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2010年6月

2010年6月19日 (土)

大内氏の滅亡と厳島の合戦

 最近、吉川弘文館の「大内義隆」(福尾猛市郎著)を読みました。歴史小説などでは知ることのできない詳しい情報を得ることができてたいへん満足できました。

 その中で大内氏の滅亡の様子と厳島の合戦について詳しく書かれていたのでご紹介していと思います。

 最盛期には周防・長門・石見・安芸・備後・筑前・豊前・肥前と八ヶ国に勢力を振るった大内氏ですが、滅亡はあっけないものでした。明や朝鮮との貿易で上げた莫大な利益でその首都山口の繁栄は極まり文化は栄えましたが、そのために文弱に流れ尚武の気風はすたれました。

 大内氏最後の当主、義隆は戦をするにも名分を求め、筑前の少弐氏を攻めるために太宰大弐の官位を求めたり、伊予を攻めるために伊予介の官位を求めるなど不必要なまでな行動を起こします。

 このあたり義隆の性格の弱さかもしれません。侵略しているという後ろめたさがあったのでしょう。



 大内氏は、戦国時代有数の大大名ですが支配体制は強固とはいえませんでした。領国を国主が直接治めるのではなく、周防は陶氏、長門は内藤氏、筑前は杉氏(豊後守)、豊前は杉氏(伯耆守)というように重臣たちを守護代とし間接支配にとどめていました。


 しかも守護代は世襲されたため、彼らの力が各国に蓄積され大内氏は次第に浮き上がった存在となっていきました。当主に器量のある場合はそれでも支配できましたが、器量のない当主が出てくれば手に負えなくなります。その弊害がもっとも現れたのが義隆の時代でした。


 義隆は軍事でも出雲の尼子氏を攻めて大敗するなど失点が多く、守護代たちからの信頼をなくしていました。そのことを知ってか知らずか義隆はますます軍事から遠ざかり、文弱に流れていきます。


 重臣筆頭で、周防守護代の陶隆房は日ごろからこれを苦々しく思っていましたが、義隆が文官の寵臣相良武任を朝廷に奏上し従五位遠江守に叙せられたことで怒りが爆発します。

 武官たちの怒りを恐れた武任は豊前に蓄電しますが、反乱の発端はまさにここだったと考えます。


 義隆は、隆房の台頭を抑えるため石見の吉見正頼、安芸の毛利元就など外様の有力者と婚姻関係を結んで対抗しようとします。さらに穏健派の長門守護代内藤興盛に命じてこれら外様と連携させ対抗させました。

 ところが信じられないことに義隆の対抗策はこれだけでした。まだこの段階だったら、陶氏以外の守護代たちと外様に命じて隆房を滅ぼすことも可能でした。しかしそれが出来なかったのは、義隆自体、隆房の武勇を恐れていたのかもしれません。


 危険を察知した隆房は、着々と謀反の準備を進めていきます。あるいは利を喰らわせあるいは武力で脅し、謀反を起こしても味方しないまでも中立を保つことを守護代たちに約束させました。

 それだけ義隆の政治が疎まれていたのかもしれません。


 1551年、ついに陶隆房は謀反の兵をあげます。その兵力は五千。山口の大内館には義隆を守るために三千騎が集まったと伝えられますが、一夜のうちに二千騎に減り、その後も減り続けました。長門の内藤氏、筑前・豊前の両杉氏も静観したため、義隆は山口での防戦を諦めます。内藤・杉の軍勢五千騎は逆に陶軍を助けるために来襲したくらいです。

 姉婿である石見の吉見正頼を頼ろうとしますが、陶軍に追いつかれ石見行きを断念しました。今度は海路九州に逃れようと長門国大津郡仙崎港から出航します。ところが強風のために港に吹き戻されてしまいました。


 事ここにいたって命運尽きたことを知った義隆一行は大寧寺に入り一族ことごとくが自害して果てました。これが名族大内氏の最期です。享年四十五歳。



 大内氏の旧領はどうなったのでしょうか?その後の歴史を簡単に振り返ります。



 謀反が成功した隆房は、さすがに大内氏にとって代わろうとはしませんでした。豊後の大友氏から血縁の晴英(義隆の姉の子)を大内家の当主として迎え入れ、これを傀儡として操ることで支配しようとします。晴英は大内義長と改名します。隆房も晴英から一時を貰って晴賢と名乗りを変えました。


 晴賢は、ライバルとなる可能性のある筑前守護代の杉興運を攻め滅ぼし、石見の吉見正頼の居城津和野城を囲みました。

 毛利元就はこのとき去就を明らかにしていませんでした。しかし晴賢の謀反を利用する形で安芸に勢力を拡大していきます。旧大内領の安芸国内の城を次々と奪っていたため対立は必至でした。



