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2010年7月

2010年7月12日 (月)

奥州伊達一族   後編

 伊達氏一六代輝宗が家督を継いだのは1563年(1564年という説も)のことです。室町幕府との密接な関係で勢力を伸ばしてきた当家でしたが、幕府の衰退はあきらかとなってきていました。

 そこで輝宗は、新興勢力である織田信長と結びます。このあたり田舎大名とは思えない慧眼ですが、輝宗の場合、どうも外交以外の能力には疑問符が付くような気がしてなりません。

 といいますのも、出羽山形の最上義守の娘(義姫)を正室に迎えていながら、義守の子義光(よしあき)の家督相続の際の内紛などに過度に介入し最上氏の恨みを買っています。よく伊達政宗を扱った小説などで最上義光は悪役になってますが、義光にしてみれば「喧嘩を売ってきたのはそっちだろ?」という言い分があると思います。

 輝宗は、義光が家督相続した後も、最上家の家臣を唆して乗っ取りを画策していますから、義光の不信感は生涯拭えませんでした。

 軽率という言葉がぴったりくるかもしれません。その最たる例が畠山義継事件でしょう。


 当時の南陸奥は会津黒川の芦名氏と伊達氏の二大勢力が争っていました。中小の豪族はそのどちらかに付くか離合集散を繰り返していましたが、あるとき二本松城主畠山義継が伊達家に帰順してきます。

 義継は二本松領の半分を献上する覚悟でしたが、輝宗は愚かにもそれ以上に過酷な条件を突きつけました。子を人質に取るほか、二本松城近辺の五ヶ村しか領有を認めないと言ったのです。


 これでは畠山家は滅んでしまいます。ある覚悟を決めた義継はお礼言上のため輝宗がいた宮森城に参上しました。鷹揚にこれを迎えた輝宗でしたが、座を立って玄関まで送ろうとした時義継の家臣らに拉致されてしまいます。大名家の当主が人質となる前代未聞の事件でした。

 義継は、どうせ滅びるなら一か八かの賭けをしたのです。輝宗を人質に所領を奪い返すためとも、輝宗を土産に芦名家に駆け込もうとしたとも言われていますが、真相ははっきりしません。


 輝宗を連れた畠山主従は、自領の二本松城に向かうため阿武隈川を越えようとしていました。そこへ駆けつけた輝宗の嫡男政宗は、父もろとも畠山主従を鉄砲で討ち果してしまいます。

 このとき小説などでは「父に構わず撃て!」と輝宗が叫んだとされますが、実際はどうだったでしょう?あまりの父の愚かさに呆れ果てていたかもしれません。


 実は事件の一年前家督を継いでいた政宗でしたが、このとき一九歳。本格的に歴史の表舞台に登場することになったのは、この劇的な事件からでした。


 独眼竜政宗、輝宗と最上義守の娘義姫との間に生まれた嫡男でしたが、幼い頃疱瘡を患い片目を失っています。このため実母お東の方(義姫)からその醜くなった容貌を嫌われます。彼女は二男の小次郎を溺愛し、事あるごとに夫の輝宗に政宗の廃嫡を願い出ています。輝宗がそれを取り上げなかったことは伊達家にとって幸いでした。

 このような不幸な少年時代をおくった政宗がひねくれなかったのは、教育係の虎哉宗乙(こさいそういつ)と守役片倉小十郎景綱の厳しい教育のおかげでした。


 政宗は、まず父の弔い合戦とばかり二本松城を攻めます。義継の子、国王丸はたまらず芦名氏に救援を要請しました。芦名家は常陸の佐竹家から義重の子義広が養子に入り継いでいましたから、芦名・佐竹連合軍との全面対決に至りました。

 1585年11月、佐竹義重を盟主とし芦名義広、岩城常隆、石川昭光、白川義親の連合軍三万が伊達政宗を討つべく須賀川に集結、北上を開始します。急報を受けた政宗は、八千の兵を率い会津街道と奥羽街道の交わる要衝本宮の地でこれを迎撃しました。

 両軍は瀬戸川に架かる橋を中心に激しく戦います。一進一退の攻防を続けますが、劣勢の伊達勢は次第に敗色が濃くなりました。ところが、敵の中心である佐竹勢が急に陣払いをして去っていきます。佐竹の本拠常陸に江戸・里見勢が義重の留守を衝いて侵入したからでした。

 政宗はまさに九死に一生を得ます。佐竹勢の抜けた連合軍は瓦解し、自ら戦場を去って行きました。これが有名な人取橋の合戦です。



 その後も政宗はあるいは戦で、あるいは調略で順調に領国を拡大し、宿敵芦名義広を磐梯山麓摺上原の合戦で撃破します。1589年のことです。この時伊達軍兵力二万三千、芦名軍一万八千といいますから、人取橋から数年で伊達家が急速に拡大したことがわかります。

