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2010年5月

2010年5月14日 (金)

天下墓   足利直冬(ただふゆ)の墓か?

 広島県と島根県の県境に近い広島県安芸高田市美土里町生田字智教寺に、「天下墓」と呼ばれる不思議な墓があります。地元の伝承では足利義昭の墓と伝えられています。

「足利義昭は、毛利氏に見放されたあと、出雲の尼子氏を頼り、安芸から石見路を経て、出雲へ向かう途中、この村にて病となった。村の一角に智教寺を構え、この寺で過ごすこと数年、ついにこの地に生涯を終えたのである。村人は、義昭を哀れに思い、この地で荼毘に付し、丁重に埋葬した。これが『天下墓』である。」

 ただ、史実では義昭が没する頃にはすでに尼子氏は滅んでおり、義昭自身も「秀吉天下統一後、許されてお伽衆に加えられ山城填島で一万石を与えられ大坂で没す」と記録にありますから史実とは考えにくいんです。



 地元の郷土史家もこの説は否定しており、では一体だれの墓か?という謎が残ります。一部の研究者の中には

①足利一門あるいは関係者か?
②広島・島根にゆかりのある人物
③晩年をこの地近辺で過ごした者

ということから、足利直冬の墓ではないか?と主張する者がいます。



 と、ここで「足利直冬って誰?」という人が多いと思うんで簡単に紹介します。

【足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。室町幕府将軍足利尊氏の妾腹の子。生没年不詳。1327年~1400年が有力。

 生母の身分が低かった(遊女か?)ため父尊氏に愛されず弟直義の養子になる。尊氏・直義の兄弟対立(観応の擾乱)では直義方について九州・中国地方を転戦。一時は長門探題、九州探題を歴任し上洛して京都を占領するほどの勢いを示す。
 しかし尊氏方の盛り返しと養父直義の急死(毒殺か?)で急速に没落。有力な与党であった山名・大内両氏が尊氏方に寝返るに及んで勢力を失い石見国(島根県西部)に隠棲。同地に没す。墓は不明。】



 私は、天下墓が直冬の墓である可能性はかなり高いと見ています。といいますのも大内・山名ら有力守護が尊氏方に寝返る中、最後まで直冬を支えたのが安芸(広島県西部)の石見国境を根拠地とする吉川氏だと言われているからです。

 石見国の守護は高師泰・荒川詮頼が一時なっていますがそれ以外はだいたい周防の大内氏が任ぜられていました。幕府方となった大内氏が睨みを利かせる中、直冬が隠棲するなら安芸国境に近い山間部しかないと思います。唯一の庇護勢力と言ってよい吉川氏の領地とも近くなにかと便利だったのでしょう。

 大内氏としても寝返った手前、山間部に隠棲するのなら見逃してやろうという気持ちがなかったとは言えますまい。すでに勢力を失った直冬に対して三代将軍義満も黙認していたそうですから。


 一時は天下を握る可能性もあった直冬が、晩年には尾羽うち枯らして島根の片田舎で生涯を終えるんですから人生は儚いですね。実は私、この直冬という人物大好きなのでございます。日本史書庫第1回目の記事がこの直冬だったりします(笑)。(駆け出しでまだ文章力がないんで恥ずかしいんですが…)


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 直冬の墓の(可能性が高い)場所が分かったので、いつか墓参りに行きたいですね。ちょうどアマゾンで足利直冬の本を買ったばかりなのでなおさらです。しかし地図で見たらとんでもない山の中です。道があるのかどうかも分かりません(泣)。

スキップボミング(反跳爆撃)と特攻

 突然ですが、ダンピールの悲劇と呼ばれたビスマルク海海戦をご存じでしょうか?漫画「ジパング」でも紹介されたのでご存じの方も多いと思いますが、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で日本の輸送船団が連合軍の航空攻撃で壊滅した戦いです。

 実はこのとき連合軍がとった戦術がスキップボミング(反跳爆撃)という攻撃方法でした。原理は単純、子供の水遊びで水面に水平に投げると蛙跳びに石が飛んでいくというのがありますが、まさにそれです。

 水面の表面張力を利用して水面に水平になるように爆弾を投下し、爆弾をスキップさせながら飛ばして行って、艦船の船腹に当てるという戦法です。雷撃より高速で飛んで来るため避けるのが難しい攻撃方法でした。

 もともとイギリスのビッカース研究所で考案された攻撃方法で、実際イギリス軍はドイツのダム攻撃で使用しました。米軍でもアメリカ陸軍航空軍第5空軍のウィリアム・ベン少佐が艦船攻撃に使えるということで研究を進めます。


 実行方法は、【アメリカ陸軍航空軍の開発した方式では、爆撃機は海面高度約60 - 75 mを約370 - 460 km/hで水平飛行して目標艦船の側方から接近し、約180 - 90 mの距離で、5秒の遅延信管を取り付けた2 - 4発の225 kg通常爆弾または450 kg通常爆弾を投下する。投下された爆弾は水面上を水切り石と同じ要領で反跳し、目標船舶の吃水線下または船体上部に命中し起爆する。どちらの場合でも目標に有効に損害を与えることができる。特に水中での爆発は、艦船に対して大きなダメージを与えることができた。】( フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
というものです。


 スキップボミングの利点は、急降下爆撃機や雷撃機でなくとも訓練さえ施せば戦闘機でも実行できるというところでした。命中率は50~60%という驚くべきものだったという記録もあります。


 日本でもダンピールの悲劇を受けて研究がすすめられたのですが、ものになったとは思えません。日本で実用化しなかった理由として

①日本の爆弾は欧米のものと比べニッケルを含んだ圧延鋼でなかったため強度が不足した。
②反跳爆撃用の遅延信管を新規に開発しなければいけなかった。
③航空機と同じ速度で爆弾が飛んでいくため、跳ねた爆弾が機体に当たる危険性があった。

などがあげられます。しかしこれは、ためにする議論といえなくもありません。(あるいは軍オタの言い訳か?爆)

 ①~③の理由で実用化が難しかったから、手っとり早い特攻作戦が採用された、という主張には怒りを禁じえません。人の命をなんだと思っているんだ!(激怒)


 ①②は理由にすらなっていません。イギリスはわざわざ専用の爆弾を開発したくらいですよ。技術力や資源の無さを理由にするべきではありません。できないのなら創意工夫で何とかしろ!

 ③は実は深刻な問題で、ドイツでもこのために断念したくらいですがイギリスでは投下前の爆弾に対してバックスピンをさせることで解決しています。ようは根気なんです。


 どうも日本人は、諦めの早さがあるように思えてなりません。実用化するまで絶対諦めないという強い意志さえあったら可能でした。アメリカ、イギリス、ソ連では実用化できたんですから。 


 人の命を的にする特攻作戦をするくらいなら、このスキップボミングを実用化すべく努力すべきだったのではないでしょうか。レーダーの前にはスキップボミングは無力だったという者もいますが、じゃあ特攻は有効だったのかと問いたいですね。

 同じことでしょう。それにスキップボミングの方が生還の可能性は高いはずですよ。戦争は合理的精神がなければだめです。たとえ負けるにしても最大限の努力をすべきだったのではないでしょうか?

私論「徳川埋蔵金」考

 もはや知らない人はいないと思いますが念のため
【徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)とは、江戸幕府が密かに地中に埋蔵したと伝えられている金塊またはそれに準じる金属貨幣のことをいう。埋蔵時期とされる幕末以来、多くの発掘プロジェクトが各地で行なわれ、そのほとんどが全く成果のないままに終わっているが、現在でも独自の推論を根拠に発掘を続けている人々が存在する。】(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


 今回は徳川埋蔵金についてです。もちろん私の説が絶対正しいなどどは言いませんし、今でも生涯かけて探している人たちがいらっしゃるので、あくまでこんな考え方もあるんだなと、寛大な目で見ていただくと幸いです。


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 さて、ここから本題に入ります。突然ですが、まず皆様に質問!埋蔵金を隠すのにどこが一番安全だと思いますか?

①深山幽谷の人の入らない山の中の洞窟
②本城以外で他国の人間が気付きにくい山城跡
③お寺や神社、あるいは墓地の下


正解はどれとは言い難いのですが、私は③だと思います。といいますのもどこも見つけにくいのですが③は、それにさらに掘ったら罰が当たるのではないかという心理的陥穽まで設けてあるのです。


 これを徳川家埋蔵金に充て編めると、私は赤城山など巷で言われている場所にはないのではないかと考えます。そもそも幕末期の徳川幕府は埋蔵金を隠す財政的余裕はなかった、という説はひとまず置いておいて、あると仮定しますと…

 ③の条件にもっとも合致した場所は日光東照宮ではないかと考えます。ここならさすがに社殿を打ち壊して埋蔵金を探すなどという暴挙はできませんし、隠し場所を知っている子孫なら容易に取り出せるでしょう。


 ではなぜ、私が徳川埋蔵金が日光東照宮にあると考えたかですが、まず当時の江戸城には埋蔵するほどの財政的余裕がなかったと想像されます。

 次に、幕末の混乱期に莫大な埋蔵金を隠す時間的余裕があったのか?ということです。むしろ世の中の平穏な時に万が一の蓄えとして残す方が容易なのではないでしょうか?

