肥前今川氏の興亡
南北朝時代、一時九州を制圧する勢いだった征西将軍宮懐良親王と菊池武光。足利幕府は劣勢の北朝方を巻き返すため、切り札今川了俊を九州探題として投入します。
名将今川了俊は、北朝方の武士団を纏め上げ南朝から大宰府を奪い返すことに成功、懐良親王、菊池武光という二人の重鎮を失った南朝方を圧迫、ついには肥後・筑後に押し込めることに成功しました。
これには肥後南部から薩摩・大隈の南朝方を攻めた了俊の嫡男義範(のちの貞臣)と、肥前守護として兄了俊を助けた弟仲秋の存在がありました。
しかしあまりに強大になりすぎた今川了俊を警戒した三代将軍足利義満により、1395年九州探題を解任されると義範と仲秋も九州に残ることは許されず、了俊とともに所領のあった遠江に戻りました。了俊の子孫は遠州守護として一時栄えますが、隣国斯波氏と争そっていくうちに没落、本家駿河今川氏の支配化に置かれます。(遠州今川氏)
しかし肥前守護の時代に勢力を扶植した今川仲秋は土地の有力豪族千葉氏(関東千葉氏の分家)と姻戚関係になり、妻を娶って嫡子国秋をもうけていました。
仲秋の肥前残留は認めなかったものの、幕府は所領として獲得していた佐賀郡・杵島郡の相続は嫡子国秋に認めたみたいです。
十数年に亘って九州で転戦し曲がりなりにも南朝支配を覆した今川一族の功績にたいするせめてもの配慮だったようですが、佐賀・杵島両郡は佐賀平野の枢要を占め、これだけでもゆうに二十万石はありました。
このまま成長すれば肥前今川氏は、戦国大名に成長できる地盤を得たわけですが、九州進出をもくろむ周防の大内氏が、九州探題渋川氏を傀儡として北部九州に介入してきたことにより情勢が変わりました。
小城郡を支配する千葉氏と今川氏の蜜月時代が続けば、肥前進出の機会がないと悟った大内政弘は、千葉氏を唆して今川氏との離間を図ります。
これは成功し両者は戦争状態に陥りました。国秋は千葉氏との合戦で討死に、後を継いだ胤秋も千葉氏との抗争を繰り返しました。そしてついに1467年、小城郡内に攻め込んだ胤秋は千葉氏の反撃で敗北、返り討ちとなりました。
これで大きく勢力を後退させた今川氏は、嫡子義秋が最後の抵抗をみせますが、ついに千葉氏に滅ぼされてしまいます。これで肥前今川氏の嫡流は途絶えました。
今川氏は叔父の秀秋が、千葉氏に召しだされて臣従しますが、姓を持永氏に変えてしまいます。持永氏は千葉氏滅亡後、竜造寺、鍋島と主家を変え、最後は鍋島藩士として続きました。
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