 芦名氏を滅ぼし、本拠を芦名氏の居城黒川城(現在の会津若松城)に移した政宗は領国も百二十万石を数えまさに得意の絶頂でした。しかし、中央では豊臣秀吉が天下統一に乗り出していたのです。


 1590年、関白秀吉は三十万という大軍で小田原城を囲みます。一時は小田原北条氏と結び秀吉と対決することも考えた政宗でしたが、実力の違いは如何ともしがたくついに小田原に参陣、秀吉に屈服します。


 秀吉は、降伏した政宗を許しますが、旧芦名領を取り上げてしまいます。これで振り出しに戻った政宗でしたが、転んでもただで起きないのが彼の良いところです。(いや欠点か?)

 秀吉に没収された葛西・大崎氏の旧領で一揆を扇動します。この時は新たに会津に封ぜられた蒲生氏郷の活躍で鎮圧され、政宗は窮地に立たされました。

 おそらく政宗は、秀吉に反逆する気持ちは毛頭なく、地の利に明るい自分に一揆の鎮圧を命ぜられるものと考え、その軍功で失った芦名領のかわりに葛西・大崎領を貰えるとばかり皮算用してたのだと思います。しかし、家臣の一人が裏切り、政宗から一揆勢にあてた密書が氏郷を通じて秀吉に渡ったため烈火のごとく怒った秀吉から上洛命令が出されたのでした。


 誰もが政宗の死罪を予測していました。しかし、政宗は金の磔柱を先頭に白一色の死装束という人を食った行列で度肝を抜き、秀吉の詰問にも有名な「本物なら花押に針の穴があるはず」という言い訳で申し開きします。


 もちろん秀吉も、政宗の嘘は分かっていましたが、書状に細工をして万が一の発覚を免れる用意周到さに感心し、許したのではないでしょうか。


 しかし、戦後処理は政宗に不利なものでした。伊達氏累代の地である置賜、伊達、信夫郡などを没収し、かわりに葛西・大崎領を与えるというものでした。これで後の仙台藩の版図がほぼ確定するわけですが、実質七十二万石あった旧領から五十八万石に減らされ、貧しい北に追いやられるという処置は政宗に深い恨みを残しました。


 これが政宗をして徳川家康に接近させる端緒でもありました。一方政宗の旧領を加えられ会津九十二万石に加増された蒲生氏郷は政宗と、南の徳川家康の抑えとして重きを加えました。

 氏郷の急死後は、その役目は上杉景勝が引き継ぎます。関ヶ原の合戦の時も政宗は東軍に付き、上杉景勝と戦いました。家康は政宗に百万石のお墨付きを与えたといいますが、この時政宗はまたしてもへまをしてしまいます。

 家康から上杉景勝との合戦を自重するように言われ、旧領奪回の夢破れた政宗は、南がダメなら北とばかり同じ東軍の南部信直の領内に一揆を扇動するのです。南部信直や最上義光から訴えられこのことを知った家康は烈火のごとく怒ります。そのため百万石のお墨付きは露と消え、わずか四万石の加増にとどまったのです。いらないことをしなければ百万石は無理としても旧領のうち十万~二十万石位は返してもらえた可能性もあったのですが野心がそれをフイにしてしまいました。


 これで政宗が懲りて野心を捨てたかというとそうでもなく(苦笑)、娘婿の松平忠輝を唆し謀反を企んだり、遠くスペインに家臣の支倉常長を派遣し同盟して徳川幕府を攻めようと画策したり、野心は一生消えませんでした。




 家康は、この政宗の性格を十分承知しながら深く信頼を寄せ、自分の死後の徳川家を託したりしていますから人間の格が一枚も二枚も上だと言えます。これが天下人と天下を取れなかった男との差だったのかもしれません。

 伊達家は、仙台藩六十二万石と他に政宗の庶子秀宗に伊予宇和島十万石を与えられ幕末まで続きます。


 政宗が死去したのは1636年、享年七十歳でした。

奥州伊達一族   前編

 独眼竜政宗で有名な奥州伊達氏。薩摩の島津、常陸→出羽の佐竹と同様、鎌倉時代から続く名門でありながら江戸時代まで大名として存続した稀有の一族です。

 伊達(だて)はもともと『いだて』あるいは『いたち』と呼んでいたそうです。ウィキペディアによると伊達政宗がローマ教皇に送った手紙でも「Idate Masamune」と書いていたそうですから、当時は「いだてまさむね」と本人も称していたことでしょう。