 さらに、日光なら東照宮造営のどさくさにいくらでも埋蔵金を隠す余裕があります。「木を隠すには森の中」という諺もありますし。

 私はズバリ徳川埋蔵金=徳川家康の遺産と考えています。といいますのもそれ以外の歴代将軍で莫大な財宝を残せる将軍はいなかったと考えるからです。しかも徳川家万一の時を想定できる器量の持ち主は他にいなかったでしょう。

 実は家康が莫大な財宝を持っていたということは記録に残っていたのです。記録では家康の隠居所であった駿府城の金蔵の床が、積み上げた金銀財宝の重みで潰れたそうです。それほどの莫大な遺産はまず駿河の久能山に収められました。そして日光東照宮造営の際、家康の遺体とともに日光に運ばれたと考えられます。はっきりとした記録は残されていませんが、私は常識的に考えてそうだろうと思っています。


 おそらく家康は、遺言で「自分の遺産には手をつけるな。徳川家が危機に陥った時に使え」と遺言していたのではないでしょうか?


 ではなぜ赤城山説をはじめ埋蔵金伝説があちこちに残されているのでしょうか?私はそれこそ本命である日光を隠すための陽動作戦だと考えているのです。

 伝説では埋蔵金は八門遁甲の法で埋められた、とあります。諸人はこれが難解なために埋蔵金の隠し場所が分からないと嘆いていますが、私は八門遁甲あるいは奇門遁甲をかじったことがあるのでなんとなく想像できます。

 遁甲では物理的な謎とともに心理的な謎を兵法で使います。埋める時期、場所、方向などによって見つけにくいようにするのです。これを坐山といいます。

 幕末に埋蔵金を埋めたとされる軍学者・林靏梁はおそらく相当な遁甲の使い手だったと見ます。幕府から埋蔵金を依頼されるくらいですから日光東照宮に真の埋蔵金があるということを聞かされていたのではないでしょうか?彼は偽計をめぐらしていかにも赤城山中に埋蔵金を埋めたような工作をした、そして後世の人はそれに騙され全く違う場所を掘り続ける。

 そもそもが、あるはずのない江戸城から利根川を使って埋蔵金を運んだなどということ自体怪しすぎます。そんな莫大な財宝を誰にも気づかれずに運ぶことが物理的に果たして可能だったか大いに疑問です。

 しかも当時の江戸城の台所は火の車、いったい誰が命令しますか?「そんな金があるなら武器を買え」という声が絶対出てきますよ。下手すると敗北主義者として斬り殺されるかもしれません。

 埋蔵金を実際に埋めたのは、遁甲に造詣が深い天海僧正その人だった気がしてなりません。天海は家康と、将来起こりうるであろう徳川家の危機を共有し、家康の遺言によって日光に埋蔵金を埋めたのではなかったでしょうか。


 そして、天海は「徳川家がいよいよの時は真の隠し場所を敵に気づかせないため偽計を施して敵を欺け」と遺言していたと考えます。林靏梁はそれ忠実に実行したにすぎない、こう考えれば自然だとは皆さん思いませんか?



 謎はもう一つあります。新政府が江戸城を接収したとき城の金蔵はもぬけの空だったという記録です。このために埋蔵金伝説が独り歩きしたのだと思いますが、ちょっと冷静に考えると理由は容易に想像できます。

 すなわち榎本艦隊が蝦夷地に逃げるとき、軍資金として金蔵に残っていた財宝をごっそりと持ち出した。だから何もなかったのです。案外財宝を探すなら榎本艦隊が沈んだ津軽海峡の函館沖を探す方が現実的かもしれませんね。
 

山下財宝とマル福金貨

 皆さんは山下財宝という言葉をご存じですか?第2次大戦中の話なんですが、

 山下財宝とは…【フィリピンで一般的に語り継がれている伝説では、東南アジア(主にビルマ)から徴発した金塊をシンガポールからフィリピンで中継し、日本本土に海上輸送しようとしたが、潜水艦や航空機による海上輸送路への攻撃が激しくなったため、隠しておいて、終戦後に引き上げようとしたところ、関係者が戦犯として処刑されたため在処の情報が失われたとされている。】(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


 写真はマル福金貨で呼ばれるもので、伝説ではこの金貨で2万5千枚くらいあると言われています。ただ実際は日本軍が軍票を乱発したことによるインフレと、米軍上陸前のフィリピン人の売り惜しみで物資不足に陥ったため、フィリピンの華僑系財閥から物資調達の協力を得るために日本本土から送られたものでした。

 ということはかなりの額が使用されたはずで、実際どれだけ残っていたかも疑問ですし、軍票を乱発したということは言われているほど金塊などの財宝がなかった何よりの証拠でしょう。

 マルコス大統領が巨万の富を得たのは、山下財宝を発掘したからだとまことしやかに言われていますが、実態はODA絡みで日本企業からの賄賂を貯めたんでしょう。道義的にも法律的にもばれたらまずいので財宝発掘などと称し煙に巻いたんだと思います。


 ただ、今でも幻の山下財宝を求めて現地フィリピン人はもとより日本をはじめ世界中の人たちが一攫千金を求めてジャングル地帯に入り込んでいます。財宝が全くないとまではいいませんが、思ったよりかなり少ないと思いますよ。それよりも見つかったのが大量の軍票だったというオチになりそうな気が…。
 しかも周囲には戦死した日本兵の大量の遺骨が…。なんまんだぶ、なんまんだぶ。見つけた人はちゃんと供養してくださいよ。罰があたりますよ!!!

 日本軍軍票は収集家に人気で、高値で取引されてますが莫大な量が見つかったとなると一気に暴落します。


 山下財宝は、M資金などと同様都市伝説の類であり詐欺師たちが利用しますから気をつけましょう。私が以前に記事に書いた「ナイジェリアからの手紙」みたいに…。

2010年5月 1日 (土)

畠山重忠の乱の謎

 皆さんは畠山重忠なる人物をご存じでしょうか?源平合戦の歴史に詳しい方なら、知勇兼備の名将として源頼朝に最も信頼された人物として御記憶しておられることと思います。

 彼は北条氏が鎌倉幕府の実権を握る過程において、罠にはめられて滅ぼされたと言われています(畠山重忠の乱)。当時でも清廉な武将として有名だった重忠は、無実の罪を着せられていたのではないかという声が多かったのですが、ではなぜ滅ぼされたかについては謎が多いんです。


 といいますのも、実は重忠は幕府初代執権北条時政の娘婿で北条氏との関係も良好なものでした。

 通説では、時政の後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅と武蔵の支配権をめぐって争い、朝雅に味方した牧の方の讒言を、彼女を溺愛する時政が真に受けて重忠追討令を発し滅ぼしたとされます。吾妻鑑によれば重忠の妻と同じ時政の先妻の子供たちである嫡男義時、二男時房、尼将軍政子までが、「幕府の忠臣である重忠が謀反を起こすはずはない」と討伐に反対したそうで、そのために鎮圧後親子の関係がぎくしゃくとなり息子の義時によって時政は隠居させられ伊豆に追放され、以後政子・義時ラインが鎌倉幕府を牛耳るようになりました。


 が、私は吾妻鑑のこの記述にいささか疑問を持っています。時政と義時の路線の対立が表面化したものではないかと考えています。


 といいますのも、平賀朝雅は源氏の一門(新羅三郎義光四世の孫)で北条時政・牧の方ラインが密かに征夷大将軍につけようと画策していたふしがあるのです。頼家や実朝は政子の子でありながら、北条氏の存在を嫌いひそかに排除しようとしていましたから、自分たちの言うことを聞く娘婿の平賀朝雅を将軍にして名実ともに幕府を支配しようとしていたという説が有力です。



 そのためには北条氏に対抗しうる有力御家人の排除をする必要があり、梶原景時・比企能員らを次々と謀反の罪を着せ滅ぼしています。重忠も場合もまさにこのケースだと言えそうですが、義時はまだ重忠を滅ぼす時期ではないと判断していたのかもしれません。


 いずれ滅ぼさないといけない相手でも、あまりに強引な行動は御家人たちの反発を生みます。実際このときも御家人たちから轟々たる非難を受け、それに応える形で時政は隠居に追い込まれたんですから。


 実は北条家内部にも対立の芽がありました。時政の後妻牧の方の一族である大岡時親らと、時政の先妻の子たちである政子・義時の間の暗闘です。こんな中でもし平賀朝雅が将軍に就任してしまうと政子・義時は排除される可能性が高いのです。一方、政子はともかく義時は平賀朝雅将軍には反対で幕府の中で源氏色をなるだけ薄めようとしていたのではないかと考えます。その証拠がのちの摂家将軍ではないでしょうか。



