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2010年6月19日 (土)

中国路における足利直冬(ただふゆ)とその死

 「鎮西奉行 少弐一族 (前編)」で九州における足利直冬の動向は簡単に紹介しました。ただその後どうなったかについて記さなかったので、ここに纏めておきます。


 1352年暮れ、九州探題一色範氏の巻き返しで九州における勢力拡大を諦めた足利直冬はそれまで一緒に戦ってきた部下たちを見捨て長門豊田城に逃げ込みます。

 実は直冬の部下を見捨てての逃亡劇は今回が初めてではありませんでした。実は1349年父尊氏に長門探題として任命され赴任の途中の備後鞆津で、尊氏の密命を受けた武士たちに騙し討ちで襲撃されたことがありました。この時は不意をつかれたこともあり仕方ない面はありましたが、今回はもう少し上手くやれば部下たちを引き連れて撤退できたように思います。


 しかし、直冬の性格だったのでしょう。貴人に特有の淡白で酷薄な面が出たのかもしれません。直冬のこのような性格を見て、歴史学者の瀬野精一郎氏は「愚将であり同情することはできない」と断じておられます。その点は私も同意なのですが、生母の身分が低かったために父尊氏に愛されず、孤独な少年時代を送っている直冬にとって、人情とか人の愛などというものは理解できなかったのかもしれません。

 そしてこのとき、史書に記録のある唯一の正室、少弐氏も九州に置き去りにしたはずです。その後の記録に出てきませんから。


 そう言えば瀬野氏はその著書の中で面白い説をとなえておられます。直冬の生母は越前局と伝えられていますが、彼女は貴族や武士専門の高級娼婦だったのではないか?というのです。


 若気の至りで遊んだ尊氏にとってそれ以上でもそれ以下でもなく、彼女が自分の子供を身ごもったと聞いても迷惑この上なかったのではないかと推理しておられるのです。すでに正室赤橋登子を迎えていた尊氏ですから、正室の手前そんなどこの馬の骨とも分からない赤子を認知できなかったのでしょう。

 DNA鑑定のない当時、本当に自分の子か?と疑っていたのかもしれません。

 この話を伝え聞いた尊氏の弟、直義が哀れに思って自分の養子にしたのですから直冬にとっては直義こそ父と思っていたに違いありません。


 実は1352年2月、観応の擾乱に敗れた直義は鎌倉で急死していました。兄尊氏による毒殺という説がまことしやかに流れますが、自分を騙まし討ちで亡き者にしようとした父ですから、直冬はこの説を信じていたと思います。


 直冬は養父直義の仇打ちのためにも上洛を考えるようになるのです。直義は死にましたが、直義派と目される武将が全国各地で尊氏派の武将と戦っていました。中国地方でも周防・長門に勢力を張る大内氏、山陰地方に勢力を張る山名氏が直冬を奉じて戦うと申し出てきます。

 このような当てがあったからこそ直冬は中国へ来たのでした。

 そのために直冬は南朝に降伏して、足利討伐の綸旨まで賜ります。万全の準備を施した直冬は、山陽・山陰の大軍をこぞって1354年上洛の途につきます。これには越中の直義派、桃井直常(もものいただつね)や南朝の楠木正儀らも呼応しました。

 幕府方もこれを迎え撃つべく出撃しますが、二代将軍足利義詮が敵主力と目された直冬軍に備えるため播磨に出陣した隙をついて、1355年桃井直常ら北陸勢が手薄になった京都に侵入します。

 留守を守っていた尊氏はあわてて後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に脱出する始末でした。


 義詮率いる幕府軍主力は播磨に孤立します。直冬は義詮軍にはあえて挑まず別ルートを通って京都に入城しました。直冬にとっては実に5年8カ月ぶりの京都です。それまでに苦難の日々を思って感慨にふけったことでしょう。

 しかし、義詮軍をそのままにしたことは致命傷になりました。まもなく義詮は近江で兵力を集めた父尊氏とともに京都を挟み討ちにしたのです。


 ただ京都に入ることだけが目的で何の戦略戦術もない直冬軍がこれを持ちこたえられるはずもありませんでした。正月16日の桃井軍入京から一月もしない2月6日には摂津神南の合戦で直冬軍は大敗します。

 同じ6日、近江の尊氏軍も京都六条に進出、直冬軍と激しい市街戦を演じます。それでも4月まで持ちこたえたのだから大したものです。

 しかし衆寡敵せず、直冬軍は散り散りになって京都を脱出しました。これが直冬の人生の絶頂期だったのでしょう。その後は坂道を転げ落ちるように勢力を失っていきました。

 1356年、命からがら根拠地の安芸に逃げ戻った直冬でしたが、今まで彼を支援してきた山名・大内氏との間には微妙な空気が流れていました。

 直冬にはすでに幕府から追討令が出されています。滅ぶことが必定の泥船にいつまでもしがみついている馬鹿はいません。彼らとて生き残らなければいけないのです。まず1363年大内弘世が周防・長門の守護職安堵を条件に幕府方に寝返ります。ついで山名時氏も山陰における本領安堵を幕府に約束されて帰順しました。

 直冬を支える二大勢力である大内・山名が寝返ったのですから、もはや彼を支える勢力はいませんでした。中国地方の武士団は次々と直冬から離れていきました。

 根拠地だった安芸からも追われ、まだ一部支持勢力の残っていた石見に逃げ込みます。


 その後の直冬の消息ははっきりしません。1358年尊氏、1367年には弟であり生涯最大のライバルだった二代将軍義詮が亡くなります。


 すでに勢力を失い石見の山奥で隠棲する直冬が、この知らせを受けたときどのような感想を抱いたでしょうか?もはや幕府に対決するという気持ちは無くなっていたでしょう。


 直冬には四人の子があったと伝えられています。おそらくこの隠棲時代に妻を迎えて子を成したのでしょう。前半生家庭の温かさを知らず過ごしてきた直冬が、夢破れた後家庭の幸せを掴んだのですから人生の皮肉です。

 三代将軍義満は、もはや哀れな直冬を討伐する気持ちはありませんでした。石見の山奥で隠棲するのなら見逃してやろうという考えです。義満にとっても叔父ですし。


 彼の死はいつかはっきりしません。有力な説では1400年、74歳の生涯でした。


 直冬の子たちは皆仏門に入ったとされます。末子と伝えられる宝山乾珍のように相国寺四十四世住持まで出世した者も出ましたが、その後の幕府の権力争いに巻き込まれ直系の子孫は絶えたと伝えられます。


 考えてみれば、直冬もその子孫たちも数奇な運命に弄ばれた一族だったのでしょう。

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