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2010年6月 8日 (火)

鎮西奉行 少弐一族 (中編)

 九州探題一色範氏を針摺原の合戦で破り九州から叩き出すと少弐氏と南朝方の蜜月時代は終わりを遂げます。頼尚は南朝との同盟を破棄し、幕府方に転じました。幕府の任命した九州探題を追い出しておきながらぬけぬけと幕府に味方すると申し出た少弐氏は、普通なら許されるはずもありませんでしたが、九州において劣勢だった室町幕府は苦々しく思いながらもこれを認め頼尚を九州における幕府軍の旗頭に任命します。


 頼尚は、豊後の大友、薩摩の島津と結び九州において勢力を拡大します。一方南朝も懐良親王、菊池武光を中心に勢力を纏め上げ九州は南北朝両軍の拮抗状態となりました。

 1359年、両軍は九州一の大河、筑後川をはさんで対陣します。幕府軍は少弐頼尚を総大将に嫡男直資、大友氏時、城井冬綱率いる北九州の兵六万、一方南朝軍は肥後・筑後・肥前の兵力を集め総大将に征西将軍宮懐良親王、実質的総司令官は最大の兵力を有する肥後の豪族菊池武光で四万。

 両軍合わせて十万という日本でも有数の大合戦の火蓋は切って落とされました。大軍でありながらまとまりに欠ける幕府軍は、劣勢ながら猛将菊池武光を中心に攻める南朝軍に押されまくります。

 懐良親王、菊池武光が負傷するほどの激戦でしたが、日が落ちる頃には戦いの大勢は決しました。頼尚が期待していた嫡男直資が戦死したほか両軍合わせて死者二万六千という大損害を出して幕府軍は潰走します。


 この戦いによって九州は南朝方の優位が確定。太宰府入城に成功し、以後十年に及ぶ南朝の九州支配が始まりました。

 1361年、頼尚は本拠地太宰府有智山城を追われますが死にはしなかったようです。事態を重く見た室町幕府三代将軍足利義満は、九州に入ることもできなかった九州探題渋川義行の後任に足利一門の切り札ともいうべき名将、今川了俊(貞世)を任命しました。1370年のことです。

 了俊は、万全の準備を整え弟の仲秋を肥前に、嫡男義範(のちに貞臣と改名)を豊後に派遣して足場を固めさせると中国勢を率いて一気に北九州に上陸、太宰府を攻めました。北九州においてゲリラ戦を続けていた少弐氏もこれに合流、南朝軍をついに太宰府から叩き出すことに成功しました。

 南朝方では、大黒柱である菊池武光が病死するなどの不利もあってこれを支えきれず筑後川の防衛線も突破されます。筑後を制圧した今川了俊は大軍を率いて菊池氏の本拠地隈府を望む日の岡(熊本県山鹿市鹿本町北方、現石の風車公園あたりか?)に着陣しました。弟仲秋は肥前勢を率い西南の岩原(いわばる、同山鹿市鹿央町)に陣を敷き、1375年山鹿平野をはさんで台(うてな)城に籠った菊池勢と睨み合いを続けました。

 了俊は、ここで一気に決着をつけようと豊後の大友親世、薩摩の島津氏久、そして頼尚の跡を継いでいた二男冬資の来陣を促します。了俊主導の九州平定で既得権益を奪われることを警戒した冬資は来陣を渋りますが、島津氏久の説得でようやく着陣しました。

 ところが酒宴の席で、了俊の命を受けた武士らによって冬資が暗殺されるという事件が起こります。了俊も九州探題と少弐氏の並立が不可能と考えての殺害でした。

 面目を潰された島津氏久は烈火の如く怒り陣を引き払います。以後島津氏は了俊から離反、決して味方になることはありませんでした。大友親世は留まりましたが、地元の武士をないがしろにする了俊のやり方には反感を覚えます。


 このような事件もありながら、今川軍は水島の合戦で菊池勢を破り、本拠隈府城(熊本県菊池市)を占領しました。南朝軍は一時詫磨原(たくまばる、熊本市水前寺あたり)で今川軍を破りますが次第に追い詰められ肥後南部の要害、古麓城(熊本県八代市)に籠城しました。


 あと一歩で九州統一まできた今川了俊でしたが、独立して権力をふるい強大化したことは将軍義満の警戒心を呼び起こします。義満は幕府体制の安泰のために、将軍権力を脅かす有力な守護大名の存在を許さなかったのです。

 了俊を憎んでいた豊後の大友親世や、周防の大内義弘らの巧みな讒言もあって了俊は1395年九州探題を解任されました。


 後任には、渋川満頼が任命されます。無能な九州探題の出現で肩の荷を下ろした少弐氏でしたが、逆に無能なだけに困った事態が巻き起こるのです。幕府も渋川満頼の実力の無さは分かっておりそれを補佐させるために周防大内氏にこれを援けるよう命じます。

 合法的に九州進出できるようになった大内氏は、筑前・肥前の支配権をめぐって少弐氏と各地で激しい戦いを演じるようになります。


 南北朝はすでに1392年合一されていましたが、それは中央だけのことでした。全国各地でこのような戦いが続けられたのです。少弐氏は大内氏と血みどろの戦いを続けながら戦国時代まで続きます。


 後編では少弐氏の滅亡を描きます。

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