軍隊。明治維新の原動力になる。高杉なきあとは大村益次郎(村田蔵六)が指揮をとる。もともと、奇兵隊の発想は高杉の師の吉田松蔭が抱いていたもので、高杉はそれを忠実に実行したものと言える。』
(はてなダイアリーより)

 というもので、幕末長州藩の主力として第二次長州征伐(四境戦争)や戊辰戦争・越後口の戦いで活躍しました。初代総督の高杉晋作は有名です。

 奇兵隊は、明治維新後、大村益次郎らにより鎮台制が設立されたことで廃止されます。大村は奇兵隊を参考に武士ではなく一般庶民を兵士として採用する徴兵制を敷きました。しかし、奇兵隊はすでに士分扱いとなっており、自分達の存在の根幹が揺るがされると、これに強く反発します。

 しかも奇兵隊の幹部達(山県狂介)などは、新政府の重要な役職に取り立てられているのに対して、自分達の待遇があまりにひどいことに腹を立てていました。

 一方新政府としても、鎮台制の採用により奇兵隊の存在価値がなくなり、むしろ疎ましい存在となっていました。

 明治二年、大楽源太郎を首謀者とする奇兵隊の一部が蜂起、山口県庁を包囲するという事件が起こりました。いわゆる奇兵隊の反乱です。

 これには木戸孝允自らが兵を率い、鎮圧に当たります。大楽はじめ主だった130人あまりが処刑され反乱は鎮圧されました。しかしその残党はその後に起こった農民反乱や萩の乱にも参加し明治新政府への抵抗を続け、そして儚く散っていきました。

 幕末期、歴史の主役として躍り出てきた奇兵隊、その末路はあまりにも哀れでした。

歴史のIF 「関ヶ原の合戦」 西軍が勝つための方策

 明治時代、軍事顧問として来日していたドイツのメッケル少佐は、関ヶ原の合戦の布陣図をみて即座に西軍の勝ちだと断定したといいます。東軍が勝利したといわれてもなかなか信じなかったそうです。

 それはともかく、天下分け目の関ヶ原で西軍勝利の可能性ははたしてあったのでしょうか?軍事や歴史に詳しい作家の柘植久慶さんは、その著「分析 日本戦史」のなかで、内通者が続発していた西軍は関ヶ原に布陣していた時点ですでに負けていたと断じます。

 では、どの段階なら勝てる可能性があったのか?柘植氏は前哨戦の清洲城攻防戦が最大のチャンスだったと述べています。当時、清洲城には兵糧米30万石が蓄えられていたそうです。東軍はこの重要性を鑑み福島正則、池田輝政、黒田長政らが急行してこれを抑えました。

 一方、西軍はここの重要性に気付かなかったのか、ほとんど妨害もせずにこれを許したそうです。そればかりか伏見城、大津城などに貴重な時間を費やし濃尾方面への進出が遅れました。柘植氏は、これらの城には押さえを残し、少なくとも主力であった宇喜多秀家隊一万七千は素早く清洲城を押さえるべきではなかったかと、西軍の戦略のお粗末さに呆れています。

 笑うのは、兵糧に不足をきたした西軍が大垣城付近で稲刈りをしていたという体たらくだったそうです。戦は何よりも補給です。腹が減っては戦はできません。清洲城の兵糧は、運搬できなければ焼き払う事だってできるはずです。戦は敵の嫌がる事をしなければいけません。やはり石田三成は、計算だけはできても戦に関してはまったく駄目な人物でした。

 かっての小牧長久手の合戦のように、濃尾平野で各地の拠点である城を押さえ、長期対陣すれば勝機は西軍にあったそうです。時間が長引けば九州の黒田官兵衛が上洛してきます。官兵衛はおそらくまずは西軍に味方して、危険な家康の東軍を叩くでしょう。西軍諸将のほうが組し易いからです。

 その後の展開はどうなるか分かりませんが、三成がすんなり勝利する展開は難しいでしょう。西軍が勝っても天下を取るのは黒田官兵衛になりそうです(笑)。ただそのときは奥州で伊達・上杉連合ができそうで官兵衛の天下統一も時間的に難しいかもしれませんね。