 義時にとっては、牧の方・平賀朝雅ラインを牽制するためにも自分たちの同母妹を妻にしている重忠の勢力は必要だったと思います。


 しかし、義時は牧の方の讒言を入れようとしている父時政の姿を見て、父から実権を奪い牧の方・平賀朝雅ラインを排除する絶好の機会だと冷静に計算したに違いありません。そのために味方である重忠をこのとき切り捨てたのです。


 哀れなのは畠山一族でした。まず重忠の子重保が鎌倉で何も知らされないまま誅殺されます。鎌倉の異変に気づいた重忠は一族郎党百余騎を率いて本拠地菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)を出発していました。

 そして、二俣川に差し掛かった時鎌倉から討伐軍が向かっていることを知ります。家臣たちが館に引き下がって戦うことを進言しましたが重忠は
「潔く戦う事が武士の本懐である」として負けるのを承知で戦いを挑みました。戦いは重忠の奮戦も空しく多勢に無勢、四時間余りの激闘ののち全滅、重忠も自害して果てます。


 こうして畠山一族は滅んだのですが、討伐軍に加わった御家人たちの中で、重忠が大軍を率いていなかったところを見て謀反は濡れ衣ではなかったのかという声が上がります。


 義時は、この声を受けて父時政を糾弾、隠居させるのです。義時は後顧の憂いをなくすため京都にいた平賀朝雅も部下に命じて殺させます。


 こうして鎌倉幕府二代執権になった北条義時は、尼将軍政子を補佐し北条氏独裁体制を築き上げます。その後に起こった和田義盛の乱のケースも畠山重忠と全く同じパターンでしたが、このときは北条氏に反対する声は表面化しませんでした。それだけ盤石な体制を築いていたのでしょう。


 以後北条氏は鎌倉幕府執権として日本を支配していくことになるのです。

井上成美の慧眼

 海軍きっての知性派で、日独伊三国同盟に米内光政、山本五十六とともに反対し、日本海軍最後の海軍大将、海軍次官として終戦工作に尽力した井上成美(しげよし)。

 戦史を紐解いた者なら知らぬものはないほど有名な人物ですが、実は開戦当初の第4艦隊司令長官の時の作戦指導の不手際から私はあまり高い評価していませんでした(ファンの方、ごめんなさい。航空主兵をいち早く主張したことや和平に尽力したことは評価してるんですよ)。


 ただ、最近読んだ「ロジスティクス」(谷光太郎著)で彼に対する印象が随分変わりました。


 1941年、彼が航空本部長の時に次のような「新軍備計画」を海軍大臣に提出しています。

①航空機の発達した今日、主力艦同士の決戦は絶対に起こらない。
②敵の主力艦が何隻いようと航空兵力が十分であれば沈めうる。
③陸上航空基地は不沈空母であり、海軍航空兵力の主力は基地航空兵力とすべきだ。
④日本の委任統治領であるマーシャル、カロリン、マリアナ諸島はそれに天与の条件を有している。
⑤対米戦はこれらの航空基地のある島々の争奪戦になるであろうから、これらの要塞化を進めるべきだ。
⑥日本の継戦能力は海上ロジスティク線の確保が最重要であるから、これらの護衛兵力を充実する要あり。


 現実の戦争は彼の予言通りに進みました。航空戦力の重要性を意見具申したことも重要ですが、何よりも⑥番の海上兵站が日本継戦能力のカギであるという主張は当時の日本(今の日本もですが…)の状況を冷静に分析していてその慧眼ぶりに感心させられます。今の私たちから見ると当たり前のように思えますが、当時の海軍上層部は艦隊決戦主義に凝り固まり、彼の卓見は結局握りつぶされてしまうのです。


 日本は資源の乏しい国です。石油やボーキサイト、ゴムなどの戦略物資は言うに及ばず食料なども海外からの輸入に頼らなければ立ち行かない国なのです。日本にとって何が重要かというとこれらの海上通商路の安全確保だということは自明の理でしょう。

 しかし、日本海軍が本格的に海上護衛に艦艇を投入し始めたのは商船被害が絶望的に拡大し始めた大戦末期でした。井上成美はその末路を正確に予言し早急な対応を求めていたのです。

 しかし直言の士である井上は煙たがられ、その意見が容れられることはありませんでした。


 日本の情けないところは、現在のソマリア海賊に対して自衛艦の派遣に反対する者がいることでも証明されるでしょう。彼らは日本の置かれている立場が理解できていない愚か者なのです。そのような馬鹿は、輸入品のない生活が想像できていません。海外からの輸入が途絶えればどうしますか?第2次大戦中のアメリカのように国内でほぼすべての資源が産出される資源超大国ではないんですよ!


 歴史に学ばず、現在の状況も冷静に分析できない者達(左翼やマスゴミ)に井上の爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいです(怒)。


 ロジスティクスの分かっている井上に海軍の戦争指導(少なくても兵站部門)を任せたかった!そうすればもっとましな展開(最後は負けるにしても…)になっていたかもしれないと思うと、残念でなりません!

小袖餅と名和一族

 最近はほとんど行かなくなりましたがJR熊本駅に寄ると売店で『小袖餅』なるものを買っていました。通常のお餅の4分の1くらいの大きさで一口サイズ、中には甘いあんこが入っています。これとお茶を買って帰りの電車に乗り込むのが何よりの楽しみでした(笑)。

 ところでこの餅がなぜ小袖餅と呼ばれるか面白いエピソードがあります。



【小袖餅の由来】
永正十四年の或日宇土城主名和伯耆左衛門尉は民情を見んものと独り忍びで城下を歩かれ、とある町端れの茶店に這入り心ゆくばかり餅を味われました。城主のお顔を知らない茶店の娘静江はさっさっと出て行かれる城主に「お餅代を戴きます」と申しました。城主はお金が無いのに気付、ほとほと困られ遂に小袖を切って「是を持って城内に来い。さすれば餅代をとらす」と言って立ち去られました。小袖の紋で城主であることを知った娘静江は自分の無礼の罰が母に及ぶ事を恐れ、其夜城内に忍び込み母を救けて私独り成敗して下さいと嘆願いたしました。城主は静江の孝心に感激せられ、小袖と沢山のお金を下し置れました。それから静江の孝心と餅の美味を賞へて誰言ふとなく「小袖餅」と名付けられ次の様な俗謡さえ流行しました。“餅は餅でも小袖の餅は、可愛い静江の味がする”。


 熊本県宇土市の名産らしいのですが、ここで出てくる名和氏と聞いて日本史ファン、とくに南北朝時代ににくわしい方はピンときたのではないでしょうか?


 そうです。この宇土城主名和氏は後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を滅ぼした伯耆(現鳥取県西部)の豪族名和長年の子孫です。


 建武の新政時、功により名和長年の嫡男長興は肥後八代荘の地頭に補されます。そのほかにも名和一族は全国各地の所領を得たとは思いますが、足利尊氏の台頭とともに各地の所領は北朝方の武士に横領され、まだ曲がりなりにも南朝の力が強かった九州肥後に一族こぞって下向してきました。

 正平十三年(1358)、長年の孫顕興の時代だといいます。名和一族は本拠の古麓城(八代市)を中心に八代郡と芦北郡、それに益城郡の一部を領し、征西将軍宮懐良親王と肥後の豪族菊池武光を助け九州南朝最盛期を築きます。


 しかし南北朝時代が終わり室町に入ると次第に衰退し、戦国時代肥後守護の菊池氏が内訌で支配力を失うと球磨郡から伸長してきた相良氏と芦北郡の支配をめぐって争います。


 何度か八代の支配者が変わるほどの激戦でしたが、最後は時の肥後守護菊池武運(たけゆき、のち能運よしゆきと改名)の斡旋で八代郡を相良氏に譲る代わりに宇土郡を与えられます。文亀三年(1503)頃だと伝えらます。


 これが宇土城主名和氏の始まりです。その後も旧領八代郡奪回を図って相良氏と何度も戦ったそうですが、失地回復はできず、ついに豊臣秀吉の九州攻めが起こります。そのころには相良氏も名和氏も北上してきた島津氏に屈していたようですが、秀吉にいち早く拝謁し本領安堵を勝ち取ります。


 ただ、これで安泰ではありませんでした。まもなく秀吉から肥後一国を賜った佐々成政が入部してくると強引な検地に反抗して肥後の国衆(肥後各地に割拠していた在地領主たち)が一揆を起こします。

 いわゆる肥後国衆一揆です。しかしこのとき名和氏の当主顕孝は荒尾筒ヶ岳城主・小代親泰、隈本城主・城久基とともに大坂城に召還されていたため奇跡的に難を逃れました。

 秀吉の真意は、自分と農民の間に立ちはだかる中間搾取層だったこういう地侍たちの撲滅にありましたから、中立を保っていてもいずれは滅ぼされる運命にあったのです。実際一揆が鎮圧されたあと五十二人いたとされる肥後国衆のうち生き残ったのはこの三家だけでした。


 ただ名和氏も宇土城主として領地に留まることはできず、筑前に五百町与えられ小早川家に従います。その後豊臣秀次、福島正則に仕えたそうですが最後は筑後国山本郡の千光寺に隠棲しました。慶長十三年(1608)に死去。


 顕孝の子、長興は筑後柳川藩立花氏の客分となり先祖の故地の名をとって伯耆氏と改めます。のち名和姓に戻り明治維新を迎えました。明治十一年(1878)、名和長恭は南朝の忠臣であったという由緒から、名和神社の宮司に任ぜられて男爵を授けられたそうです。

石川数正出奔の謎

 最近思うところあって懐かしの大河ドラマ「徳川家康」総集編を見返してます。このドラマ、ジャリタレなど一切出ず玄人受けする配役で私が一押しする大河ドラマなんですが、なかでも家康の重臣石川数正役の江原真二郎が出色ですね!


