歴史のIF 「関ヶ原の合戦」 西軍が勝つための方策
明治時代、軍事顧問として来日していたドイツのメッケル少佐は、関ヶ原の合戦の布陣図をみて即座に西軍の勝ちだと断定したといいます。東軍が勝利したといわれてもなかなか信じなかったそうです。
それはともかく、天下分け目の関ヶ原で西軍勝利の可能性ははたしてあったのでしょうか?軍事や歴史に詳しい作家の柘植久慶さんは、その著「分析 日本戦史」のなかで、内通者が続発していた西軍は関ヶ原に布陣していた時点ですでに負けていたと断じます。
では、どの段階なら勝てる可能性があったのか?柘植氏は前哨戦の清洲城攻防戦が最大のチャンスだったと述べています。当時、清洲城には兵糧米30万石が蓄えられていたそうです。東軍はこの重要性を鑑み福島正則、池田輝政、黒田長政らが急行してこれを抑えました。
一方、西軍はここの重要性に気付かなかったのか、ほとんど妨害もせずにこれを許したそうです。そればかりか伏見城、大津城などに貴重な時間を費やし濃尾方面への進出が遅れました。柘植氏は、これらの城には押さえを残し、少なくとも主力であった宇喜多秀家隊一万七千は素早く清洲城を押さえるべきではなかったかと、西軍の戦略のお粗末さに呆れています。
笑うのは、兵糧に不足をきたした西軍が大垣城付近で稲刈りをしていたという体たらくだったそうです。戦は何よりも補給です。腹が減っては戦はできません。清洲城の兵糧は、運搬できなければ焼き払う事だってできるはずです。戦は敵の嫌がる事をしなければいけません。やはり石田三成は、計算だけはできても戦に関してはまったく駄目な人物でした。
かっての小牧長久手の合戦のように、濃尾平野で各地の拠点である城を押さえ、長期対陣すれば勝機は西軍にあったそうです。時間が長引けば九州の黒田官兵衛が上洛してきます。官兵衛はおそらくまずは西軍に味方して、危険な家康の東軍を叩くでしょう。西軍諸将のほうが組し易いからです。
その後の展開はどうなるか分かりませんが、三成がすんなり勝利する展開は難しいでしょう。西軍が勝っても天下を取るのは黒田官兵衛になりそうです(笑)。ただそのときは奥州で伊達・上杉連合ができそうで官兵衛の天下統一も時間的に難しいかもしれませんね。
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