平家物語で一番の美女

 国民的作家、吉川英治の最高傑作といってもいい「新平家物語」。文庫本で16巻という長い物語で、常盤御前や静御前など数多くの美女が登場します。そのなかで私は、容姿といい生き方といい一番の美女だと思うのは、袈裟御前です。あまり詳しくは覚えてないんですが、概略を紹介すると

「北面に詰める若殿ばらの中で、最近、源亘が美しい新妻を娶り、見事な駿馬を手に入れたという。平清盛や遠藤盛遠らが見せろ見せろとあまりにせっつくものだから、源亘もついに折れて自宅に彼らを招待した。
 宴たけなわになってもいつまでも現れないことに若者たちはいらだつ。ふと庭に目をやると月光の下に見事な駿馬があらわれた。しかし彼らは馬よりも、それを引いてきた人物に釘付けになる。下働きの下女の恰好ででてきた女性の、この世のものとも思われない美しさに呆然としたのだった。
 月光に照らされてたたずみ微笑むその女性こそ、源亘の新妻、袈裟であった。

 呆然と見守る若者達の中で、ひとり複雑な表情を浮かべたものがいた。遠藤武者盛遠である。彼女とは遠縁にあたり、袈裟とは幼なじみ。自分こそ袈裟を妻にするものと心に決めていたのだった。しかし、袈裟は乱暴な盛遠を嫌っていた。

 盛遠は、どうしても諦める事ができず何度も通っては亘と別れて自分と結婚して欲しいと袈裟にせまる。ついに意を決した袈裟は
「承知しました。あなたがそこまで仰るのなら今夜寝静まったころに屋敷に忍んでください。夫が寝所で寝ていますから殺してください。それができたら貴方の妻になりましょう」と言う。

 深夜、盛遠が侵入すると戸は鍵もかけられていなかった。これも袈裟の配慮だとおもい寝所で寝ていた人物を一思いに刺し殺し、首を取った盛遠は、無我夢中で駆け出す。そして月光の下で首を確認すると、絶叫した。

 盛遠が刺し殺した人物こそ、袈裟その人だったのである。袈裟は盛遠が諦めないだろうと覚悟し、自分が殺される事で解決しようと心定めていた。清冽な婦道であった。

 盛遠は絶望のあまり袈裟の首を抱いたまま熊野の山中に入る。一度は死を覚悟した盛遠であったが生死を彷徨うような厳しい修行を潜り抜け、後に文覚として世に出ることとなる。

 一方、源亘も世の無常をはかなみ出家したという。」

 どうですか?幻想的な美しさと貞節さ、常盤や静も美女ではありますがここまでの覚悟はないでしょう。退廃した平安末期に袈裟が示した生き方は、当時の人々にも衝撃を与えたと思います。

 退廃した貴族に代わって、武門の家に生まれ厳しい教育をうけた袈裟が象徴するように武士の時代がやってくる事の予兆でもありました。

石田三成と梶原景時

 日本史を見てみると、石田三成と梶原景時の生き方が酷似していることに気付かされます。司馬遼太郎の『関ヶ原』の大ファンとしては、どうしても三成贔屓なんですが、歴史を冷静に観察していくと、両者共に有能な官吏ではあっても、人望という点で劣っていたようです。

 二人の共通点として
①有能な官吏であるために法の執行のみに頭がいってしまい柔軟な対応ができなかった。
②戦がからっきし駄目で、しかも杓子定規なために武断派から嫌われた。
③時の権力者(頼朝・秀吉)からは絶大な信頼を受けたが、その死後は没落した。
④次代の権力者(北条氏・徳川氏)から、前時代の負の遺産と見られ、攻撃され滅ぼされた。

などが挙げられます。頭が良くて計算高いために、人の情とか人望などという抽象的なものには関心が向かなかったのでしょう。しかし、人はその情で動かされるものなのです。梶原景時がなすすべもなく北条氏の策にはまり滅ぼされたのに対し、三成は曲がりなりにも堂々と野戦を起こし、滅ぼされたのですから幸せだったのかもしれません。

鍋島直茂は本当に主家を乗っ取ったのか?