 ところで石川数正って誰?っていう人がいると思うので簡単に紹介すると、

【石川数正】1533年~1593年

 家康が今川家の人質の時代から近侍として仕え、徳川家では主に外交を担当。織田徳川同盟や桶狭間以降の対今川氏との交渉で活躍。

 三河一向一揆の時も、父康正が家康に反旗を翻す中、浄土宗に改宗してまで徳川家に残り家康を支える。家康の信頼も厚く酒井忠次と共に家老に任ぜられ家康の嫡子信康の後見人、信康の切腹後は岡崎城代を務めた。

 秀吉と家康が直接対峙した小牧長久手戦後の外交交渉で、秀吉との和平論者であった数正は主戦論が幅をきかす徳川家中で孤立。謎の出奔を遂げる。

 秀吉からは重用され信濃松本十万石を与えられた。



 武骨者ばかりの徳川家中で、真に徳川家の将来を憂い苦悩する石川数正を江原真二郎が熱演しています。こういうインテリ役をやらせたら天下一品ですね。そういえば明智光秀役もなんかのドラマでやってましたが似合っていました。



 で、本題に入ります。数正出奔の理由には古来からいくつも言われています。

 ①数正の能力を買った秀吉に引き抜かれた。

 ②外交問題で一人だけ和平を主張した数正は身の危険を感じて出奔した。

 ③後見人を務めた信康の切腹で、家康との関係が冷え切っていた。

 ④自分があえて裏切り者の汚名を受けることで主戦論の徳川家中に冷や水を浴びせ、秀吉との合戦を避けた。


 など色々言われています。他の小説では①が多いんですがこの大河ドラマの原作者、山岡荘八は④説をとっています。

 初めは私も①と②あるいは③が複合した理由かと考えてきたんですが、このドラマを見てしまうと④説も納得できるんですよね。

 
 実話かどうか知りませんが、感動的なエピソードがあります。ある時信長から賜った鯉を徳川家の家臣が誤って殺してしまい、途方にくれているところに通りかかった数正は、生きてる鯉まで合わせて調理し家臣に食べさせてしまいます。
 とうぜん、烈火の如く怒る信長を想像して、真っ蒼になった家康が数正を手討ちにしようとしますが、

「いくら信長様からの賜りものとはいえ、たかが鯉一匹とお家のために命をかけている家来の命とどちらが重いか分からぬ主君では、あまりにも情けなさすぎます。
 以後このような馬鹿げたことがなきよう、この数正が残りの鯉を調理したまでのことです。むろん主君の命に逆らった罪は罪。数正、喜んで殿に斬られますが、今後はこのような事が無きようお願い申し上げる」
と諫言します。

 座って静かに後ろを向く数正をどうしても斬れない家康。最後には主従とも涙を流して家康が謝りました。「二度とこのようなことをしない」と約束して。


 このような立派な人物が、利だけのために秀吉に転ぶでしょうか?私は④説をとりたいですね。さらに裏切り者のはずの数正の子の康長も所領を安堵されていますしね。ただその後の大久保長安事件に連座して改易にはなりましたが…。


 多分に心情的なものですが(江原真二郎の演技が良すぎたので)、私は石川数正忠臣説を支持します!

歴史のIF第6弾!「平将門 坂東に君臨す!」

 久しぶりに懐かしの大河ドラマ「風と雲と虹と」の総集編を見ました。いやあ面白い。しかし見ていくと平将門は戦は上手いけど戦略や政略でいま一つという感じが否めません。もっと上手くやったら関東独立国ができたのではないかともどかしい思いで見ていました。そこでIFシリーズ第6弾は平将門と藤原純友の「承平天慶の乱」を取り上げます。



 もしご存じない方がいるといけないので

【承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)は平安時代中期に、ほぼ同時期に関東と瀬戸内海で起きた平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。
関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。

瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。】(ウィキペディアより)

というものです。


 純友はともかく、将門には良い軍師がいませんでした。不平皇族の興世王くらいしか文官はいませんでしたし、彼も学はあっても後先を考えない無鉄砲なところがあってとても軍師は務まりません。

 一方当時の関東には下野国(現栃木県)に四千騎の兵力を集める実力を持つ田原藤太(たわらのとうた)藤原秀郷、常陸国(現茨城県)には坂東平氏の実力者・常陸平太(ひたちのへいた)平貞盛がいました。

 平貞盛は知略はあっても戦はからっきしだったのでそれほど驚異ではありませんでしたが、一方秀郷は知勇兼備の恐るべきライバルでした。

 この二人が朝廷側についたために将門の乱は鎮圧されたといっても過言ではありません。朝廷の追討令が出て追討使が関東に派遣されても、実行部隊である武士団の協力がなくては何もできないのです。

 反乱が成功するにはこの二人を何とかすることがカギとなります。


 もともと桓武平氏内の土地争いが発端の乱でしたし、将門は貞盛の父で、将門の叔父でもある平国香を殺しているので貞盛にとっては不倶戴天の敵でした。一方秀郷がなんで将門の敵に回ったかですが、諸説ある中で私は秀郷が将門の乱の将来性に見切りをつけた、という説をとります。

 関東は勿論、当時の日本は公地公民の制が崩れ大貴族や寺院が荘園を日本各地に設け、農民も朝廷の苛斂誅求の苦しさから土地を逃げ出し、荘園の家人となることで天皇中心の律令体制はは完全に破たんしていました。もともと律令体制を守るべき貴族たちが競って荘園を作っていたのですから話になりません。


 結局はそれが自分達の支配体制を根底から覆すことになるのですから自業自得ですが、庶民たちは朝廷の無能と貴族たちの横暴に強い不満を持っていました。だからこそ将門の乱は当時の関東の住民たち(武士や農民を含む)に大歓迎されたのです。


 では将門はどうやったら成功したのでしょうか?考えられることは関東の実力者である藤原秀郷と平貞盛をなんとかすることです。もちろん味方にすれば万全なのですが、特に親の仇の貞盛は絶対に靡かないでしょう。そして貞盛を何とかしない限り、秀郷もまた靡かない。


 実は貞盛に関しては何とかならなくもないのです。親の仇とはいいながら貞盛は、もともと父の国香やほかの叔父たちが京都に出仕して将門が留守の間に、その土地を騙し取ったのが原因だと分かっていたので一時は融和の姿勢を見せていたのです。
 しかし、叔父の平良兼・平良正らに「嫡男のくせに親の仇を討たないのか?」と詰め寄られやむなく参戦したという経緯がありました。そのため当初は戦意が低く一時は将門の軍勢に敗れ、碓氷峠を通って関東から逃げ出すということもありました。

 そして朝廷の命を受けひそかに根拠地の常陸で挙兵するも失敗、命からがら下野の藤原秀郷のもとに逃げ込みます。しかしそこからが貞盛の凄いところで、尾羽打ち枯らした身であるにもかかわらず、堂々とした態度を崩さず秀郷に利害得失を説いて朝廷の側にたった挙兵を促すのですから大したものです。

 結局これが将門の命取りになりました。秀郷・貞盛の連合軍に敗れた将門は戦死、反乱は潰えたのです。


 ここまで読まれて、反乱の成否はこの平貞盛をなんとかする事だと理解されると思います。貞盛を倒すチャンスは何度もありました。

 最初の挙兵で敗れた時もそうですし、密かに常陸に潜入して蜂起した時もそうです。史実では無類の強運で生き延びたわけですが、どこかの時点で貞盛を討ち取っていたらどうでしょう?

