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2010年5月 1日 (土)

八幡神と秦氏の謎

 数年前九州ローカルの旅番組を見ていたら、ちょうど宇佐神宮を紹介していて司馬遼太郎の「街道をゆく」の文章の一節を引用していました。

 なにげなく聞いてみますと、八幡神はもともと「やはた」神と呼び八とは「八千代」とか「八雲」のように数が多いことの例え。多くの「はた」氏のための神が源流ではなかったか?と推察していました。


 「はた」氏とはもちろん秦氏のことです。秦氏とは…

【秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。】(ウィキペディアより)

 というもので、古代日本において重要な役割を担った渡来系の一族です。一説では機織(はたおり)や畑作(はたさく)も秦氏から出たのではないかとされるくらい産業技術面で大きく貢献し、各地を開発し土木・養蚕・機織など多くの技術を伝えました。


 秦氏は新羅系あるいは百済系と言われますが、私が以前から考察している通りユダヤ系のにおいがするんです。といいますのも秦河勝が創建したとされる兵庫県赤穂市の大避神社はもと大闢神社といい、ダイビャクつまりダビデのことだとされるのです。またこの神社の近くには「やすらいの井戸」なるものがあります。「やすらい」=「イスラエル」と読み解く人もいるくらいです。

 あと秦氏系の神社に見られる「三本脚鳥居」は、キリスト教の三位一体の象徴ではないかということから、秦氏は景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)だったのではないかと推測する論者もいます。


 司馬氏は短編小説「兜率天の巡礼」において秦氏とユダヤ人の関係を読み解いています。余談ですがこのロマンチックな小説は私の中では司馬作品でもベストテンに入っている話ですので一読をお勧めします。


 京都にも大酒(=大避)神社があり、これも昔は秦氏の本拠地太秦にある広隆寺の中にあったそうです。そしてここにも「やすらいの井戸」があるといいます。


 八幡神の話に戻ると、この神は農業神あるいは鍛冶の神とされ祭神も応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)とされています。全国に一万社とも二万社ともいわれ、これは稲荷社につぐ2位の分布数です。

 これだけみると、八幡社と秦氏との関係を読み解くことはできません。しかし祭神の応神天皇について言わせていただくと、以前記事で書いた通り私の推理では日本古来の王朝であった三輪王朝を滅ぼした九州王朝の祖。そしてもとを正せば朝鮮半島を支配した満州起源の騎馬民族・扶余族による征服王朝であったと見ています。


 扶余族の征服王朝、そして半島系の渡来民族。天孫族と自称した扶余族と秦氏の間に何らかのつながりはなかったのでしょうか?歴史的な事実として景教徒が中国まで来ていることは確実です。ならば日本まで来ていてもおかしくない。一説では秦氏の起源は中央アジアとも言われており、それならばイスラエルの失われた十支族の末裔の可能性も出てくる!このあたりは資料を集めていないので想像するだけですが…。


 今後の研究課題ですが、今のところ秦氏は扶余族そのものではないが協力関係にあったユダヤ系あるいは景教徒であった。扶余族の日本支配に従って渡来し、地方を開発し技術を伝えた。地方開発の過程で自らの神である八幡神を各地に創建した。もともとは別の神であった八幡神を、天孫族への服従の証として祭神を応神天皇を始めとした天孫族ゆかりの神とした。ただし本拠地だけはみずからの信仰を守り八幡宮ではなく大避神社として残した。私はそう考えています。

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 日本史」カテゴリの記事

コメント

こんにちは
面白く読ませてもらっています
抜粋です
708年和同開珎が発行されたのは、秩父で銅鉱山が発見されたのがきっかけですが、この発見には秦氏が関係しているらしいです
「和同開珎」に関わった金上无は新羅からの渡来人で、功績を讃えられ、朝廷から今の鳥取県知事に任命されている。当時、秦氏は渡来人のリーダであったので、秦氏も関わっているだろうと思います
渡来人 秦氏と埼玉県の高麗川
和同開珎に関わる秩父の隣の比企郡周辺には今でも「秦」姓の人が多い。
比企郡を源流とする高麗川(こまがわ)は、渡来人が多く住んでいた事を物語っている。
高麗(こうらい)はKoreaの語源で、1000年ぐらい前の朝鮮半島の国。
神社の入口に左右1対で置かれている狛犬(こまいぬ)は、インドを起源とし朝鮮半島を経由して日本に伝わったらしい。
秦氏と京都
京都 太秦 広隆寺の隣にある大酒神社(大辟神社)の由緒書には次のように書いてある。弓月王、応神天皇十四年(三七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、・・・
弓月王の孫(秦)酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、・・・絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。これが太秦という地名の起源である。
また、秦氏が織物、養蚕と関係する事を物語っており、秦氏がシルクロードを通じて中央アジアに関係している事が推察される。
秦氏と月
秦氏が創建した京都の松尾大社のすぐ南にある月読神社は松尾大社の摂社である。伊勢神宮にも月読宮という神社がある。
京都嵐山に渡月橋があるが、この辺りは秦氏の勢力圏であった。
群馬県の世良田東照宮にも渡月橋がある。
世良田東照宮では葵祭が行われる。京都の葵祭は秦氏と関係がある賀茂神社の祭り。
世良田東照宮の灯ろうには葵の紋と月が刻まれている。重忠の馬の名前は三日月です

