2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 「小早川秀秋」同情論 | トップページ | 石田三成と梶原景時 »

2010年4月 7日 (水)

鍋島直茂は本当に主家を乗っ取ったのか?

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は肥前の戦国時代・安土桃山時代の武将。肥前佐賀藩の藩祖である(ただし、正式には藩主になっていない)。
鍋島氏は龍造寺氏の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。

                     - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -

 「佐賀の化け猫騒動」もともと佐賀の領主だった竜造寺氏を、家老の鍋島氏が乗っ取ったためその恨みから竜造寺氏の飼い猫が化け猫になり、祟ったという話です。
 事実上、鍋島氏が乗っ取った形にはなっていますが、調べていけば鍋島氏に同情の余地がありそうです。

 「肥前の熊」と恐れられ、大友宗麟、島津義久と九州を三分した竜造寺隆信の覇権はひとえに鍋島直茂の活躍によって成されたものでした。
 大友宗麟六万の大軍に攻められ、滅亡の危機にあった竜造寺氏を、今山において奇襲攻撃で退けたのも直茂ですし、沖田畷の合戦で戦死した当主隆信亡き後、竜造寺家を支えたのも直茂でした。
 
 知勇兼備の名将として、かの立花道雪からさえ認められていた直茂は竜造寺家中からも一目置かれ、凡庸な隆信の子、政家を支え続けます。秀吉にいち早く誼を通じたのも直茂の進言でした。

 島津攻めの際直茂を見た秀吉は、その器量を認め事実上直茂を肥前竜造寺領の支配者と定めました。どういう事かというと、竜造寺家督は政家に認めるが、軍役は直茂が代行する事とされたのです。

 一人で竜造寺家を支えてきた直茂の器量と政家のそれを比較すれば当然の帰結でした。竜造寺家中でもそれに異を唱えるものがいなかったのがその証拠です。もっとも直茂自身は主家に気を使っていたらしく隠居した政家や、家督を継いだ高房に扶持を送り続けました。

 世間でも、これは自然の流れと見られ横領したとは評されていません。しかし高房自身の立場から見ると面白くなかったのでしょう。高房は従五位駿河守に叙任され江戸で将軍秀忠に出仕していましたが、高家のような立場で満足しておけばよいところ、直茂にあてつけるがごとく妻を刺し殺し、自身も自殺未遂事件を起こします。

 どうせ自分のものにならないなら、直茂もろとも佐賀藩を改易させてやろうという浅はかな考えからでした。名目上は高房が藩主でしたから。直茂は高房に対して怒りとも悲しみともつかぬ書状を発します。

 しかし、直茂の功績を知っている幕府は佐賀藩を改易にはしませんでした。絶望した高房は傷も癒えぬまま荒馬を乗り回し自殺同然に死にます。これで竜造寺氏嫡流は絶えました。隠居の政家も後を追うように病死します。

 幕府は、竜造寺家一門の意見も聞き直茂の子、勝茂に跡を継がせる事に決定しました。これが佐賀藩鍋島氏初代です。直茂が別段画策して乗っ取ったわけではないとご理解いただけるでしょう。ゆえに化け猫騒動が実際にあったとしても逆恨みもいいとこでした。

 直茂自身は、主家のために尽くし結果として受け継いだだけのことです。立花道雪も奸悪な人物を認めるはずがありませんから。

« 「小早川秀秋」同情論 | トップページ | 石田三成と梶原景時 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鍋島直茂は本当に主家を乗っ取ったのか?:

« 「小早川秀秋」同情論 | トップページ | 石田三成と梶原景時 »