 吉見正頼の悲鳴のような援軍要請に元就がしぶしぶ応じたのは1554年です。その前に元就は厳島に宮尾城を築き陶晴賢を挑発していました。

 安芸一国をようやく統一した元就と、大内氏の旧領の大半を制圧した陶晴賢では実力の違いがありすぎました。そこで元就は得意の謀略を使います。自分の家臣に晴賢への内通の手紙を書かせ、そのなかで「元就は安芸の喉元にあたる厳島の宮尾城を陶軍に落とされることを非常に恐れている」と言わせました。


 これを信じた晴賢は二万(三万という資料もあり)の大軍をもって厳島に上陸しました。1555年8月のことです。このチャンスを待っていた元就は嵐を衝いて毛利勢四千を厳島の背後から上陸させます。

 夜の明けるのを待って毛利軍は陶軍の背後から襲いかかりました。虚を突かれた陶軍は大混乱します。逃げ場のない狭い島の中、我先にと船に乗り込んで脱出しようとした陶軍でしたが、そこを毛利軍に衝かれ次々と討たれていきました。世にいう厳島の合戦です。

 毛利元就は村上水軍にも援軍を頼んでおり、水上に脱出できた陶軍も撃破されます。晴賢は逃げようにも船を失い、万策尽き大江浦(一説では高安原)で自害して果てました。享年三十五歳。


 こうして毛利元就は、陶晴賢の領土をそっくり貰うことになりました。のちの大大名、中国の雄・毛利氏はこの戦いによって誕生したといっても過言ではないでしょう。

家系図を見ると面白い発見がありますね!  出羽武藤氏は少弐氏と同族でした。

Photo_2

 最近、最上義光(よしあき)の小説を読んだんです。その中に最上氏の宿敵で庄内地方の豪族出羽武藤(大宝寺)氏が出てくるんですが、なんか以前私が記事にした筑前少弐(武藤)氏と関係がありそうだなと思って調べてみたところ、やはり同族でした。


 北九州と山形、えらく離れてるんですが同族が日本各地で活躍するんですから日本史って面白いですね。甲斐武田・上総武田・若狭武田・安芸武田が有名ですが、調べるともっといそうですよ(笑)。


 そういえば岩手遠野地方に多い菊池さんも、肥後熊本の菊池氏の子孫らしいですから。こちらは鎮守府将軍北畠顕家に従って菊池一族の者が奥州に下向し、そのまま土着したそうです。


 出羽武藤氏は大宝寺氏とも称します。もともと少弐氏の初代武藤資頼が、九州下向前に出羽国大泉庄(山形県鶴岡市近辺)の地頭に任ぜられていたのが始まりです。

 資頼は武藤頼平の猶子とありますから、本当の子ではなかったみたいです。それが武藤氏の家督を継ぐのですから何らかの有利な点(権門の隠し子?)があったのは間違いないでしょう。

 もともと養父頼平の姉妹が平知盛の妻だった関係から平家方の武将でしたが、一の谷の合戦のおり、知人の梶原景時を頼って投降し、有職故実に明るいことから頼朝にも信頼されて、鎮西奉行に抜擢されるのですから大したものです。

 武藤資頼の出生の秘密は、調べれば面白そうですが今回の調査では明らかになりませんでした(興味ある人いる?私だけかも・爆)。



 棟梁の資頼が遠く九州に下向したので、大泉庄は弟の氏平が継ぎました。これが出羽武藤氏の初代です。ちなみに頼平の甥にあたるのが豊後大友氏初代の大友能直(よしなお)ですから面白いですね。

 実は能直にも源頼朝の隠し子伝説があります。母親が頼朝の側室だったことから噂がたったんですが、彼の異例の出世(何の功もないのに若くして豊後守護に抜擢された)を考えるとありそうなことです。

 真偽はどうあれ、元愛人の子なので頼朝も可愛かったのでしょう。



 話を出羽武藤氏に戻しますと、氏平は当初大泉氏を称しましたが、その子孫は居城の名をとって大宝寺氏と名乗るようになりました。


 余談ですが、演歌歌手の大泉逸郎はその子孫かもしれませんね。同じ山形だし(笑)。まさか大泉洋は関係ないだろうな?(爆)


 脱線が多すぎて申し訳ない(汗)。大宝寺氏は羽黒山を支配することによって庄内地方に勢力を拡大しますが、応仁の乱以後越後の上杉氏(謙信の家系とは違う。謙信はその家老の長尾氏出身)と関係を深めその影響下にはいります。


 その後長尾為景(謙信の父)が主家の越後上杉氏を滅ぼすと一時関係は絶たれます。後を継いだ長尾景虎(のちの上杉謙信)も関心が関東地方や北陸地方に向いていたのでしばらく庄内地方は放置でした。


 その隙をついてきたのが山形の最上義光です。内紛に明け暮れていた大宝寺一族の一方に加担し唆して相争わせ、最後はまとめて追い出してしまいます。

 これで一時庄内地方は最上氏の支配下にはいったのですが、大宝寺氏をはじめとする庄内地方の豪族たちは越後の上杉景勝に泣きつきます。景勝は重臣本庄繁長に軍勢を与え庄内地方に派遣しました。