秦大津父は山背国の深草の住人である。欽明天皇(在位539 - 571)はこの大津父を寵愛し、即位するとすぐに、国家の財政をあずかる要職である大蔵の官に任じたという。大津父については、次のような逸話が残されている。欽明天皇が即位する以前に、「大津父というものを寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との夢のお告げがあった。そこで、深草の里から大津父を探しだし、近くに侍らして手厚く遇した。そのため、大津父は富を重ねることになったという。

秦大津父ー秩父(字のつくりがにているだけですが(笑)

あと羊太夫という秦氏の墓から 江戸時代にJNRIと書かれた銅版と十字架が出てきたそうです
これはユダヤの王ナザレのイエスの頭文字ではないかといわれているそうですが銅版と十字架の消息は不明だそうです
Jを発音しないため INARI 稲荷となった? イスラエルにはイナリやわさびを食べる習慣もあるらしいです

1200年ころには畠山重忠という武士が武蔵国七党の統領となり 武蔵武士の多数は製鉄技術をもち 戦いに必要な武具工具を製作できる生産技術集団だったそうですが 財力を妬まれ北条氏に謀殺されました
重忠の娘が宗祖である日蓮聖人の母という説もあり 
これがほんとなら
イエスとだぶって見えなくもないと思いました


三人の木さん、記事一本分にもあたる詳しい情報ありがとうございました。私の知識など及びもつかない内容にただただ脱帽です。

秩父における秦氏の関係から畠山重忠まで登場してくるのは意外でした。私などまだまだ勉強不足ですね。これからもご教授下さい!

凄い研究を追及されていますね。
私は秦一族の末裔ですので、八幡も研究させて頂きました。 名前が解りませんが、三本の木さんはもしかしたら私の知っている人かも知れません。畠山という人なんですけどね。秦氏の末裔の方です。現在その方はユダヤの研究をされていますよ。私はもっぱら秦一族に関する研究ですが。ヤフーブログではシークレットゲートで、ブログリブログでは秦氏の集いというサイトを開設しておりますので、良ければ見てやって下さい。それでは・・・。

金鵄さん、情報ありがとうございました。後学のために訪問させていただきます。

はじめまして。土佐・長州・薩摩は秦氏の居住区といいますが、龍馬や幕末志士や南朝は秦氏ではないでしょうか。私は「フルベッキ写真」は何度も調べて明治天皇含め本物だと思いますが、フルベッキはオランダ系ユダヤ人で、来日前に日ユ関係の本も読んできているようです。龍馬の甥は牧師さんですし、「聖書を読んだサムライたち」では、他の志士達もキリシタンだった事が伺えます。小林牧師については悪い噂も多く信じてよいのか分かりませんが、辻褄があうと思います。
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/00%200%20kobayasibokusi.htm
ところで、吉田松陰が満州領有を主張し、その満州でたまたまホロコーストから逃れたユダヤ人が多く救われたり、河豚計画などもあった事から、満州(扶余族?)とユダヤの関係も気になります。河豚計画を提唱したのは日産コンツェルンですが、Nisanはユダヤ教で過越祭のある一番大事な最初の月です。
今回の地震で、南三陸町の八幡川を津波が逆流しましたがここも秦氏の居住区なのでしょうか。仙台に七夕祭がありますが、たな「ばた」は秦氏が持ち込んだようですが。

坂本さん、返事遅れて申し訳ございません。

土佐の長宗我部、薩摩の島津はともに秦氏系の惟宗氏の末裔ですから秦氏と関係が深いと思います。

扶余族とユダヤの関係は確かに興味深いです。飛鳥昭雄氏も指摘してますが何らかのつながりがあってもおかしくないと思います。

ただ失われた十支族の末裔が扶余族かと言われれば私はかなり懐疑的ではあります。混血もかなり進んでいるでしょうし。

遺伝子的な調査で共通点が見つかれば話は別でしょうが。

私、地元の歴史に少し興味ありググッていましたらこちらのブログに当たりました。地元の情報だけお知らせ致します。埼玉県深谷市畠山、隣の本田地区は重忠重臣、本田次郎親恒の館跡、本田地区内に「百済木」の地名と「平方(ひらかた)」の地名あり。付近に鹿島古墳群(50基以上の円墳群)石室、鉄剣など出土。寺内廃寺遺跡出土。国分寺クラスの伽藍であったとのこと。これらのことから「百済系渡来人」の関係を勝手に思っております。地区内に「蛭川氏との末裔の方あり、ご老人が嘗て、畠山重忠、日蓮、は身内であるとおっしゃっていた。その方も修験者であった。 突然、失礼いたしました。

畠山住人さん、貴重な地元情報ありがとうございます。高句麗の遺民が入植した高麗郡があるくらいですから百済系、新羅系が居てもおかしくないと思います。

実は、私は稲作伝播の歴史を研究しており当初朝鮮半島南部に居住していたのは和人だと推定しているんですよ。最近遺跡でもそれが証明されつつありますが、韓国の学会はあんな状態ですので必死に証拠隠滅を図ってます。

渡来人と言いながらもともと日本人と同族だった可能性もあり、これはもしかしたら日本古代史を根本から変える研究になるとも考えているくらいです。

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