 貞盛さえ倒せば、他の平良兼・平良正らは無能なのでどうとでもなります。朝廷の追討軍もその軍事力自体がないのですから何もできないでしょう。将門の武威を示せば東山道や東海道の武士団もいくら朝廷の命とはいっても参戦を渋るでしょう。そして下野の秀郷は孤立、味方には付かないにしても中立は保つと思います。貞盛を倒した時点で秀郷に使者を送っておくと万全ですね。
「味方にならずとも中立を保ってくれれば攻撃しない」と。


 何とかして貞盛を倒す。これができれば数年で鎮圧されるということはなかったでしょう。当時の関東や奥州は名馬の産地で主力は弓を主武装とした準重装騎兵でした。東ローマ帝国のカタクラフトとまではいかなくともかなり強力な兵でした。日本においては当時最強の軍事力だったと言えます。

 将門陣営としては、関東各地に少数の騎兵を数多く派遣して貞盛を追い続けると共に莫大な懸賞金をかけて「貞盛を殺すかとらえた者には恩賞を与える」と言ったら成功したかもしれません。

 いや、史実でもそうしたかもしれませんが徹底できてなかったのでしょう。だからこそ常陸への侵入を許したのです。どう考えても将門の支配地域である上野や武蔵、下総を通らなければ常陸には入れませんから。


 貞盛を倒し、秀郷をすくなくとも中立させ、朝廷の追討軍を何度か(いや一度でも可かも?)関東国境で破ったら当時の無能な朝廷は手を出せないでしょう。そして西国の藤原純友がもし太宰府を落としでもしたら…(一時は占領に成功したのですが)、こりゃ面白くなってきますね。

 将門が敗死したために西国に朝廷が全力で当たれることになったことが、純友軍鎮圧の主因でしたから。


 そして貞盛が死ぬことで、その子孫である平清盛ら伊勢平氏一門は存在しないことになるのですから日本の歴史はどうなるんでしょう?最終的に承平天慶の乱が鎮圧されたとしても、その後の歴史は想像もできません。

八幡神と秦氏の謎

 数年前九州ローカルの旅番組を見ていたら、ちょうど宇佐神宮を紹介していて司馬遼太郎の「街道をゆく」の文章の一節を引用していました。

 なにげなく聞いてみますと、八幡神はもともと「やはた」神と呼び八とは「八千代」とか「八雲」のように数が多いことの例え。多くの「はた」氏のための神が源流ではなかったか?と推察していました。


 「はた」氏とはもちろん秦氏のことです。秦氏とは…

【秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。】(ウィキペディアより)

 というもので、古代日本において重要な役割を担った渡来系の一族です。一説では機織(はたおり)や畑作(はたさく)も秦氏から出たのではないかとされるくらい産業技術面で大きく貢献し、各地を開発し土木・養蚕・機織など多くの技術を伝えました。


 秦氏は新羅系あるいは百済系と言われますが、私が以前から考察している通りユダヤ系のにおいがするんです。といいますのも秦河勝が創建したとされる兵庫県赤穂市の大避神社はもと大闢神社といい、ダイビャクつまりダビデのことだとされるのです。またこの神社の近くには「やすらいの井戸」なるものがあります。「やすらい」=「イスラエル」と読み解く人もいるくらいです。

 あと秦氏系の神社に見られる「三本脚鳥居」は、キリスト教の三位一体の象徴ではないかということから、秦氏は景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)だったのではないかと推測する論者もいます。


 司馬氏は短編小説「兜率天の巡礼」において秦氏とユダヤ人の関係を読み解いています。余談ですがこのロマンチックな小説は私の中では司馬作品でもベストテンに入っている話ですので一読をお勧めします。


 京都にも大酒(=大避)神社があり、これも昔は秦氏の本拠地太秦にある広隆寺の中にあったそうです。そしてここにも「やすらいの井戸」があるといいます。


 八幡神の話に戻ると、この神は農業神あるいは鍛冶の神とされ祭神も応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)とされています。全国に一万社とも二万社ともいわれ、これは稲荷社につぐ2位の分布数です。

 これだけみると、八幡社と秦氏との関係を読み解くことはできません。しかし祭神の応神天皇について言わせていただくと、以前記事で書いた通り私の推理では日本古来の王朝であった三輪王朝を滅ぼした九州王朝の祖。そしてもとを正せば朝鮮半島を支配した満州起源の騎馬民族・扶余族による征服王朝であったと見ています。


 扶余族の征服王朝、そして半島系の渡来民族。天孫族と自称した扶余族と秦氏の間に何らかのつながりはなかったのでしょうか?歴史的な事実として景教徒が中国まで来ていることは確実です。ならば日本まで来ていてもおかしくない。一説では秦氏の起源は中央アジアとも言われており、それならばイスラエルの失われた十支族の末裔の可能性も出てくる!このあたりは資料を集めていないので想像するだけですが…。


 今後の研究課題ですが、今のところ秦氏は扶余族そのものではないが協力関係にあったユダヤ系あるいは景教徒であった。扶余族の日本支配に従って渡来し、地方を開発し技術を伝えた。地方開発の過程で自らの神である八幡神を各地に創建した。もともとは別の神であった八幡神を、天孫族への服従の証として祭神を応神天皇を始めとした天孫族ゆかりの神とした。ただし本拠地だけはみずからの信仰を守り八幡宮ではなく大避神社として残した。私はそう考えています。

小松帯刀清廉

数年前話題になったNHK大河ドラマ『篤姫』。私はふだんはあまり大河を見ませんが、この作品だけは宮崎あおいちゃんの魅力で毎回欠かさず見てしまいました(笑)。

 私も幕末ものはもともと大好きだったんで、いつも楽しく拝見していたんですが小松帯刀役の瑛太、いい味だしていました。実際の帯刀もあんな感じだったのかなとふと興味を憶えまして調べてみました。


【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】

小松 清廉(こまつ きよかど、天保6年10月14日(1835年12月3日) - 明治3年7月20日(1870年8月16日))は薩摩藩士、禰寝氏嫡流の小松氏当主。明治時代初期の政治家である。通称は尚五郎、帯刀。元の諱は兼才。官位は玄蕃頭、従四位。家紋は抱き鬼菊の葉。一般には小松帯刀(こまつ たてわき)の呼び名で知られる。

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 36歳の若さで亡くなっているんですねえ。もとは肝付尚五郎といって島津家重臣の家柄。そこから同じく重臣小松家に養子に入ります。このあたりの経緯は大河ドラマをご覧になっている皆さんがお詳しいでしょう。

 ですから私はドラマで語られなかった豆知識をひとつ。肝付氏というのはもともと大隈国の戦国大名で薩摩の島津氏とは敵対していました。本姓は伴氏です。平安時代に伴兼行が薩摩国惣追捕使に任命されて下向したのが始まりで本拠地の大隈国肝属郡の地名をとって肝付氏と名乗りました。

 南北朝時代、島津氏が北朝に付けば、こちらは南朝と徹底的に対立する天敵だったようです。戦国時代には日向の伊東氏と組んで島津氏に対抗し、一時は竹原山の合戦で島津軍を破るほどの活躍をみせますが、次第に圧迫され最後は降伏しました。

 肝付本家は百石と冷遇されていたのに、分家の肝付尚五郎の家系は早くから島津氏に帰順し重臣となっていたそうですから面白いですね。


 一方小松氏のほうも本姓禰寝(ねじめ)氏。一説には平重盛の後裔とも言われますがはっきりしません。こちらも大隈国禰寝院に勢力をはり南北朝時代には北朝方。戦国時代に島津氏に取り込まれ、以後重臣として遇されたそうです。禰寝氏の嫡流が小松氏なのでこちらも名門です。


 で、ようやく帯刀本人の話に入ります(笑)。吉利領主・小松清猷に学んだ事は事実らしいのですが、篤姫と接点があったかどうかは分からないそうです。あれはドラマの脚色でしょう(笑)。

 幼少時から凝り性だったそうです。勉学や琵琶に打ち込みすぎて体を壊したというエピソードがあります。小松清猷の跡目養子となって清猷の妹・千賀(近)と結婚します。お近さんのほうが七歳年上の姉さん女房でした。そのためかどうか知りませんが京都で活動する事が多かった帯刀は、京都小松屋敷にお琴という側室を設け、子をなします。これが小松清直で、維新後は正室の近子(お近さん)が引き取り小松家の跡取となりました。


 調べていくとドラマのようなちょっと頼りない人物ではなく、諸藩にも名前が知られた落ち着いた人物だったようです。後に薩摩藩城代家老(家老のトップ)になったことでもそれはうかがえます。

 在京中に神戸海軍操練所の閉鎖で行き場を失った塾生の世話を勝海舟から頼まれた事から、世話人で同年齢の坂本龍馬と意気投合、亀山社中の設立を助けたり龍馬がお龍を妻に娶ったときの世話をしています。

 これが後に薩長同盟に繋がるんですから面白い人脈です。薩土同盟や四侯会議でも活躍しています。二条城で徳川慶喜が大政奉還したときには薩摩藩代表として出席しています。

 明治維新後は新政府において参与や総裁局顧問、外国官副知事、玄番頭などを歴任しました。薩摩において西郷や大久保と並び称される存在であった事は間違いないでしょう。


 しかし、長年の無理がたたったのか明治2年には病気のため官を辞します。オランダの名医の治療を受けますが、その甲斐なく明治3年(1870年)に大阪で病死しました。享年36歳。

 生きていれば確実に明治政府の重鎮として要職を歴任したでしょう。もしかしたら征韓論のときも参議として西郷と大久保の決定的対立をうまく調整したかもしれません。
 初代内閣総理大臣にもなっていたかもしれませんね。

初代鎌倉公方    足利基氏

 皆さんは室町幕府の初代将軍は知っていますね。足利尊氏ですが、では二代将軍は誰でしょう?義詮(よしあきら)とちゃんと言えましたか?三代義満は有名ですが、二代目って意外と目立たないんですよね。当然義詮の弟、基氏など無名な存在でしょう。