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は肥前の戦国時代・安土桃山時代の武将。肥前佐賀藩の藩祖である(ただし、正式には藩主になっていない)。
鍋島氏は龍造寺氏の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。

                     - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -

 「佐賀の化け猫騒動」もともと佐賀の領主だった竜造寺氏を、家老の鍋島氏が乗っ取ったためその恨みから竜造寺氏の飼い猫が化け猫になり、祟ったという話です。
 事実上、鍋島氏が乗っ取った形にはなっていますが、調べていけば鍋島氏に同情の余地がありそうです。

 「肥前の熊」と恐れられ、大友宗麟、島津義久と九州を三分した竜造寺隆信の覇権はひとえに鍋島直茂の活躍によって成されたものでした。
 大友宗麟六万の大軍に攻められ、滅亡の危機にあった竜造寺氏を、今山において奇襲攻撃で退けたのも直茂ですし、沖田畷の合戦で戦死した当主隆信亡き後、竜造寺家を支えたのも直茂でした。
 
 知勇兼備の名将として、かの立花道雪からさえ認められていた直茂は竜造寺家中からも一目置かれ、凡庸な隆信の子、政家を支え続けます。秀吉にいち早く誼を通じたのも直茂の進言でした。

 島津攻めの際直茂を見た秀吉は、その器量を認め事実上直茂を肥前竜造寺領の支配者と定めました。どういう事かというと、竜造寺家督は政家に認めるが、軍役は直茂が代行する事とされたのです。

 一人で竜造寺家を支えてきた直茂の器量と政家のそれを比較すれば当然の帰結でした。竜造寺家中でもそれに異を唱えるものがいなかったのがその証拠です。もっとも直茂自身は主家に気を使っていたらしく隠居した政家や、家督を継いだ高房に扶持を送り続けました。

 世間でも、これは自然の流れと見られ横領したとは評されていません。しかし高房自身の立場から見ると面白くなかったのでしょう。高房は従五位駿河守に叙任され江戸で将軍秀忠に出仕していましたが、高家のような立場で満足しておけばよいところ、直茂にあてつけるがごとく妻を刺し殺し、自身も自殺未遂事件を起こします。

 どうせ自分のものにならないなら、直茂もろとも佐賀藩を改易させてやろうという浅はかな考えからでした。名目上は高房が藩主でしたから。直茂は高房に対して怒りとも悲しみともつかぬ書状を発します。

 しかし、直茂の功績を知っている幕府は佐賀藩を改易にはしませんでした。絶望した高房は傷も癒えぬまま荒馬を乗り回し自殺同然に死にます。これで竜造寺氏嫡流は絶えました。隠居の政家も後を追うように病死します。

 幕府は、竜造寺家一門の意見も聞き直茂の子、勝茂に跡を継がせる事に決定しました。これが佐賀藩鍋島氏初代です。直茂が別段画策して乗っ取ったわけではないとご理解いただけるでしょう。ゆえに化け猫騒動が実際にあったとしても逆恨みもいいとこでした。

 直茂自身は、主家のために尽くし結果として受け継いだだけのことです。立花道雪も奸悪な人物を認めるはずがありませんから。

「小早川秀秋」同情論

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)、天正10年(1582年)-慶長7年10月18日(1602年12月1日)は安土桃山時代から江戸時代前期の大名。木下家定の子。正室は毛利輝元の養女(実父は宍戸元秀、祖母は毛利元就の長女)。従三位、権中納言。左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、金吾中納言とも称された。

                       - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -


 日本史上、寝返りは数あれど、関ヶ原における金吾中納言小早川秀秋ほど決定的なものは少ないでしょう。それまで善戦していた西軍は、松尾山上から駆け下った小早川勢一万五千のために形勢が一気に逆転し壊走したのですから。

 後の徳川幕府確立を決定付けた裏切りは、あまりにも劇的で当時の人からも後世の人からも指弾されました。関ヶ原の功により備前・美作五十七万石の大封を受けたものの、二年で狂死し人々は関ヶ原の祟りだと噂しました。享年二十一歳。
 何度かドラマ化されたこの時代ですが家康や三成は、立場によって良く描かれたり悪く描かれたりしましたが、この小早川秀秋だけはきまってマイナスイメージで統一されています。


