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2010年4月 7日 (水)

歴史のIF第3弾! 「大坂の陣」 豊臣方勝利のための戦略

 柘植久慶氏の「逆撃」シリーズを読むと、私も歴史のIFを書きたい衝動に駆られます。第3弾は大坂の陣です。史実では冬の陣・夏の陣で豊臣秀吉の遺児秀頼が、徳川家康に滅ぼされてしまった戦いです。
 真田信繁(幸村)、後藤又兵衛らヒーローを産んだ戦いで、広く人口に膾炙しています。

 歴史上、徳川家の覇権が決定的になった戦いですが、豊臣方逆転の可能性はなかったのでしょうか?私が考えるに可能性はたいへん低いですが、万が一の可能性はなくもないとみています。しかしそのためにはクリアしなければいけない条件がいくつかあります。

 まず、第一に豊臣方の覚悟です。この戦いは豊臣・徳川が生きるか死ぬかで、妥協はないということ。
 次に、それに関連して淀殿ではなく秀頼が自らリーダーシップを取ること。
 第三に、戦の全指揮権を戦慣れしている真田信繁に預けること。
 第四に、籠城策は下策中の下策。積極的に打って出てこそ万が一の勝機があるということ。
 第五は、総大将として飾り物でも良いから秀頼が戦場に姿をみせること。

 最低限、これは実行しなければ勝つことは不可能でしょう。加藤清正ら豊臣恩顧の有力大名が亡くなった後ですから、戦の帰趨は戦場での勝利のみで決せられます。その結果、日和見の諸大名がはじめて動揺するはずです。


 以上、現実には実現不可能な条件(淀殿の性格や大坂城上層部の弱腰、猜疑心)ですが、これらをクリアできたと仮定して話を進めます。


 史実のように冬の陣・夏の陣のような戦い方では駄目です。籠城は援軍の可能性があってはじめて有効な策です。真田信繁が主張したように出撃策を採用すべきです。

 ただ、信繁案は宇治川・瀬田の線で東軍を防ぐとありますが、古来このラインで防衛に成功した例はありません。もっと東で防ぐべきでしょう。それに、裏道である伊賀越えの対策も練らなければなりません。

 家康は、このことを予測して彦根に譜代の井伊氏、伊賀・伊勢には準譜代といっても良い藤堂氏を配しています。しかも西には姫路城の池田氏など天下普請で築いたり、修築した親徳川方城塞群が大坂城を囲んでいます。このあたり家康の用意周到さは感心させられます。

 秀吉の残した莫大な黄金で集めた浪人衆は十万余。徳川方が全国の大名を総動員して集めた兵力が三十万ですから、野戦での決定的勝利がない限り、徳川方優位は揺らぎません。

 そのためには有利な場所を戦場に選定しなければなりません。ということは関ヶ原でしょう。そのためには彦根城をなんとかしなければならないのですが、徳川方集結の前に、急襲で叩くか、押さえの兵を置いておくべきでしょう。

 とすると関ヶ原に集められる豊臣方の決戦兵力はどれくらいになるでしょうか。西への押さえにも兵力を割かなければならないでしょうから、5~6万かせいぜい8万がよいところかもしれません。
 対して徳川方は最低でも15万は集めてくるでしょう。2倍以上の劣勢を真田信繁の軍略で逆転できるか?

 そうそう、朝廷工作も忘れてはいけません。あと、無駄かもしれませんが全国の大名に檄文を発して、豊臣家の正当性、徳川家が簒奪者だということを訴えなければならないでしょう。

 それもこれも、関ヶ原での決定的勝利があってこそはじめて生きてくるのです。


 どうでしょうか?奇跡の連続でもない限り豊臣方勝利の可能性はないのですが、まったくゼロではないことも理解できるでしょう。このような不利な状況に追い込んだ家康を褒めるべきか、それともこのような状況にまで追い込まれた豊臣方を非難すべきか?

 どちらにしても、私がこの場面を小説に書くときは苦労しそうです(笑)。

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