 最上・上杉両軍は激しく戦いますが結局最上氏は庄内地方から追い出されてしまいます。義光はこの恨みを持ち続け以後上杉氏と敵対を続けます。そのために早くから徳川家康と誼を通じ関ヶ原のあと、悲願を達成し本領の山形盆地に庄内地方を加増され五七万石の大大名になるのです。


 一方大宝寺氏ですが、天下統一を果たした豊臣秀吉に上杉景勝が降伏するとその属将のようになっていた大宝寺義勝(繁長の子。大宝寺氏に養子に入っていた)も従ったようです。


 しかし、庄内検地の際一揆を扇動した疑いで大和に流罪になります。義勝はその後許されて本庄家に復帰し当主になったそうですから、この時点で大宝寺氏は滅びました。




 全く歴史の脇役ですが、そこがまた面白いですね。一見何の関係もなさそうなところに関係性を発見した時は嬉しさがこみあげてきます。だから歴史ファンは止められないんです(笑)。

山陰の雄  山名一族

 皆さんは「六分の一殿」という言葉をご存じですか?日本史の室町時代で出てきたでしょ?なんで六分の一殿かというと山陰地方を中心に日本六十余州のほぼ六分の一にあたる十一ヶ国の守護を務めていたからなんです。

 これが今回紹介する山名氏です。山名宗全(持豊)という人物を聞いたことある方も多いと思います。懐かしの大河ドラマ「花の乱」で萬屋錦之介が演じたましたよね。


 その山名氏ですが、発祥は新田源氏です。新田氏初代新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を称したことに始まるそうです。

 鎌倉時代は宗家の新田氏と同様目立たず田舎豪族してたようです。鎌倉幕府倒幕には本家新田義貞と行動を共にしたみたいですが、この一族の要領の良いところは最後まで義貞に味方せず、勝ち馬の足利尊氏に接近したところでしょう。

 時の山名氏当主政氏・時氏父子は、中先代の乱鎮圧に尊氏が関東に下向する際新田氏を離れて足利氏につきます。結果的にこれは大成功でした。もし義貞に最後まで付き従っていたら他の新田一族(世良田氏など)と同様滅亡してたでしょう。


 山名時氏はうまく立ち回って伯耆守護を勝ち取ると、そこを中心に山陰地方に勢力を扶植します。南北朝の対立で基盤の弱い足利幕府は、これを認めざるを得ませんでした。これが十一ヶ国もの守護に山名氏がなれた原因です。


 しかし三代将軍義満は、このまま黙って見過ごすことはしませんでした。1391年時氏の死後山名氏の後を継いだ氏清とその兄弟たちを挑発し、内紛に乗じる形で攻め滅ぼします(明徳の乱)。

 この乱で一時山名氏は衰えるのですが、家督を継いだ氏清の弟時義の子時熙の代にやや回復し、その子持豊の代には再び六ヶ国の守護を兼ねる大勢力まで回復しました。


 持豊は、時の管領細川勝元を娘婿とし自身は侍所所司として幕政を動かすまでになりました。ところが足利八代将軍義政の政治に対するやる気の無さと、九代将軍の家督争いから管領細川勝元と対立した持豊は互いに自分の与党の守護大名の軍勢を京に呼び寄せ大合戦を起こしました。これが世に言う応仁の乱です。両軍の本陣があった場所から山名方を西軍、細川方を東軍と呼びます。

 この頃持豊は入道して宗全と名乗っていました。


 乱は1467年から10年以上も続き、京も地方も荒廃します。足利幕府の権威は地に落ち、これによって戦国時代が到来しました。決着はつかず東西両軍は和議を結びます。

 しかし室町幕府の支配体制は根底から崩れ始めていました。宗全は失意のうちに病死します。そして山名家の最盛期も宗全をもって終焉を迎えました。


 以後の山名家は、宗家が但馬守護、分家が因幡、伯耆、美作などの守護として別れ一族としての結束は失われました。そして有力家臣の下克上が相次ぎ勢力は弱まります。さらには尼子・毛利の侵略を受けて国力は衰え、戦国大名に成長することはありませんでした。



 宗全五代あとの祐豊の時代に織田信長の命を受けた羽柴秀吉によって、但馬守護である山名宗家は滅ぼされました。分家の因幡守護家の当主、豊国(入道して禅高)は降伏して生きながらえます。この家系が江戸時代に高家として続きました。


 一時は日本の六分の一を支配した一族の末路としては哀れですが、滅びなかっただけましかもしれませんね。


 ちなみに作家の司馬遼太郎氏は、この山名一族が嫌いらしく『街道をゆく』でも「この碌でもない一族が…」とこき下ろしています。要領だけで生き残り善政など布いたこともない(たぶん)大名家なのでそう思われるのも仕方ありません(苦笑)。しかも一族は団結することなく、事あるごとに対立、内紛を繰り返しそのたびに外敵に乗じられ勢力を弱めていったのですから。


 歴史作家からみると魅力のない一族かもしれませんね。そう言えば山名一族を主人公にした歴史小説ってないな?(爆)


