『邪馬台国と投馬国の位置』 - シリーズ鳳山古代史 -
これまで邪馬台国北部九州説、扶余族制服王朝東征説、三王朝交代説を見てきましたが、初心に帰って魏志倭人伝(『三国志』魏書東夷伝倭人条)に基づいてその位置を探ろうと思います。
魏志倭人伝では邪馬台国までの道のりを「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」と表しています。これがどこから出発したかで九州説、大和説に大きく分かれるのですが大和説は南が東の間違いだろうという推論で無理がありますので論じません。転記するうちに東が南になったという主張は、私は納得できないので。
水行十日陸行一月の出発点が帯方郡からか、それとも距離表示がある伊都国からかで邪馬台国の位置が大きく変わってくるのです。帯方郡なら九州説有利、伊都国なら畿内説有利(もっとも方向で無理がありますが…)となってきます。
ただ別の記述で「郡至女王國萬二千餘里」という記述もあり帯方郡から女王国まで12000里だと分かります。ここから距離の分かっている伊都国までの合計(7000+1000+1000+1000+500で計10500里)を差し引くと1500里しかありません。
当時の1里には諸説ありますが最大でも500m、ただし壱岐と対馬の間が1000里とされますから単純計算でもその距離の1.5倍。倭人伝では余里として誤差を表現していますから、誤差まで含めると1000里強くらいだったと思われます。伊都国出発説だと壱岐から対馬までの距離を水行10日もかかった事になり常識では考えられません。
ここは素直に帯方郡出発説を採ります。これだと女王国は北九州にあっただろう伊都国から最大1500里内。九州説が俄然有利になってきます。
同じく、投馬国(とうまこく?とまこく?つまこく?)も南水行二十日と表現されています。伊都国や末盧国までが里というはっきりとした距離で表されているのになぜ邪馬台国や投馬国までが陸行、水行というあいまいな表現に止まっているかという謎にたいする私なりの解釈ですが、魏使は邪馬台国の出先機関があったとされる伊都国までしか来てないのではないかと考えています。
私なりの結論では一応邪馬台国は北九州のどこかとしておきます。(何回か遷都されたふしがあるので)七万戸(人口35万)という邪馬台国に対し五万余戸(人口25万)の投馬国ですが、陸行という記述が無く、水行のみということは、海に面したところではないかと推理します。しかも方角は南。
話は急に変わりますが、宮崎に西都原古墳群というものがあります。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の市街地西方を南北に走る、標高70メートル程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大の古墳群だそうですが、25万の人口を抱え海に面した場所だったら、この宮崎平野など有力候補になってきはしませんか?
実は私は火の国=狗奴国説を採っているので有明海沿岸には投馬国を比定できないのです。九州の地図を見てもらうとわかりますが、北九州から佐賀・熊本方面には容易に行けますが、宮崎には険阻な山岳地帯を抜けなければなりません。現代でさえそうなのですから古代ならなおさらでしょう。投馬国に陸路表記が無かったのもそれが困難だったからだと考えています。
私の解釈では邪馬台国は北九州一帯の連合国家の盟主、投馬国は宮崎平野を中心に九州の東南3分の一くらいを占めた連合国家であったと推理しています。そして西南三分の一は狗奴国の領域。もちろん仮説ですので、どなたか私が完全に納得できる説をご教示していただければ変わる可能性もあります(笑)。
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狗奴国(クナコク)は邪馬台国の南側に位置し・・・・・
宮内国は邪馬台国の南に勢力を持ち、其処の王を卑弥呼子という。
投稿: ガスレーサー | 2020年2月23日 (日) 02時53分
ガスレーサーさん、コメントありがとうございます。
投稿: 鳳山 | 2020年2月23日 (日) 10時36分