 足利基氏は、関八州と伊豆・甲斐を統括する室町幕府の出先機関・鎌倉府の初代長官、いわゆる鎌倉公方になった人物です。(1340~1367)


 尊氏を父に正室赤橋氏を母に嫡流として生まれた基氏は、同腹の兄義詮とは十歳離れていました。尊氏の弟直義の養子として育てられます。この事実をもって基氏が父に疎まれていたと論ずる人もいますが、異腹の兄直冬や尊氏の娘も預けられていますので、子供のない直義(唯一の子供は四歳で早世していた)の寂しさを紛らわすために預けた家族愛の証明だったと私は解釈します。


 基氏が歴史上現れたのはわずか九歳のときでした。尊氏の寵臣高師直と直義の対立からいつしか尊氏と直義自身の対立となった観応の擾乱が始まると、尊氏は鎌倉にいた嫡子義詮を京都に呼び戻し、代わりに弟の基氏を鎌倉に派遣します。この時随行したのはわずか百騎に満たない少勢だったそうです。

 擾乱自体は高師直兄弟の処刑、尊氏の直義派制圧で沈静化していったのですがもともと直義与党の多い関東では幼少の基氏は飾り物の存在にしかすぎませんでした。

 鎌倉府は尊氏派の高師冬と直義派の山内上杉憲顕の両執事(後の関東管領)の対立が激化していました。尊氏派が優勢になると憲顕は失脚し越後に逃れます。

 しかし直義派の反撃で高師冬も1350年敗死してしまいます。南朝方の動きも無視できず、尊氏は1351年関東に入り基氏をバックアップしました。直義自身は降伏しこれで関東は平穏になるやに思えましたが、翌1352年2月直義が急死してしまうのです。あまりのタイミングのよさに太平記では兄尊氏による毒殺説もでているくらいです。

 これで名実ともに関東の主人となった基氏は、このとき十三歳になっていました。尊氏が関東にあった2年間は、初めての親子水入らずの時間でした。旧直義派の東国守護の一斉更迭など政治的な動きもありましたが、尊氏は息子基氏にこの期間帝王学を教えたと想像します。


 そして、1353年尊氏の京都帰還が基氏親政の始まりでした。鎌倉府執事には基氏の妻の兄、畠山国清が就任していました。尊氏は基氏に南朝方を討つため鎌倉から出陣するよう命じます。以後1362年まで9年間基氏は武蔵入間川に陣を敷き南朝方討伐に明け暮れました。このため入間川殿とも呼ばれます。

 この9年間は基氏が関東を固めた時期でした。まず尊氏帰還の直前の1353年6月には鎌倉幕府の残党、北条時行を捕らえ鎌倉龍ノ口で処刑します。1358年には新田義貞の遺児義興を謀殺、南朝方の蠢動はほぼ押さえ込みました。


 しかし、内紛もおこりました。鎌倉公方の妻の兄という立場から権勢に驕った執事畠山国清は、旧直義派の諸将の猛反発をくらい罷免要求が出されます。国清は伊豆で挙兵し、やむなく基氏は妻の兄を討つ破目になりました。1362年国清の敗死で事件は解決しますが基氏の心中は察するにあまりあります。


 後任の執事には一時高師有が就きますが、直義派を納得させるために越後に逃れていた山内上杉憲顕が呼び戻され復権しました。1362年のことですが、この時以来憲顕は鎌倉府執事を関東管領と称します。

ようやく関東の騒乱を収めた基氏は鎌倉に帰還しました。以後政権の安定に腐心した基氏でしたが、、夢窓疎石の弟子である義堂周鳳を鎌倉へ招くなど、鎌倉の文化の興隆にも努めました。

 1367年基氏は死去します。享年二十八歳。同年12月には兄である二代将軍義詮もなくなりました。あまりにも早すぎる死ですが、基氏は兄の京都幕府に対抗意識があったのでしょう。鎌倉を第二の首都とする夢と野望を持っていたのかもしれません。

 初代基氏の意思を受け継いだ鎌倉府はやがて京の室町幕府と対立するようになりました。1439年四代持氏が幕府軍の追討を受け自害したことを基氏はどのような気持ちで眺めていたのでしょうか?

立見尚文      - 明治の男は偉かった! -

立見 尚文(たつみ なおふみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日) - 明治40年(1907年)3月6日)。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。桑名藩士、のち陸軍大将。男爵。父は桑名藩士町田伝大夫。

                        - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 -

 司馬遼太郎の不朽の名著『坂の上の雲』を読まれた方なら、旧幕府軍出身ながら無類の戦上手で日清・日露両戦役で活躍した名将、立見 尚文のことはご存知でしょう。

 今月号のWiLLで、渡部昇一先生が立見のエピソードを紹介されていたので興味深く読みました。かいつまんで説明すると


 皇族の小松宮に随行してロシアの首都サンクトペテルブルグを訪問した時の事。皇族は国賓待遇ですが国際慣例として随員にも勲章が授与される事になっていました。通常自国で授けられている勲章より1級上のものが与えられるのですが、どういうわけか勲四等の立見に神聖スタニスラウス勲四等が授与されてしまいます。

 あきらかに手違いだったので、立見はロシアに勲章をつき返そうとします。それを聞いた日本の公使館員はロシアとの関係がこじれるからと大慌てで立見を説得しました。

 しかし立見は
「馬鹿を申すな。このような態度だからまともな外交ができないのだ」と立腹して勲章を受け取ろうとしません。

 今度は公使自身が飛んできて
「私の知る限りでは、いったん授与された勲章と勲記を相手側につき返すという話など聞いた事がない。これを先方に伝える事も憚られるので何とか受けてもらえないだろうか?」
と説得しますが
「何を言われるか公使。そのような弱腰だからわが国は舐められるのではないか。公使館がやっていただけないなら自分で返上するのみ」と断固拒否しました。

 この話を聞いた小松宮も偉い方でした。「これは立見のほうが正しい」と言われたため、進退窮まった公使は仕方なく恐る恐るロシア外務省に申し出ます。


 驚いたロシア外務省も国際慣習を無視したとあっては面目丸潰れです。日本公使館にはロシア章勲局の幹部が出向きました。重大な手違いだったと陳謝して2種類の勲章を渡して平謝りに謝って帰っていきました。

 開いてみると神聖スタニスラウス二等勲章と神聖アンナ二等勲章です。立見が毅然たる態度を示したためかえってロシア側が敬意をしめし破格の扱いをいたのでした。

 謁見の時、皇帝ニコライ2世もわざわざ立見に話しかけてきたほどです。これは日露戦争のずっと前、日本が弱小国と思われていたときのことでした。

 いかがでしたか?きちんと筋を通して毅然たる態度を貫けば侮られることなどなく、かえって尊敬を受けるという好例ではありませんか。そして今の日本に決定的にかけているのはまさにこれです。

 この話は特に日本の政治家と外交官に読んでほしいと思います。

『邪馬台国と投馬国の位置』  - シリーズ鳳山古代史 -

 これまで邪馬台国北部九州説、扶余族制服王朝東征説、三王朝交代説を見てきましたが、初心に帰って魏志倭人伝(『三国志』魏書東夷伝倭人条)に基づいてその位置を探ろうと思います。

 魏志倭人伝では邪馬台国までの道のりを「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」と表しています。これがどこから出発したかで九州説、大和説に大きく分かれるのですが大和説は南が東の間違いだろうという推論で無理がありますので論じません。転記するうちに東が南になったという主張は、私は納得できないので。

 水行十日陸行一月の出発点が帯方郡からか、それとも距離表示がある伊都国からかで邪馬台国の位置が大きく変わってくるのです。帯方郡なら九州説有利、伊都国なら畿内説有利(もっとも方向で無理がありますが…)となってきます。


 ただ別の記述で「郡至女王國萬二千餘里」という記述もあり帯方郡から女王国まで12000里だと分かります。ここから距離の分かっている伊都国までの合計(7000+1000+1000+1000+500で計10500里)を差し引くと1500里しかありません。

 当時の1里には諸説ありますが最大でも500m、ただし壱岐と対馬の間が1000里とされますから単純計算でもその距離の1.5倍。倭人伝では余里として誤差を表現していますから、誤差まで含めると1000里強くらいだったと思われます。伊都国出発説だと壱岐から対馬までの距離を水行10日もかかった事になり常識では考えられません。

 
 ここは素直に帯方郡出発説を採ります。これだと女王国は北九州にあっただろう伊都国から最大1500里内。九州説が俄然有利になってきます。

 同じく、投馬国(とうまこく?とまこく?つまこく?)も南水行二十日と表現されています。伊都国や末盧国までが里というはっきりとした距離で表されているのになぜ邪馬台国や投馬国までが陸行、水行というあいまいな表現に止まっているかという謎にたいする私なりの解釈ですが、魏使は邪馬台国の出先機関があったとされる伊都国までしか来てないのではないかと考えています。


 私なりの結論では一応邪馬台国は北九州のどこかとしておきます。(何回か遷都されたふしがあるので)七万戸(人口35万)という邪馬台国に対し五万余戸(人口25万)の投馬国ですが、陸行という記述が無く、水行のみということは、海に面したところではないかと推理します。しかも方角は南。

 話は急に変わりますが、宮崎に西都原古墳群というものがあります。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の市街地西方を南北に走る、標高70メートル程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大の古墳群だそうですが、25万の人口を抱え海に面した場所だったら、この宮崎平野など有力候補になってきはしませんか?