 これよりはまだ最上義光(←今読んでる)とか村上義清なんかの方が面白いですもん(笑)。でも私から言わせればその分とても味があるんですけどね(核爆)。

中国路における足利直冬(ただふゆ)とその死

 「鎮西奉行 少弐一族 (前編)」で九州における足利直冬の動向は簡単に紹介しました。ただその後どうなったかについて記さなかったので、ここに纏めておきます。


 1352年暮れ、九州探題一色範氏の巻き返しで九州における勢力拡大を諦めた足利直冬はそれまで一緒に戦ってきた部下たちを見捨て長門豊田城に逃げ込みます。

 実は直冬の部下を見捨てての逃亡劇は今回が初めてではありませんでした。実は1349年父尊氏に長門探題として任命され赴任の途中の備後鞆津で、尊氏の密命を受けた武士たちに騙し討ちで襲撃されたことがありました。この時は不意をつかれたこともあり仕方ない面はありましたが、今回はもう少し上手くやれば部下たちを引き連れて撤退できたように思います。


 しかし、直冬の性格だったのでしょう。貴人に特有の淡白で酷薄な面が出たのかもしれません。直冬のこのような性格を見て、歴史学者の瀬野精一郎氏は「愚将であり同情することはできない」と断じておられます。その点は私も同意なのですが、生母の身分が低かったために父尊氏に愛されず、孤独な少年時代を送っている直冬にとって、人情とか人の愛などというものは理解できなかったのかもしれません。

 そしてこのとき、史書に記録のある唯一の正室、少弐氏も九州に置き去りにしたはずです。その後の記録に出てきませんから。


 そう言えば瀬野氏はその著書の中で面白い説をとなえておられます。直冬の生母は越前局と伝えられていますが、彼女は貴族や武士専門の高級娼婦だったのではないか?というのです。


 若気の至りで遊んだ尊氏にとってそれ以上でもそれ以下でもなく、彼女が自分の子供を身ごもったと聞いても迷惑この上なかったのではないかと推理しておられるのです。すでに正室赤橋登子を迎えていた尊氏ですから、正室の手前そんなどこの馬の骨とも分からない赤子を認知できなかったのでしょう。

 DNA鑑定のない当時、本当に自分の子か?と疑っていたのかもしれません。

 この話を伝え聞いた尊氏の弟、直義が哀れに思って自分の養子にしたのですから直冬にとっては直義こそ父と思っていたに違いありません。


 実は1352年2月、観応の擾乱に敗れた直義は鎌倉で急死していました。兄尊氏による毒殺という説がまことしやかに流れますが、自分を騙まし討ちで亡き者にしようとした父ですから、直冬はこの説を信じていたと思います。


 直冬は養父直義の仇打ちのためにも上洛を考えるようになるのです。直義は死にましたが、直義派と目される武将が全国各地で尊氏派の武将と戦っていました。中国地方でも周防・長門に勢力を張る大内氏、山陰地方に勢力を張る山名氏が直冬を奉じて戦うと申し出てきます。

 このような当てがあったからこそ直冬は中国へ来たのでした。

 そのために直冬は南朝に降伏して、足利討伐の綸旨まで賜ります。万全の準備を施した直冬は、山陽・山陰の大軍をこぞって1354年上洛の途につきます。これには越中の直義派、桃井直常(もものいただつね)や南朝の楠木正儀らも呼応しました。

 幕府方もこれを迎え撃つべく出撃しますが、二代将軍足利義詮が敵主力と目された直冬軍に備えるため播磨に出陣した隙をついて、1355年桃井直常ら北陸勢が手薄になった京都に侵入します。

 留守を守っていた尊氏はあわてて後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に脱出する始末でした。


 義詮率いる幕府軍主力は播磨に孤立します。直冬は義詮軍にはあえて挑まず別ルートを通って京都に入城しました。直冬にとっては実に5年8カ月ぶりの京都です。それまでに苦難の日々を思って感慨にふけったことでしょう。

 しかし、義詮軍をそのままにしたことは致命傷になりました。まもなく義詮は近江で兵力を集めた父尊氏とともに京都を挟み討ちにしたのです。


 ただ京都に入ることだけが目的で何の戦略戦術もない直冬軍がこれを持ちこたえられるはずもありませんでした。正月16日の桃井軍入京から一月もしない2月6日には摂津神南の合戦で直冬軍は大敗します。

 同じ6日、近江の尊氏軍も京都六条に進出、直冬軍と激しい市街戦を演じます。それでも4月まで持ちこたえたのだから大したものです。

 しかし衆寡敵せず、直冬軍は散り散りになって京都を脱出しました。これが直冬の人生の絶頂期だったのでしょう。その後は坂道を転げ落ちるように勢力を失っていきました。

 1356年、命からがら根拠地の安芸に逃げ戻った直冬でしたが、今まで彼を支援してきた山名・大内氏との間には微妙な空気が流れていました。

 直冬にはすでに幕府から追討令が出されています。滅ぶことが必定の泥船にいつまでもしがみついている馬鹿はいません。彼らとて生き残らなければいけないのです。まず1363年大内弘世が周防・長門の守護職安堵を条件に幕府方に寝返ります。ついで山名時氏も山陰における本領安堵を幕府に約束されて帰順しました。