 ではほんとうに秀秋は悪かったのでしょうか?調べていくと同情すべき点も多いのではないでしょうか。
 小早川秀秋は、はじめ秀吉の後継者として育てられました。しかし実子秀頼が誕生すると疎まれ、小早川家に養子に出されます。それもはじめ秀吉は毛利家に養子に出す意向だったのを、毛利本家にどこの馬の骨ともわからない秀秋を養子として押し付けられては堪らないと、小早川隆景が自分の養子にしたものでした。こんな事情を知ったら、秀秋でなくとも屈折した感情になるでしょう。このとき秀秋十四歳でした。

 朝鮮出兵では、秀秋は総大将として渡海します。汚名返上とばかり張り切ったのでしょう。自ら槍働きし、それが軽率な行動だと批判されます。三成らの讒言によって秀吉が激怒、領地である筑前三十六万石を召し上げ越前十五万石へ国替えを言い渡されました。

 これは徳川家康のとりなしで、なんとか事なきを得ましたが、頑張れば頑張るほど不運になる哀れな人生でした。決断力もなかったのでしょう。

 今までのいきさつなら素直に徳川家康に付きそうですが、豊臣一門として秀頼を裏切れないという葛藤もあったと思います。その優柔不断さが土壇場での裏切りという最悪の行動に奔らせたのではないでしょうか。

 内通などせず、初めから旗幟鮮明にしておけば名門小早川家を潰さずに済んだと思うのですが。肖像画をみても優柔不断で線の細い夭折の相をしています。

 寝返りという自分の行動が、世間から非難されていると知った秀秋は、それを苦にしノイローゼになって最後は狂死しました。決断せずにズルズルと運命に流された秀秋は可哀想な気もします。大封を得る器でなかったと言ってしまってはそれまでですが、裏切った秀秋より裏切らせた家康、そして敵側に追い込んだ三成こそ非難されるべきではないでしょうか?

歴史のIF 「信玄西上作戦」 もし信玄が長生きしたら~

 元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じ三万余の兵力を率いて甲斐を進発します。秋山信友に三千を預け美濃口から、山県昌景に五千を預けて三河口から侵攻させ、自らは北条の援軍二千を加え二万二千を率いて遠江口から徳川家康の領土に侵攻しました。

 奥三河を席巻した山県隊と合流すると、12月22日遠州三方ヶ原で徳川家康軍一万一千を文字通り鎧袖一触します。刑部で越年すると武田勢は三河野田城に襲い掛かりました。これを2月10日に落とすとあとは織田信長との直接対決を待つばかりでした。

 しかし、武田勢はなぜか動きを止め信濃へ撤退します。これは信玄の病が悪化したためでした。信州駒場で信玄は五十三歳の波乱の生涯を閉じます。


 歴史のIFを想像することはタブーと言われています。しかしそれだけ興味深く面白いのも事実。もし信玄が病に倒れず上洛の道を進めていたらどうなったかを考えるのは、歴史ファンなら誰しもでしょう。ここは鳳山流歴史シミュレーションにお付き合いください。

 当時の両者の国力を比較して見ましょう。概算ですがまず武田から。甲斐一国二十五万石、信濃一国五十万石、西上野二十万石、駿河十七万石、これだけで百十二万石あります。これに遠江、三河、飛騨、伊豆の一部を合わせ最大で百三十万石くらいでしょうか。一万石で300人動員できますから最大動員兵力4万弱。

 一方織田信長は尾張、美濃、伊勢三国で百六十万石以上。これに南近江で約四十万石、山城二十七万石、摂津・河内・和泉・大和で大体六十万石、総計三百万石近い領国を有していました。兵力は最大9万~10万動員できます。

 まともにぶつかっては信玄に勝ち目はありません。そこで外交の力によって形勢逆転を図ります。浅井・朝倉に働きかけて北近江の野で織田軍主力を拘束。織田領内各地で一向一揆を扇動、将軍足利義昭もこれに呼応し山城で挙兵の動きをみせます。

 この信長包囲網の力によって、織田軍を分散させ各個撃破によって倒そうという作戦です。しかし、早くも包囲網はほころびを見せ始めました。包囲網の重要な一角である朝倉義景が信玄に無断で本国越前に撤退してしまうのです。信玄は手紙でこれを強く非難しますが、後の祭りです。