 実は私は火の国=狗奴国説を採っているので有明海沿岸には投馬国を比定できないのです。九州の地図を見てもらうとわかりますが、北九州から佐賀・熊本方面には容易に行けますが、宮崎には険阻な山岳地帯を抜けなければなりません。現代でさえそうなのですから古代ならなおさらでしょう。投馬国に陸路表記が無かったのもそれが困難だったからだと考えています。


 私の解釈では邪馬台国は北九州一帯の連合国家の盟主、投馬国は宮崎平野を中心に九州の東南3分の一くらいを占めた連合国家であったと推理しています。そして西南三分の一は狗奴国の領域。もちろん仮説ですので、どなたか私が完全に納得できる説をご教示していただければ変わる可能性もあります(笑)。

神武東征の謎と三王朝交代説

 邪馬台国と狗奴国の記事を書いて以来、古代日本の国家成立についてずっと考えています。それには神武東征をどう捉えるか?ということが鍵だと思います。

 日向国(宮崎県)を出発した神武天皇が、北九州より出港して機内へ遠征しナガスネヒコを倒して大和を征服して橿原宮で即位したという話ですが、私はなんらかの歴史的事実が元になっているのでは?と考えているのです。


 ところで三王朝交代説というのをご存知ですか?初代神武天皇は置いておいて第2代代綏靖天皇から第9代開化天皇までが実在せず(欠史八代、神武天皇については後に考察します)、記紀がそれまでの大和地方内の記述から全国的な記述になり、実在がほぼ確認される第10代崇神天皇から第14代の仲哀天皇までの三輪王朝(大和国三輪地方が本拠)。

 三輪王朝を滅ぼし政権を奪ったと言われる河内を本拠とした第15代応神天皇を祖とする河内王朝。

 応神天皇5世の孫といわれ、河内王朝最後の天皇である第25代武烈天皇に嗣子がなかったことから、越前で育ち、近江や越前、尾張の勢力に擁立された第26代継体天皇を祖とする継体王朝。

 継体天皇は現在に至る天皇家の祖ですが、これら三王朝が古代において交代したとする学説です。


 私はこの説を支持しているのですが、年代がはっきりしないのです。最初の交代である三輪→河内が3世紀末から4世紀初頭と言われています。次の河内→継体は6世紀初頭でほぼ間違いないと思われます。


 ただ三輪王朝の初代崇神天皇も318年没という説がありこれだと河内王朝と被るのです。これをどう捉えるべきか、私を悩ませている疑問の一つはこれです。

 いろいろ検討した結果、三輪王朝と河内王朝が同時に存在した(あるいは並存した時機があった)と考えるしかこの矛盾を解決する手段が思い浮かばないのです。


 ここで三輪王朝から河内王朝に交代した時期を考えて見ましょう。河内王朝の祖、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子だといわれています。神功皇后は朝鮮半島進出に消極的な夫、仲哀天皇が謎の死を迎えたため自らが兵を率いて三韓征伐をしたとされる女傑です。さらに畿内に帰還するとき自分の皇子(応神天皇)に反逆した異母兄香坂皇子、忍熊皇子らを討ち息子応神天皇を即位させたと言われています。

 4世紀初めの出来事だと思われますが、私の想像では仲哀天皇と神功皇后は本当の夫婦ではなかったのではないかと考えています。あるいは夫婦だったとしても仲哀が三輪王朝の王、神功が九州王朝の女王だったのではないかと思います。連合王国だったと考えれば謎が氷解するような気がします。

 すなわち九州王朝の女王である神功皇后は、地理的に近く利害にかかわる半島情勢に敏感であったのに対し、畿内の王である仲哀天皇は消極的であった。ゆえに国論を統一するために暗殺され実権を九州王朝に握られた。

 一方、三輪王朝の正当な後継者であった香坂皇子、忍熊皇子らはこの状況に我慢できず神功皇后にたいして反乱を起こした。反乱というより独立戦争というのが実情だったのかもしれません。


 神功皇后側としては、仲哀天皇の血を引く(とされる)息子の応神天皇にこそ大和王権の正当な権利があると称し、東征した。大和に帰還したのではなく、ここで初めて東征した。


 どうでしょう?こう考えると話が繋がってくるではありませんか。ここで最初の命題であった神武東征伝説を思い起こしましょう。


 九州勢力による大和勢力の征服、これは応神天皇の東征と被ってきます。私の出した結論は神武東征とは応神東征の焼き直しではなかったかと。のちの王朝の正当性を主張するために応神天皇ではなく神武天皇という存在を仮託する必要があった。


 だからこそ、2回目の交代劇の主人公である継体天皇は応神天皇という王朝創始者の5世の孫だということを主張して正当性を訴える必要があったのではないかと思います。


 継体王朝は、神功皇后=応神天皇に滅ぼされた三輪王朝残党が東国勢力と結びついて起こしたクーデターだったのかもしれません。
 継体天皇は507年に即位しますが、大和に入ったのは526年です。20年の間に何があったのか?おそらく河内王朝勢力との戦争があったのではないでしょうか。河内に本拠を置き九州から畿内までを勢力下におく河内王朝はそれだけ強大だったのでしょう。


 20年の激戦の末、政権を奪取した継体王朝。そう考えると527年に起こった筑紫君磐井の乱に通説と違う面が見えてきます。磐井は大和朝廷に対する反逆者ではなく正当な九州王朝の後継者であった。畿内を奪取した継体天皇にとって、河内王朝の故地である九州に君臨する磐井は叩き潰さなければいけない存在だった。ゆえに6万という当時としては未曾有の大軍で鎮圧した。わたしはこのように考えています。


 ではなぜ河内王朝は九州ではなく河内に本拠を置いたのか?という疑問ですが、私が考えるに神功皇后は本拠である九州からは移動せず、息子の応神天皇だけを畿内に残し植民地支配をしようとしたのではないかと。ところが九州王朝に有能な後継者が出ず、応神天皇あるいはその子の仁徳天皇の時代に政権の中心が畿内に移ったのだと思います。



 今のところ、私は日本国成立の謎をこのように考えていますがまだまだ謎が多いのです。騎馬民族征服説と扶余族のかかわり。日向の謎(なぜ日向が天孫降臨の地として重視されたかは、応神天皇の妻の実家が日向であり、東征に日向の豪族の力が大きく関わっていたという説もあり)、出雲、吉備がどう関わっていたか?など解決しなければならない難問が山積です。


 これらは今後の研究課題です。

火の国と奴国(狗奴国)の謎

 何年か前、私は不思議な夢を見ました。時代は古代の日本。年代的には弥生時代になるのでしょうが、私が知っているその当時の風俗とは微妙に違う、もっと華やかな服装をした人たち。

 場所は私の住んでいる玉名市。小岱山の頂から麓の町を老賢者といっしょに眺めているのです。
「見なさい、あれが邪馬台国の都、玉杵名(タマキナ・玉名の古名)じゃ。」
賢者の声を聞いて私も一緒に古代の都を眺めているところで目が覚めました。



 いきなり、幻想的な話ですみません。丁度今回のテーマを書くに当たり関係ありそうなので思い出しました(笑)。もとより玉名に邪馬台国の都があったとは私も思っていません。邪馬台国は大分県の宇佐に本拠があり北九州一帯を支配、さらには近畿に東遷したという説を支持しています。


 ただこの夢を啓示と考え、漠然と玉名の古代を想像しました。もちろん学術的裏づけなどなく、私の単なる想像です。


 突然ですが、熊本県はかって肥後と呼ばれていました。肥後というからには当然肥前もあるわけで、今の佐賀・長崎は肥前の領域でした。通常前・後というのは一国を分割したわけですから接していなければなりません。(例 備前・備中・備後  上総・下総  豊前・豊後  など)

 ところが肥前と肥後は離れているんです。地図を見ると分かりますが、筑後が間に入って分離しています。

 なぜ肥前と肥後は離れているんでしょうか?私はこの疑問にある仮説を想定しました。肥国とは火の国のことでしょう。古代において火の国は肥前と肥後を領域に持っていた=両国にまたがる王権があった、とは考えられないでしょうか?となると両国の間にまたがる有明海は重要な交通路になります。

 都は当然、有明海に面したところが都合が良い。すなわち中世において重要な交易港だった伊倉津と、菊池川水運の要衝高瀬津をかかえた玉名はその有力候補ではなかったかと。

 中世において要衝なら、古代においてもそうであることは容易に想像できます。それらが潜在意識にインプットされていたからこそ冒頭のような夢を見たのでしょう。


 岩刻文字(ペトログラフ)の研究家吉田信啓氏の著作だったと思いますが、玉名の古名『タマキナ』は「な国の輝ける都」という意味だそうです。真相はわかりませんが「な国」と言えば魏志倭人伝にでてくる奴国を思い浮かべます。通説では奴国は博多湾近辺にあった国とされますが、私は「火の国=奴国」説をとります。一方同じく魏志倭人伝で女王国の南にあったとされる狗奴国という国がありました。