 直冬を支える二大勢力である大内・山名が寝返ったのですから、もはや彼を支える勢力はいませんでした。中国地方の武士団は次々と直冬から離れていきました。

 根拠地だった安芸からも追われ、まだ一部支持勢力の残っていた石見に逃げ込みます。


 その後の直冬の消息ははっきりしません。1358年尊氏、1367年には弟であり生涯最大のライバルだった二代将軍義詮が亡くなります。


 すでに勢力を失い石見の山奥で隠棲する直冬が、この知らせを受けたときどのような感想を抱いたでしょうか?もはや幕府に対決するという気持ちは無くなっていたでしょう。


 直冬には四人の子があったと伝えられています。おそらくこの隠棲時代に妻を迎えて子を成したのでしょう。前半生家庭の温かさを知らず過ごしてきた直冬が、夢破れた後家庭の幸せを掴んだのですから人生の皮肉です。

 三代将軍義満は、もはや哀れな直冬を討伐する気持ちはありませんでした。石見の山奥で隠棲するのなら見逃してやろうという考えです。義満にとっても叔父ですし。


 彼の死はいつかはっきりしません。有力な説では1400年、74歳の生涯でした。


 直冬の子たちは皆仏門に入ったとされます。末子と伝えられる宝山乾珍のように相国寺四十四世住持まで出世した者も出ましたが、その後の幕府の権力争いに巻き込まれ直系の子孫は絶えたと伝えられます。


 考えてみれば、直冬もその子孫たちも数奇な運命に弄ばれた一族だったのでしょう。

一色氏はなぜ四職の一角になれたのか?

 私鳳山の悪い癖は、一つのテーマで記事を書くとそれに関連することが非常に気になりだすというものです(苦笑)。

 足利直冬、小弐氏について記事を書いていてふと疑問に思ったんですが、なぜ初代九州探題として大失敗した一色氏が、室町幕府の重要な役職である侍所所司(長官)を赤松・山名・京極とともに歴任できるまでになったか?ということです。



 日本史をちゃんと勉強された方なら思い出されるでしょうが、室町幕府に「三管領四職」という言葉があったでしょ?

 三管領とは将軍を補佐する幕府最高官職である管領になることができる家格をもつ斯波・畠山・細川の三家のことです。一方侍所はその下で幕府の軍事力をつかさどる重要な役職です。

 尊氏の天下取りを助けた赤松円心や佐々木道誉(佐々木京極氏の祖)や、山陰地方に強大な勢力をもつ山名氏は分かるんです。


 それに対して信長の野望などのゲームを遊んだことのある方ならご存知でしょうが、たかが丹後一国の守護にすぎない一色氏がこれら功臣たちとともに侍所所司に就任できる家柄に何故なったのでしょうか?


 しかも一色範氏は、初代九州探題になり、二代探題の嫡男直氏とともに九州統治にあたったものの在地の守護達を纏めきれず、ついには有力守護の少弐頼尚と対立して九州から叩き出されるという大失態を演じているのです。


 通常このような失態を演じた家は、復活することはありません。似たような経緯をたどった同じ足利一門の渋川氏も、九州経営に失敗し有名無実の存在となったではありませんか。一時期幕政を壟断しながら当主義長が細川氏との権力争いに敗れ守護領国である北伊勢・伊賀に逼塞し最後は名目だけの伊賀守護となった仁木氏の例もあります。


 事実九州から逃げ帰った一色親子は、足利尊氏の怒りをかい隠居せざるを得なかったほどですから。ところが後を継いだ範氏の二男範光は、若狭・三河の守護に任ぜられたばかりか、侍所所司にまでなっているんです。


 ちなみに一色氏の領国と言えば丹後ですが、守護になったのは範光の孫の満範の時代(1392年~1409年)からみたいですね。



 家系図を見てもらうと分かりますが、一色氏は斯波氏や渋川氏、石堂氏とともに足利家嫡流に最も近い一族です。実は世間のイメージと違って吉良・今川氏(三代義氏から発祥す)より近しい一族なのです。斯波氏は、南北朝期までは足利と名乗っていたくらいですから。

 私が推理するに、二代将軍義詮、三代将軍義満に範光が個人的に気に入られていたということと同時に、どこの馬の骨かわからない赤松や、源氏といってももとは新田源氏出身の山名、道誉の個人的功績だけでのし上がった近江源氏佐々木氏の分家京極氏(本家は六角佐々木氏)らに幕府の重要な役職である侍所所司を任せることを歴代将軍が不安に思っていたのかもしれません。

 一色氏は一度ヘマをしてるので裏切る心配もありませんし、抜擢を恩に感じて精一杯務めるだろうという読みもあったのだと思います。

 史書で言われている若狭の国人一揆を鎮圧した功績で所司になったという説明だけではどうも納得しくいんです。そんなことは守護として当たり前の役目だし、これぐらいでは九州での大失敗は挽回できないでしょうから。