 逆に信長にとってはラッキーでした。兵力的余裕のできた信長は、もし信玄が尾張・美濃に侵攻してきたらどのように行動していたでしょうか。

 ここからIFに入りますが、信長が対武田戦に振り向けられる野戦兵力はおそらく五万余り。これは各地の敵対勢力に兵力を張り付けておかなければならないからです。鉄砲保有率が高く、当時でもおそらく2千挺ほどは少なくとも保有していた織田軍ですが、尾張・美濃の兵は弱兵で有名で、信玄の作戦能力と甲州勢の強さから見ると、野戦での勝敗は分かりません。

 だだ信長が有利な点は、自分の領土内での戦いだということです。補給は容易で、しかも傭兵である織田軍は負けてもいくらでも補充がききます。一方、武田軍は戦いに勝利したとしても、兵の補充は難しく占領地が拡大するにつれ、守備兵力を割かなければなりません。

 信玄が、信長に勝利するためには野戦において決定的な勝利をあげ、信長の威信を地に落とさなければならないでしょう。そうすれば各地の豪族が武田に寝返り有利な体勢に持っていけます。朝倉も再び出てくるでしょう。

 しかし、そんなことは信長は十分承知しているはずです。なるだけ直接対決を避け、少数の兵で武田軍の補給路を叩く作戦に出るような気がします。戦いが長引けば長引くほど織田が有利になります。しかも武田軍の後方に徳川家康を残しているため、本国甲斐との連絡を絶たれる恐れがあります。

 決戦があるとしたら、尾張か美濃でしょう。信長は武田勢の強さを知っていますので城を楯にした布陣で長期戦を想定していると思います。後の小牧長久手の合戦のような形態になるのではないでしょうか。

 慎重な信長は、けっして自分からは戦端を開かないと思います。野戦築城を完璧に施し、武田勢の攻撃には大量の鉄砲をもってあたるでしょう。

 こうなると、他の反信長勢力が決定的に勝利を挙げない限り、結局攻めあぐねた武田勢は撤退せざるを得ないと思います。戦上手の信玄の事ですから、撤退戦で大きな被害は受けないでしょうが戦略的には信玄の敗北、信長が勝利することとなります。

 そして、年月が経過すればするほど信長の優位は崩れなくなり二度と上洛のチャンスは巡ってこないでしょう

本多正信   - 恩を仇で返した男 -

 徳川家康の謀臣として権勢を欲しいままにした本多正信。息子の正純と共に家康の側近中の側近として重用されました。

 若い頃、彼が三河一向一揆側に組し家康に敵対した経験があるのは有名な話です。三河武士の象徴ともいうべき大久保彦左衛門の「三河物語」でも「算盤の上手い、代官みなりの男」と評されています。

 ところで正信が徳川家に帰参がかなったのは、彦左衛門の兄で大久保党の惣領である忠世のとりなしがあったからでした。そればかりか忠世は正信の諸国流浪中、息子の正純を預かって養育までしていました。正信は大久保忠世に返しきれないほどの恩を受けていたのです。

 しかし、徳川家の重鎮であった忠世が死去すると、息子の忠隣と正信は政治的に対立する事となります。武功派の代表であった忠隣と、文治派の代表であった本多父子はしだいに深刻な関係になっていきました。
 
 徳川家中の主導権争いがあったのでしょう。しかも関ヶ原以後、武功派はしだいに疎んじられ、文治派が力をつけてくるのは時代の流れでした。

 それでも武功派に大久保長安という知恵袋兼スポンサーがいる間は、本多父子は武功派に手を出す事はしませんでした。しかし、長安が死去するやいなや讒言によって長安一族を葬り去り、忠隣もまた罠にはめて失脚させます。

 徳川幕府安泰のためには仕方ない選択だったのでしょう。しかし、どうも本多父子に良心の呵責があったような形跡は見えません。これは私の勝手な印象なので事実は違うのかもしれませんが…。

 世間でもそう見ていたみたいで、本多親子は蛇蝎のごとく嫌われます。徳川四天王の本多忠勝や榊原康政ら武功派からも憎みぬかれました。

 正信自身は無欲で、財産を残すこともしませんでした。ひたすら徳川家のため、悪に徹したともいえます。しかし、倅の正純は驕慢で同僚からも嫌われました。有名な宇都宮釣り天井事件は冤罪ともいわれますが、改易になっても誰も同情しませんでした。

 まさに天罰だったのかもしれません。

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »