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2010年6月19日 (土)

一色氏はなぜ四職の一角になれたのか?

 私鳳山の悪い癖は、一つのテーマで記事を書くとそれに関連することが非常に気になりだすというものです(苦笑)。

 足利直冬、小弐氏について記事を書いていてふと疑問に思ったんですが、なぜ初代九州探題として大失敗した一色氏が、室町幕府の重要な役職である侍所所司(長官)を赤松・山名・京極とともに歴任できるまでになったか?ということです。



 日本史をちゃんと勉強された方なら思い出されるでしょうが、室町幕府に「三管領四職」という言葉があったでしょ?

 三管領とは将軍を補佐する幕府最高官職である管領になることができる家格をもつ斯波・畠山・細川の三家のことです。一方侍所はその下で幕府の軍事力をつかさどる重要な役職です。

 尊氏の天下取りを助けた赤松円心や佐々木道誉(佐々木京極氏の祖)や、山陰地方に強大な勢力をもつ山名氏は分かるんです。


 それに対して信長の野望などのゲームを遊んだことのある方ならご存知でしょうが、たかが丹後一国の守護にすぎない一色氏がこれら功臣たちとともに侍所所司に就任できる家柄に何故なったのでしょうか?


 しかも一色範氏は、初代九州探題になり、二代探題の嫡男直氏とともに九州統治にあたったものの在地の守護達を纏めきれず、ついには有力守護の少弐頼尚と対立して九州から叩き出されるという大失態を演じているのです。


 通常このような失態を演じた家は、復活することはありません。似たような経緯をたどった同じ足利一門の渋川氏も、九州経営に失敗し有名無実の存在となったではありませんか。一時期幕政を壟断しながら当主義長が細川氏との権力争いに敗れ守護領国である北伊勢・伊賀に逼塞し最後は名目だけの伊賀守護となった仁木氏の例もあります。


 事実九州から逃げ帰った一色親子は、足利尊氏の怒りをかい隠居せざるを得なかったほどですから。ところが後を継いだ範氏の二男範光は、若狭・三河の守護に任ぜられたばかりか、侍所所司にまでなっているんです。


 ちなみに一色氏の領国と言えば丹後ですが、守護になったのは範光の孫の満範の時代(1392年~1409年)からみたいですね。



 家系図を見てもらうと分かりますが、一色氏は斯波氏や渋川氏、石堂氏とともに足利家嫡流に最も近い一族です。実は世間のイメージと違って吉良・今川氏(三代義氏から発祥す)より近しい一族なのです。斯波氏は、南北朝期までは足利と名乗っていたくらいですから。

 私が推理するに、二代将軍義詮、三代将軍義満に範光が個人的に気に入られていたということと同時に、どこの馬の骨かわからない赤松や、源氏といってももとは新田源氏出身の山名、道誉の個人的功績だけでのし上がった近江源氏佐々木氏の分家京極氏(本家は六角佐々木氏)らに幕府の重要な役職である侍所所司を任せることを歴代将軍が不安に思っていたのかもしれません。

 一色氏は一度ヘマをしてるので裏切る心配もありませんし、抜擢を恩に感じて精一杯務めるだろうという読みもあったのだと思います。

 史書で言われている若狭の国人一揆を鎮圧した功績で所司になったという説明だけではどうも納得しくいんです。そんなことは守護として当たり前の役目だし、これぐらいでは九州での大失敗は挽回できないでしょうから。



 それにしても一色氏は運が良かったと言えるかもしれませんね。末期には衰退したといっても室町幕府の最後まで家名を保つことができたんですから。Photo

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コメント

はじめまして!確かになぜ一色氏が四職に
なれたのかは不思議でしょうがないですね。

しゃけさん、コメントありがとうございます。表に現れてきてない裏の歴史があったのかもしれません。

ただ一色氏の場合、実力を伴わなかったから衰退するのも早かったとは言えますね。

不思議といえば一度失敗した渋川氏が今川了俊の
後任として再度九州探題になったこと、斯波氏の
跡継ぎとして義廉が渋川氏から養子に入ったのも
不思議ですね。九州探題の件は義満との血縁関係に
よるといわれてますが、何か釈然としないものがあります。

しゃけさん、渋川氏の再起用は有能でなかったためだという見方もできます。了俊によって九州南朝勢力がほぼ壊滅した後は幕府の命令を聞き無難にまとめるだけの能力しか要らなかったのでしょう。

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