 それにしても一色氏は運が良かったと言えるかもしれませんね。末期には衰退したといっても室町幕府の最後まで家名を保つことができたんですから。Photo

2010年6月 8日 (火)

鎮西奉行 少弐一族 (後編)

 大内氏の北九州侵攻は、応永の乱で当主義弘が幕府軍に滅ぼされたことで一時中断します。しかし後を継いだ弟盛見によって再開されました。少弐氏は非業の死を迎えた冬資の弟頼澄の孫にあたる満貞の時代になっていました。

 満貞は豊後の大友氏、対馬の宗氏と結びこれに対抗、まず応永三十年(1423年)九州探題渋川義俊を博多に攻め肥前に追い出してしまいます。永享三年(1431年)、大内盛見が筑前に侵攻してきました。

 要衝立花城を落した大内勢に対し、少弐・大友連合軍は筑前深江にてこれを迎撃、総大将盛見を討ち取るほどの大勝利を挙げました。しかし少弐氏の優位はここまででした。本拠筑前さえ完全に抑えきれていない少弐氏と、周防・長門を支配し石見・安芸まで進出していた大内氏では地力が違いすぎていたのです。


 永享五年(1433年)、盛見の後を継いだ大内持世が大軍を率いて再度侵攻してくると満貞は子の資嗣とともにこれを迎え撃ちますが、満貞が筑前秋月で討死、資嗣は肥前まで逃れましたが肥前与賀庄でこれも戦死します。

 残された一族は対馬の宗氏を頼って逃亡する始末でした。しかし鎌倉以来の名門である少弐氏の名前は絶大でした。対馬の宗氏をはじめ肥前の竜造寺など支援する勢力には事欠かなかったのです。

 大内氏が攻めるときには逃れ、陣を引くと再び起こって失地を回復するという繰り返しでした。しかしついに十五代当主政資が大内氏によって討たれ一時滅亡するという事態も起こりました。

 十六代資元が再興しますが、大内氏の攻勢に押され筑前を保つことができず本拠地を肥前勢福寺城(佐賀県神崎市神崎町城原)に移さざるを得なくなりました。以後滅亡までこの城が少弐氏の本拠となります。 


 もはや大内氏の優位は覆し難く、ついに資元は大内義隆に降伏します。しかし義隆に欺かれ自害に追い込まれると十七代を継いだ子の冬尚は不倶戴天の敵として大内氏を憎みぬきます。

 退勢の少弐氏を支え続けたのは重臣竜造寺家兼でした。一時は大内氏を破るほどの活躍を見せますが、主家を凌ぐほどの声望を得た家兼を猜疑した冬尚は、家老馬場頼周の讒言を入れ、家兼の一族郎党ことごとくを騙まし討ちにして滅ぼしてしまいました。

 事件のとき別の場所にいた家兼は難を逃れ筑後に落ちていきます。しかしこれによって竜造寺一族は少弐氏を離れ敵となりました。

 竜造寺一族暗殺事件は、大内義隆の謀略とも言われています。しかし柱石とも頼む竜造寺一族を讒言を容れて滅ぼすのですから冬尚の暗愚さは救いようがありません。そしてこれが少弐氏滅亡の原因となりました。


 旧臣鍋島一族の援助を得て肥前に復帰した家兼は、馬場頼周を討ち竜造寺家を再興します。生き残りで仏門に入っていた曾孫の竜造寺胤信(のちの隆信)を還俗させ後事を託すと、1546年波乱に飛んだ93年の人生を安らかに終えました。

 一族の敵である少弐冬尚を討つため、大内義隆と結んだ竜造寺隆信は天文十六年(1547年)兵を挙げます。冬尚は譜代の江上元種らを集め目達原で合戦しますが敗れてしまいました。

 永禄2年(1559年)には、本拠地勢福寺城を竜造寺勢に囲まれます。復讐に燃え激しく攻め立てる竜造寺勢の前に、さしもの堅城勢福寺城もついに落城しました。

 冬尚は燃えさかる城を背に自害、ここに鎌倉時代から続いた名族少弐氏は滅亡しました。難敵大内氏でさえ完全に制圧できなかった少弐氏でしたが、内部崩壊によって止めを刺されたのです。




 歴史の皮肉とも言えますが、名族が滅びるときは得てしてこのようなケースが多いのかも知れません。

 少弐一族興亡の歴史を眺めると栄枯盛衰の儚さを感じてしまいます。まさに、「祇園精舎の鐘の声…」ですね!

