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2010年5月 1日 (土)

歴史のIF第5弾! 「アテルイ奥州に君臨す!」

 ついに第5弾(第4弾は世界史編で)まできました、歴史IFシリーズ。今回は知る人ぞ少ない奈良時代末期から平安時代初期にかけて繰り広げられた朝廷軍と、蝦夷たちの戦いの悲劇を考察します。

 といっても資料もすくないので大部分は想像ですが。ちなみにアテルイという人物を皆さんはご存知ですか?もし知らない人のために


『アテルイ(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。789年に胆沢に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より)


 789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美の軍を一度は破ったものの802年(延暦21年)征夷大将軍坂上田村麻呂のまえに敗れ去り、降伏して処刑されました。民族の指導者を失った蝦夷は、組織的抵抗できなくなり朝廷の占領政策の下で雌伏を余儀なくされます。


 そもそも蝦夷とはどういう人たちだったのでしょう?諸説あるなかで私は縄文人の末裔説を採ります。狩猟生活から弓矢に長け、大陸経由で渡来した馬を乗りこなす人々だったのではないかと考えています。
 通説通りの未開・野蛮な人々ではなく古代アラハバキ文明を受け継いだ民族ではなかったかと思います。

 ただ、平和を愛する人々だったらしく、史書には大和朝廷によって征服される存在として描かれています。もちろん蝦夷側の反撃もあったでしょうが、大局的には朝廷の攻勢が主流だったみたいです。



 で、前置きが長くなりましたが、この悲劇の英雄アテルイに勝機はなかったかと考察したいのです。もちろん圧倒的な力をもっていたのは朝廷側で、5万とか10万という兵力を動員し蝦夷を討伐したという記述があります。

 蝦夷側の有利な点はどこだったでしょうか?歩兵が大部分の朝廷軍に比べ、おそらく少数の騎兵によって奇襲を加えることができた点でしょう。大軍の弱点は補給です。決して正面からぶつからず、背後の輜重隊や補給基地を叩けば有効的です。実際、その戦法で朝廷軍は何度も敗れています。

 アテルイは、名将であった坂上田村麻呂の人格に触れ、これ以上戦っても最終的には民族の滅亡を迎えるだけだと観念し、降伏したそうです。田村麻呂自身はアテルイの命を助け、降伏した蝦夷を寛大に扱うつもりだったらしいのですが、狭量な朝廷の反対を受け、結局アテルイは護送された畿内でだまし討ちのように処刑されるのです。


 はたしてアテルイたちに勝機はあったのでしょうか?例え局地的に勝ったとしても国力に大差がある現状では、いずれ朝廷に飲み込まれるのは必至です。

 わたしはここで世界史における宋(北宋)と西夏の関係を連想します。国力の開きは、おそらく朝廷と蝦夷の比ではなかったと思います。にもかかわらず、宋は五十万以上の大軍を動員しても討伐することができず、結局は和解して莫大な歳幣を贈って懐柔するしかなかったのです。


 西夏は遊牧民族タングートが建国した国ですから、主力は騎兵です。遊牧民と狩猟民を一緒にするなとお叱りを受けそうですが、この西夏の歴史は参考にならないでしょうか?西夏がどうして勝利したかですが、少数の騎兵による奇襲だけではありませんでした。もともと唐の節度使出身ですから兵の質は高く、鈍重な宋の歩兵軍がぐずぐずしている間に、風のように襲来し国境を越え要地を占領します。
 決戦は、自分の不利なときは避け、補給に苦しむなど大軍が100%の力を発揮できないときに挑むという作戦でした。(ただ資料が少ないので大部分は私の推測ですが…)

 これを応用できないでしょうか?蝦夷は守りに徹していたからこそ、ジリ貧になり結局は敗北したのだと思います。もっと積極的に敵地(この場合は関東地方や北陸地方)に打って出るべきではなかったでしょうか?

 実は関東地方などには、朝廷に降伏した蝦夷が俘囚と呼ばれて分散して定住させられていたのです。状況次第ではこれらの人々の応援・協力も期待できたのではないでしょうか?

 関東地方でゲリラ的に出没する蝦夷軍に対し、歩兵主力の朝廷軍は手を焼いたはずです。そうこうしているうちに蝦夷の間に民族的団結が生まれ国家が形成されたかもしれません。有利な時に攻め、不利になったら機動力をいかして逃げるのですから始末におえません。

 蝦夷軍は、その間に力をつけ少なくとも三万程度は動員し、朝廷軍との決戦で決定的勝利を収めることができたら面白いことになってきます。


 宋が西夏にしたように、形式的臣従とひきかえに莫大な歳幣をせしめることができたかもしれませんね。

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