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2010年5月14日 (金)

私論「徳川埋蔵金」考

 もはや知らない人はいないと思いますが念のため
【徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)とは、江戸幕府が密かに地中に埋蔵したと伝えられている金塊またはそれに準じる金属貨幣のことをいう。埋蔵時期とされる幕末以来、多くの発掘プロジェクトが各地で行なわれ、そのほとんどが全く成果のないままに終わっているが、現在でも独自の推論を根拠に発掘を続けている人々が存在する。】(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


 今回は徳川埋蔵金についてです。もちろん私の説が絶対正しいなどどは言いませんし、今でも生涯かけて探している人たちがいらっしゃるので、あくまでこんな考え方もあるんだなと、寛大な目で見ていただくと幸いです。


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 さて、ここから本題に入ります。突然ですが、まず皆様に質問!埋蔵金を隠すのにどこが一番安全だと思いますか?

①深山幽谷の人の入らない山の中の洞窟
②本城以外で他国の人間が気付きにくい山城跡
③お寺や神社、あるいは墓地の下


正解はどれとは言い難いのですが、私は③だと思います。といいますのもどこも見つけにくいのですが③は、それにさらに掘ったら罰が当たるのではないかという心理的陥穽まで設けてあるのです。


 これを徳川家埋蔵金に充て編めると、私は赤城山など巷で言われている場所にはないのではないかと考えます。そもそも幕末期の徳川幕府は埋蔵金を隠す財政的余裕はなかった、という説はひとまず置いておいて、あると仮定しますと…

 ③の条件にもっとも合致した場所は日光東照宮ではないかと考えます。ここならさすがに社殿を打ち壊して埋蔵金を探すなどという暴挙はできませんし、隠し場所を知っている子孫なら容易に取り出せるでしょう。


 ではなぜ、私が徳川埋蔵金が日光東照宮にあると考えたかですが、まず当時の江戸城には埋蔵するほどの財政的余裕がなかったと想像されます。

 次に、幕末の混乱期に莫大な埋蔵金を隠す時間的余裕があったのか?ということです。むしろ世の中の平穏な時に万が一の蓄えとして残す方が容易なのではないでしょうか?

 さらに、日光なら東照宮造営のどさくさにいくらでも埋蔵金を隠す余裕があります。「木を隠すには森の中」という諺もありますし。

 私はズバリ徳川埋蔵金=徳川家康の遺産と考えています。といいますのもそれ以外の歴代将軍で莫大な財宝を残せる将軍はいなかったと考えるからです。しかも徳川家万一の時を想定できる器量の持ち主は他にいなかったでしょう。

 実は家康が莫大な財宝を持っていたということは記録に残っていたのです。記録では家康の隠居所であった駿府城の金蔵の床が、積み上げた金銀財宝の重みで潰れたそうです。それほどの莫大な遺産はまず駿河の久能山に収められました。そして日光東照宮造営の際、家康の遺体とともに日光に運ばれたと考えられます。はっきりとした記録は残されていませんが、私は常識的に考えてそうだろうと思っています。


 おそらく家康は、遺言で「自分の遺産には手をつけるな。徳川家が危機に陥った時に使え」と遺言していたのではないでしょうか?


 ではなぜ赤城山説をはじめ埋蔵金伝説があちこちに残されているのでしょうか?私はそれこそ本命である日光を隠すための陽動作戦だと考えているのです。

 伝説では埋蔵金は八門遁甲の法で埋められた、とあります。諸人はこれが難解なために埋蔵金の隠し場所が分からないと嘆いていますが、私は八門遁甲あるいは奇門遁甲をかじったことがあるのでなんとなく想像できます。

 遁甲では物理的な謎とともに心理的な謎を兵法で使います。埋める時期、場所、方向などによって見つけにくいようにするのです。これを坐山といいます。

 幕末に埋蔵金を埋めたとされる軍学者・林靏梁はおそらく相当な遁甲の使い手だったと見ます。幕府から埋蔵金を依頼されるくらいですから日光東照宮に真の埋蔵金があるということを聞かされていたのではないでしょうか?彼は偽計をめぐらしていかにも赤城山中に埋蔵金を埋めたような工作をした、そして後世の人はそれに騙され全く違う場所を掘り続ける。

 そもそもが、あるはずのない江戸城から利根川を使って埋蔵金を運んだなどということ自体怪しすぎます。そんな莫大な財宝を誰にも気づかれずに運ぶことが物理的に果たして可能だったか大いに疑問です。

 しかも当時の江戸城の台所は火の車、いったい誰が命令しますか?「そんな金があるなら武器を買え」という声が絶対出てきますよ。下手すると敗北主義者として斬り殺されるかもしれません。

 埋蔵金を実際に埋めたのは、遁甲に造詣が深い天海僧正その人だった気がしてなりません。天海は家康と、将来起こりうるであろう徳川家の危機を共有し、家康の遺言によって日光に埋蔵金を埋めたのではなかったでしょうか。


 そして、天海は「徳川家がいよいよの時は真の隠し場所を敵に気づかせないため偽計を施して敵を欺け」と遺言していたと考えます。林靏梁はそれ忠実に実行したにすぎない、こう考えれば自然だとは皆さん思いませんか?



 謎はもう一つあります。新政府が江戸城を接収したとき城の金蔵はもぬけの空だったという記録です。このために埋蔵金伝説が独り歩きしたのだと思いますが、ちょっと冷静に考えると理由は容易に想像できます。

 すなわち榎本艦隊が蝦夷地に逃げるとき、軍資金として金蔵に残っていた財宝をごっそりと持ち出した。だから何もなかったのです。案外財宝を探すなら榎本艦隊が沈んだ津軽海峡の函館沖を探す方が現実的かもしれませんね。
 

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コメント

たとえそのような埋蔵金が有ったとしても、困窮の歴史の中で使ってしまったのでは?

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