鎮西奉行 少弐一族 (中編)

 九州探題一色範氏を針摺原の合戦で破り九州から叩き出すと少弐氏と南朝方の蜜月時代は終わりを遂げます。頼尚は南朝との同盟を破棄し、幕府方に転じました。幕府の任命した九州探題を追い出しておきながらぬけぬけと幕府に味方すると申し出た少弐氏は、普通なら許されるはずもありませんでしたが、九州において劣勢だった室町幕府は苦々しく思いながらもこれを認め頼尚を九州における幕府軍の旗頭に任命します。


 頼尚は、豊後の大友、薩摩の島津と結び九州において勢力を拡大します。一方南朝も懐良親王、菊池武光を中心に勢力を纏め上げ九州は南北朝両軍の拮抗状態となりました。

 1359年、両軍は九州一の大河、筑後川をはさんで対陣します。幕府軍は少弐頼尚を総大将に嫡男直資、大友氏時、城井冬綱率いる北九州の兵六万、一方南朝軍は肥後・筑後・肥前の兵力を集め総大将に征西将軍宮懐良親王、実質的総司令官は最大の兵力を有する肥後の豪族菊池武光で四万。

 両軍合わせて十万という日本でも有数の大合戦の火蓋は切って落とされました。大軍でありながらまとまりに欠ける幕府軍は、劣勢ながら猛将菊池武光を中心に攻める南朝軍に押されまくります。

 懐良親王、菊池武光が負傷するほどの激戦でしたが、日が落ちる頃には戦いの大勢は決しました。頼尚が期待していた嫡男直資が戦死したほか両軍合わせて死者二万六千という大損害を出して幕府軍は潰走します。


 この戦いによって九州は南朝方の優位が確定。太宰府入城に成功し、以後十年に及ぶ南朝の九州支配が始まりました。

 1361年、頼尚は本拠地太宰府有智山城を追われますが死にはしなかったようです。事態を重く見た室町幕府三代将軍足利義満は、九州に入ることもできなかった九州探題渋川義行の後任に足利一門の切り札ともいうべき名将、今川了俊(貞世)を任命しました。1370年のことです。

 了俊は、万全の準備を整え弟の仲秋を肥前に、嫡男義範(のちに貞臣と改名)を豊後に派遣して足場を固めさせると中国勢を率いて一気に北九州に上陸、太宰府を攻めました。北九州においてゲリラ戦を続けていた少弐氏もこれに合流、南朝軍をついに太宰府から叩き出すことに成功しました。

 南朝方では、大黒柱である菊池武光が病死するなどの不利もあってこれを支えきれず筑後川の防衛線も突破されます。筑後を制圧した今川了俊は大軍を率いて菊池氏の本拠地隈府を望む日の岡(熊本県山鹿市鹿本町北方、現石の風車公園あたりか?)に着陣しました。弟仲秋は肥前勢を率い西南の岩原(いわばる、同山鹿市鹿央町)に陣を敷き、1375年山鹿平野をはさんで台(うてな)城に籠った菊池勢と睨み合いを続けました。

 了俊は、ここで一気に決着をつけようと豊後の大友親世、薩摩の島津氏久、そして頼尚の跡を継いでいた二男冬資の来陣を促します。了俊主導の九州平定で既得権益を奪われることを警戒した冬資は来陣を渋りますが、島津氏久の説得でようやく着陣しました。

 ところが酒宴の席で、了俊の命を受けた武士らによって冬資が暗殺されるという事件が起こります。了俊も九州探題と少弐氏の並立が不可能と考えての殺害でした。

 面目を潰された島津氏久は烈火の如く怒り陣を引き払います。以後島津氏は了俊から離反、決して味方になることはありませんでした。大友親世は留まりましたが、地元の武士をないがしろにする了俊のやり方には反感を覚えます。


 このような事件もありながら、今川軍は水島の合戦で菊池勢を破り、本拠隈府城(熊本県菊池市)を占領しました。南朝軍は一時詫磨原(たくまばる、熊本市水前寺あたり)で今川軍を破りますが次第に追い詰められ肥後南部の要害、古麓城(熊本県八代市)に籠城しました。


 あと一歩で九州統一まできた今川了俊でしたが、独立して権力をふるい強大化したことは将軍義満の警戒心を呼び起こします。義満は幕府体制の安泰のために、将軍権力を脅かす有力な守護大名の存在を許さなかったのです。

 了俊を憎んでいた豊後の大友親世や、周防の大内義弘らの巧みな讒言もあって了俊は1395年九州探題を解任されました。


 後任には、渋川満頼が任命されます。無能な九州探題の出現で肩の荷を下ろした少弐氏でしたが、逆に無能なだけに困った事態が巻き起こるのです。幕府も渋川満頼の実力の無さは分かっておりそれを補佐させるために周防大内氏にこれを援けるよう命じます。

 合法的に九州進出できるようになった大内氏は、筑前・肥前の支配権をめぐって少弐氏と各地で激しい戦いを演じるようになります。


 南北朝はすでに1392年合一されていましたが、それは中央だけのことでした。全国各地でこのような戦いが続けられたのです。少弐氏は大内氏と血みどろの戦いを続けながら戦国時代まで続きます。


 後編では少弐氏の滅亡を描きます。

鎮西奉行 少弐一族 (前編)

