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2010年5月 1日 (土)

神武東征の謎と三王朝交代説

 邪馬台国と狗奴国の記事を書いて以来、古代日本の国家成立についてずっと考えています。それには神武東征をどう捉えるか?ということが鍵だと思います。

 日向国(宮崎県)を出発した神武天皇が、北九州より出港して機内へ遠征しナガスネヒコを倒して大和を征服して橿原宮で即位したという話ですが、私はなんらかの歴史的事実が元になっているのでは?と考えているのです。


 ところで三王朝交代説というのをご存知ですか?初代神武天皇は置いておいて第2代代綏靖天皇から第9代開化天皇までが実在せず(欠史八代、神武天皇については後に考察します)、記紀がそれまでの大和地方内の記述から全国的な記述になり、実在がほぼ確認される第10代崇神天皇から第14代の仲哀天皇までの三輪王朝(大和国三輪地方が本拠)。

 三輪王朝を滅ぼし政権を奪ったと言われる河内を本拠とした第15代応神天皇を祖とする河内王朝。

 応神天皇5世の孫といわれ、河内王朝最後の天皇である第25代武烈天皇に嗣子がなかったことから、越前で育ち、近江や越前、尾張の勢力に擁立された第26代継体天皇を祖とする継体王朝。

 継体天皇は現在に至る天皇家の祖ですが、これら三王朝が古代において交代したとする学説です。


 私はこの説を支持しているのですが、年代がはっきりしないのです。最初の交代である三輪→河内が3世紀末から4世紀初頭と言われています。次の河内→継体は6世紀初頭でほぼ間違いないと思われます。


 ただ三輪王朝の初代崇神天皇も318年没という説がありこれだと河内王朝と被るのです。これをどう捉えるべきか、私を悩ませている疑問の一つはこれです。

 いろいろ検討した結果、三輪王朝と河内王朝が同時に存在した(あるいは並存した時機があった)と考えるしかこの矛盾を解決する手段が思い浮かばないのです。


 ここで三輪王朝から河内王朝に交代した時期を考えて見ましょう。河内王朝の祖、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子だといわれています。神功皇后は朝鮮半島進出に消極的な夫、仲哀天皇が謎の死を迎えたため自らが兵を率いて三韓征伐をしたとされる女傑です。さらに畿内に帰還するとき自分の皇子(応神天皇)に反逆した異母兄香坂皇子、忍熊皇子らを討ち息子応神天皇を即位させたと言われています。

 4世紀初めの出来事だと思われますが、私の想像では仲哀天皇と神功皇后は本当の夫婦ではなかったのではないかと考えています。あるいは夫婦だったとしても仲哀が三輪王朝の王、神功が九州王朝の女王だったのではないかと思います。連合王国だったと考えれば謎が氷解するような気がします。

 すなわち九州王朝の女王である神功皇后は、地理的に近く利害にかかわる半島情勢に敏感であったのに対し、畿内の王である仲哀天皇は消極的であった。ゆえに国論を統一するために暗殺され実権を九州王朝に握られた。

 一方、三輪王朝の正当な後継者であった香坂皇子、忍熊皇子らはこの状況に我慢できず神功皇后にたいして反乱を起こした。反乱というより独立戦争というのが実情だったのかもしれません。


 神功皇后側としては、仲哀天皇の血を引く(とされる)息子の応神天皇にこそ大和王権の正当な権利があると称し、東征した。大和に帰還したのではなく、ここで初めて東征した。


 どうでしょう?こう考えると話が繋がってくるではありませんか。ここで最初の命題であった神武東征伝説を思い起こしましょう。


 九州勢力による大和勢力の征服、これは応神天皇の東征と被ってきます。私の出した結論は神武東征とは応神東征の焼き直しではなかったかと。のちの王朝の正当性を主張するために応神天皇ではなく神武天皇という存在を仮託する必要があった。


 だからこそ、2回目の交代劇の主人公である継体天皇は応神天皇という王朝創始者の5世の孫だということを主張して正当性を訴える必要があったのではないかと思います。


 継体王朝は、神功皇后=応神天皇に滅ぼされた三輪王朝残党が東国勢力と結びついて起こしたクーデターだったのかもしれません。
 継体天皇は507年に即位しますが、大和に入ったのは526年です。20年の間に何があったのか?おそらく河内王朝勢力との戦争があったのではないでしょうか。河内に本拠を置き九州から畿内までを勢力下におく河内王朝はそれだけ強大だったのでしょう。


 20年の激戦の末、政権を奪取した継体王朝。そう考えると527年に起こった筑紫君磐井の乱に通説と違う面が見えてきます。磐井は大和朝廷に対する反逆者ではなく正当な九州王朝の後継者であった。畿内を奪取した継体天皇にとって、河内王朝の故地である九州に君臨する磐井は叩き潰さなければいけない存在だった。ゆえに6万という当時としては未曾有の大軍で鎮圧した。わたしはこのように考えています。


 ではなぜ河内王朝は九州ではなく河内に本拠を置いたのか?という疑問ですが、私が考えるに神功皇后は本拠である九州からは移動せず、息子の応神天皇だけを畿内に残し植民地支配をしようとしたのではないかと。ところが九州王朝に有能な後継者が出ず、応神天皇あるいはその子の仁徳天皇の時代に政権の中心が畿内に移ったのだと思います。



 今のところ、私は日本国成立の謎をこのように考えていますがまだまだ謎が多いのです。騎馬民族征服説と扶余族のかかわり。日向の謎(なぜ日向が天孫降臨の地として重視されたかは、応神天皇の妻の実家が日向であり、東征に日向の豪族の力が大きく関わっていたという説もあり)、出雲、吉備がどう関わっていたか?など解決しなければならない難問が山積です。


 これらは今後の研究課題です。

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コメント

古事記は712年に発表され日本書紀は720年に発表である。
古事記を見た朝廷は716年に史誌編さんに携わっていた山上憶良を伯耆国の国司に派遣する。
伯耆国の調査報告を逐一受けた朝廷は当時の朝廷に都合のよい解釈をして日本書紀などの史誌を編さんした。
その後721年に山上憶良は朝廷へ帰ったが史誌編さんの上司であった藤原不比等が720年に亡くなったため自分の考えを通すことができた。
726年再び筑前の国司となる。
 大伴旅人(九州全体の長官)と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。
白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。山上憶良は百済人である。
九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。
高天原は蒜山であり、天孫降臨の地は伯耆国の高千穂である。
この説を取るとほとんどのことが矛盾なく説明できる。
ニニギのお供の者も大宮を中心に自然な距離に祭られている。
コノハナサクヤヒメはニニギの尊の居られた御所と同じ丘陵の すこし下ったところの神社に祭られている。

天孫降臨さん、貴重な情報ありがとうございます。天孫降臨伯耆国高千穂説ですか?調べてみる価値がありますね。

今後の研究課題がまたできました。

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