 名称から奴国の分国であるという説もありますが、むしろ狗奴国(くなこく)こそ本国ではなかったかと思っています。

 狗奴国には男王卑弥弓呼、官に狗古智卑狗ありと書かれていますが、この狗古智卑狗は「きくちひこ」と読むのではないでしょうか?とすれば肥後の有力豪族菊池氏との関連性も気になります。

 「くなこく」は「くまこく」であり熊襲との共通項が浮かび上がってきませんか?火の国とは阿蘇山に代表される火山がある国という意味でしょう。邪馬台国と狗奴国の対立がそのまま大和朝廷に持ち越され、火の国の住民はまつろわぬ民「熊襲」と蔑まれ討伐を受けたのかもしれません。もともとは熊本以南の南九州一帯に広がっていた狗奴国は、大和朝廷の圧迫によって球磨地方や大隅国贈於郡に押し込められ、ヤマトタケルや景行天皇伝説に象徴させる大和朝廷の討伐軍によって滅ぼされたと考えます。

 
 これらは奥州の蝦夷の歴史と似通っています。古代日本の歴史は我々が考えているよりもっとダイナミックな展開だったのかもしれません。

長篠(設楽ヶ原)の合戦とオセロ

 突然ですが、皆さんオセロというゲームはご存知ですよね?白と黒の駒で互いに相手を挟んで裏返して自分の駒にするというアレです。

 実は今朝ほど夢を見て、歴史に名高い長篠の合戦って、オセロのようなものではなかったかと思った次第です。かなり暴論なのでマジレスはしない様に(爆)。


 長篠の合戦はあまりに有名なのでご存知の方も多いと思いますが、念のため

『長篠の戦い(ながしののたたかい)は、天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万5,000と武田勝頼軍1万5,000との間で行われた戦い。

徳川氏に属する奥三河の長篠城が武田軍に包囲され陥落寸前となったため、家康が織田軍の援軍を要請。旧暦5月21日(新暦6月29日)に長篠城西方の「設楽原(したらがはら)」あるいは「あるみ原」にて野戦が行われ、織田・徳川連合軍側の勝利に終わった。』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


 で、ここからが本題。両軍の布陣図を見ると狭い地域にひしめき合っているのが分かります。これってオセロの盤面に似てないかな、と夢で考えたわけです。


 オセロゲームをした人なら分かると思いますが、4隅を取ってしまえば非常に有利です。特に隣接する2つの隅を取って端っこ一列を取ると、相手はそこを取ることができなくなります。

 長篠合戦でいうと、まず西北と西南を織田・徳川連合軍が取っていて西端一列が連合軍のものです。馬防柵と野戦築城によって武田軍の兵力では突破はほぼ不可能でした。

 そして、東南の隅を取る行為が、史実でいうところの酒井忠次の鳶の巣砦への奇襲に当たるわけです。徳川方の奥平信昌の守る長篠城への武田軍の攻撃がこの合戦の発端でした。

 信長は、この戦いを対武田戦の天王山にするつもりでした。織田信長がこの際、武田勝頼の主力軍を捕捉して粉砕しようという意図で、三万もの大軍で援軍に来たのは、このためでした。徳川軍も動員兵力いっぱいの八千をもってきていたので武田軍1万5千の倍以上の兵力です。

 武田軍も連合軍の動きに反応して、長篠城には少数の押さえだけ残して西に向かい対陣します。この段階では西一列が連合軍の駒、東一列が武田軍の駒、そして東南の隅の近くに孤立して長篠城という連合軍の駒がある状態でした。

 結果的に東南の隅を取るという行為=鳶の巣砦への奇襲は成功します。これで東北を除く3つの隅を取り、西一列と南一列を連合軍が取ったことになります。

 圧倒的有利な状態になった連合軍に対し、武田軍は撤退すれば追撃を受けるため、不利を承知で正面攻撃するしか手がなくなりました。

 結果はご存知のとおり。鉄砲三段撃ちはなかったそうですが、三千挺の鉄砲の猛烈な射撃で累代の宿将を多く討たれた武田方は壊滅的損害を受け壊走します。


 と考えれば、鉄砲の威力は大きな力にはなったと思いますが、決定的勝因は戦闘に入る前の織田・徳川連合軍の態勢作りにあったのではないでしょうか。

歴史のIF第5弾! 「アテルイ奥州に君臨す!」

 ついに第5弾(第4弾は世界史編で)まできました、歴史IFシリーズ。今回は知る人ぞ少ない奈良時代末期から平安時代初期にかけて繰り広げられた朝廷軍と、蝦夷たちの戦いの悲劇を考察します。

 といっても資料もすくないので大部分は想像ですが。ちなみにアテルイという人物を皆さんはご存知ですか?もし知らない人のために


『アテルイ(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。789年に胆沢に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より)


 789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美の軍を一度は破ったものの802年(延暦21年)征夷大将軍坂上田村麻呂のまえに敗れ去り、降伏して処刑されました。民族の指導者を失った蝦夷は、組織的抵抗できなくなり朝廷の占領政策の下で雌伏を余儀なくされます。


 そもそも蝦夷とはどういう人たちだったのでしょう?諸説あるなかで私は縄文人の末裔説を採ります。狩猟生活から弓矢に長け、大陸経由で渡来した馬を乗りこなす人々だったのではないかと考えています。
 通説通りの未開・野蛮な人々ではなく古代アラハバキ文明を受け継いだ民族ではなかったかと思います。

 ただ、平和を愛する人々だったらしく、史書には大和朝廷によって征服される存在として描かれています。もちろん蝦夷側の反撃もあったでしょうが、大局的には朝廷の攻勢が主流だったみたいです。



 で、前置きが長くなりましたが、この悲劇の英雄アテルイに勝機はなかったかと考察したいのです。もちろん圧倒的な力をもっていたのは朝廷側で、5万とか10万という兵力を動員し蝦夷を討伐したという記述があります。

 蝦夷側の有利な点はどこだったでしょうか?歩兵が大部分の朝廷軍に比べ、おそらく少数の騎兵によって奇襲を加えることができた点でしょう。大軍の弱点は補給です。決して正面からぶつからず、背後の輜重隊や補給基地を叩けば有効的です。実際、その戦法で朝廷軍は何度も敗れています。

 アテルイは、名将であった坂上田村麻呂の人格に触れ、これ以上戦っても最終的には民族の滅亡を迎えるだけだと観念し、降伏したそうです。田村麻呂自身はアテルイの命を助け、降伏した蝦夷を寛大に扱うつもりだったらしいのですが、狭量な朝廷の反対を受け、結局アテルイは護送された畿内でだまし討ちのように処刑されるのです。


 はたしてアテルイたちに勝機はあったのでしょうか?例え局地的に勝ったとしても国力に大差がある現状では、いずれ朝廷に飲み込まれるのは必至です。

 わたしはここで世界史における宋(北宋)と西夏の関係を連想します。国力の開きは、おそらく朝廷と蝦夷の比ではなかったと思います。にもかかわらず、宋は五十万以上の大軍を動員しても討伐することができず、結局は和解して莫大な歳幣を贈って懐柔するしかなかったのです。


 西夏は遊牧民族タングートが建国した国ですから、主力は騎兵です。遊牧民と狩猟民を一緒にするなとお叱りを受けそうですが、この西夏の歴史は参考にならないでしょうか?西夏がどうして勝利したかですが、少数の騎兵による奇襲だけではありませんでした。もともと唐の節度使出身ですから兵の質は高く、鈍重な宋の歩兵軍がぐずぐずしている間に、風のように襲来し国境を越え要地を占領します。
 決戦は、自分の不利なときは避け、補給に苦しむなど大軍が100%の力を発揮できないときに挑むという作戦でした。(ただ資料が少ないので大部分は私の推測ですが…)

 これを応用できないでしょうか?蝦夷は守りに徹していたからこそ、ジリ貧になり結局は敗北したのだと思います。もっと積極的に敵地(この場合は関東地方や北陸地方)に打って出るべきではなかったでしょうか?

 実は関東地方などには、朝廷に降伏した蝦夷が俘囚と呼ばれて分散して定住させられていたのです。状況次第ではこれらの人々の応援・協力も期待できたのではないでしょうか?

 関東地方でゲリラ的に出没する蝦夷軍に対し、歩兵主力の朝廷軍は手を焼いたはずです。そうこうしているうちに蝦夷の間に民族的団結が生まれ国家が形成されたかもしれません。有利な時に攻め、不利になったら機動力をいかして逃げるのですから始末におえません。

 蝦夷軍は、その間に力をつけ少なくとも三万程度は動員し、朝廷軍との決戦で決定的勝利を収めることができたら面白いことになってきます。


 宋が西夏にしたように、形式的臣従とひきかえに莫大な歳幣をせしめることができたかもしれませんね。

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