鎌倉幕府鎮西奉行兼大宰少弐(大宰府在庁官人のトップ)として豊後の大友、薩摩の島津とともに九州三人衆と称された少弐氏。鎌倉、南北朝と九州北部に勢威を振るい室町、戦国時代、周防の大内氏と抗争を繰り返した一族です。私の好きな足利直冬とも関係が深い少弐氏、全国的には知名度が低いと思いますがご紹介したいと思います。


 少弐氏はもと武藤氏といい関東の御家人でした。鎌倉幕府成立後、頼朝の命により武藤資頼が筑前、豊前、肥前三国の守護として下向してきたのが始まりです。幕府の職制である鎮西奉行のほかに朝廷の大宰府次官大弐、少弐のうち少弐を歴任したので、それを家名にしたと伝えられています。

 鎌倉以時代を通じて少弐氏は筑前・豊前・肥前の前三国、大友氏は豊後、筑後・肥後の後三国、島津氏は薩摩・大隅・日向の奥三国の守護を務め文字通り九州を三分していました。


 しかしその支配体制が崩れたのは元寇です。当時の当主は資頼の孫にあたる少弐経資・景資兄弟でした。奮戦した彼らでしたが、戦後幕府は支配体制の強化のため少弐氏、大友氏、島津氏から本国以外の守護職を取り上げ得宗領としたため不満を抱きます。

 ただ後醍醐天皇が倒幕運動を始めるに際してはまだ彼らは動きませんでした。そこまで幕府の支配体制は強固だったと言えます。しかし武士の棟梁を任じる足利尊氏(当時は高氏)が挙兵するとこぞって味方に付きます。


 建武の新政が破たんし、再び足利尊氏は挙兵しますが奥州に下向していた北畠顕家が背後から京都を攻めると敗退し九州に落ち伸びました。資頼から六代目の頼尚(よりひさ)はこれを長門国赤間関に出迎え再起を援けます。


 建武三年(1336年)、多々良浜の戦いで菊池武敏を中心とする九州宮方二万騎の大軍を破ると尊氏は上洛の軍を発します。このときも大友、島津とともに少弐氏の軍が主力となりました。湊川の合戦に勝利した尊氏は征夷大将軍に任ぜられ室町幕府を開きます。


 尊氏は九州の抑えとして一族の一色範氏を博多に残し九州探題に任命します。尊氏を助けた功績からも当然自分を探題に任命してくれると思っていた頼尚は当てが外れたばかりか、筑前・豊前・肥前の自分の勢力圏で利害が対立することを考え複雑な気持ちを抱きました。


 これが足利幕府内部の対立である観応の擾乱で、尊氏の弟直義方である尊氏の庶子直冬を迎える動機でした。


 直冬は自分を疎んじた実父尊氏を憎み、養父の直義を愛していましたから彼のために戦うのは当然でした。しかも一時長門探題に任じながら備後鞆津で騙し討ちにしようとした父を許すことはできなかったのです。

 命からがら肥後の川尻港(熊本市南部)に辿り着いた直冬は、まもなく頼尚の本拠太宰府に迎えられます。頼尚は直冬を婿に迎え彼を奉じて幕府の出先機関である九州探題と戦う道を選びます。1348年のことです。

 ちなみに、記録では直冬の妻は正室である少弐氏しか確認されていません。


 この頃南朝側でも、懐良親王が征西将軍宮として肥後菊池武光に迎えられていましたから、探題一色氏、直冬方、南朝のまさに九州三国志時代が到来していたのです。


 しかも探題方と直冬方は、もともと同じ勢力だっただけに近親憎悪が激しいものでした。南朝勢力をそっちのけにして九州各地で激しく戦います。


 ここで腐っても鯛、尊氏の息子で直義の養子でもある直冬の名前は絶大な力を発揮します。九州に何の関係もない一色範氏は次第に追い詰められ一時は肥前に逃亡するくらいでした。

 しかし中央で直義派が敗退し、尊氏派が盛り返すに従って直冬方は劣勢になっていきます。北朝年号と南朝年号があって複雑なので西暦で示すと1352年、再び力を取り戻した一色範氏の攻撃によって少弐氏の本拠地太宰府近辺まで戦火が及び始めるとたまらず直冬は自分についてきた部下たちを見捨てて長門に逃亡しました。

 実質直冬の九州での活動は5年、何の成果も残さないまま終わりました。一方逃げるわけにはいかない少弐頼尚はこの劣勢を挽回するため、なんと宿敵である南朝菊池武光と結びます。

 少弐・菊池連合軍は翌1353年、針摺原の合戦、ついで犬塚原の合戦で一色範氏を破り、たまらず範氏は九州を放棄、長門国に逃亡しました。


 頼尚は菊池武光の手を取り、涙を流して「末代の果てまで貴方様に敵対することはありません」と述べたと伝えられていますが、その6年後の1359年には皮肉にも幕府方に復帰した頼尚と菊池武光は筑後川(大保原)で戦うことになるのです。



 中編・後編では頼尚の絶頂時代と没落、今川了俊、大内氏との抗争、そして少弐氏の滅亡を描こうと思います。

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