 「いだて」が「だて」にいつなったかについては不明ですが、15世紀に畿内でその読みが登場し、江戸時代を通じて「だて」と呼ばれるようになったとか。



 この伊達氏ですが、源流ははっきりしません。小和田哲男氏の「史伝 伊達政宗」では「本姓藤原氏。藤原鎌足の曾孫、魚名(うおな)を経て玄孫中納言山蔭の子孫にあたる侍賢明院非蔵人光隆の第二子朝宗(ともむね)が伊達氏初代」だと述べています。これは仙台藩が江戸幕府に提出した系図に基づいていて、伊達家ではそのように理解していたと小和田教授は考察しておられます。

 ほかに数説あるのですが、伊達氏が歴史上現われてくるのは1189年源頼朝の奥州征伐からです。この戦で功のあった常陸中村の領主、常陸入道念西が陸奥伊達郡(現福島県伊達郡と伊達市)に領地を与えられたのが始まりとされます。


 この念西が朝宗と同一人物かどうか不明なのですが、その子孫たちは領地の名をとって伊達氏を称します。


 伊達氏が歴史上大きな存在になってくるのは南北朝時代でした。七代行朝(行宗)は南朝鎮守府将軍北畠顕家の有力武将として登場します。行朝は顕家に従って二度の上洛を果たし最後は伊達氏のルーツともいうべき常陸伊佐郡伊佐城に拠ったが、高師冬に攻められ降伏とあります。


 次の宗遠は、父と違って南朝にひたすら忠誠を尽くすのではなく、それを利用して勢力拡大に奔ります。彼が目を付けたのは隣国出羽米沢の長井氏でした。長井氏は鎌倉幕府建国の功臣大江広元の嫡流で置賜郡長井荘を代々領したことから長井氏を称しました。

 長井氏は北朝方だったのでそれを大義名分にした侵略でした。この時他の北朝方がなぜ援助しなかったか謎なんですが、中央はともかく地方は混沌としており北朝・南朝とその時々の都合で寝返る武士が多かったという事実が挙げられます。滅ぶか栄えるかは自己責任というところでしょうか?その意味では地方では戦国時代は既に始まっていたとも言えるでしょう。


 伊達氏が長井氏を完全に滅ぼし米沢盆地を手中にするのは九代政宗(独眼竜とは別人)の時でした。1385年のことです。南北朝合一が1392年のことですから、滑り込みセーフというところでしょう。これがもし合一後だったら、足利義満の追討を受け滅ぼされていたと思います。


 伊達氏は伊達、信夫、置賜三郡の領主としてさらに周辺にも勢力を広げ、要領よく幕府に帰順します。幕府としても強大な伊達氏を滅ぼすより利用することで奥州の安定を図ろうとしましたから、両者の思惑は一致したわけです。


 伊達氏の実力が侮りがたかったことの証明は、室町中期鎌倉公方足利満氏の三度の征討を退けたことからも覗えます。当時の記録では「七千騎を集めることのできる奥州随一の武士」とされるほどでした。


 歴代伊達家当主は足利義政、義尚ら時の将軍に莫大な贈り物をしその地位を保ちました。足利将軍と鎌倉公方の対立の構図も伊達氏に利したのかもしれません。鎌倉府を後方から牽制する勢力として伊達氏は重宝がられたのでしょう。


 一四代伊達稙宗は、ついに1522年幕府より陸奥守護職に任ぜられます。それまで陸奥には守護職は置かれず奥州探題大崎(斯波)氏の所管でしたが、大崎氏は陸奥中央部の地方勢力に落ちぶれ奥州全体を抑え切れなくなっていた現状から、幕府の苦肉の策でした。


 稙宗はそれを最大限に利用し、戦争ではなく婚姻政策で奥州各地の有力豪族と結び一大勢力に成長しました。このときの勢力範囲が、子孫の独眼竜伊達政宗の最大版図にほぼ匹敵したことからも勢力の大きさがわかります。


 しかし稙宗の急速な拡大策は、嫡子晴宗や譜代の家臣たちに危ぶまれました。稙宗は晴宗の弟時宗丸を関東管領上杉氏に連なる越後守護上杉家に養子に入れようとしました。これに伊達家の精鋭百騎を付けるということでついに晴宗の不満が爆発、親子が相争う内訌に発展しました。これが世にいう『天文の乱』です。

 伊達氏が奥州各地の豪族と婚姻関係を結んでいたため伊達家だけでなく奥州一帯をまきこんだ大戦争に発展しました。戦は長期化し伊達家の勢力はこれによって大きく衰えました。

 時の将軍足利義輝の調停で、稙宗隠居、晴宗家督相続で和議がようやく成立しますが、これによって伊達家の領国は半分以下に落ち込みます。

 晴宗は、それまでの伊達家の本拠地桑折(こおり)西山城から自身の居城のあった置賜郡米沢に本拠地を移します。米沢城はその後孫の政宗の代まで伊達氏の本拠地となりました。


 晴宗の一生は、天文の乱で被った痛手を回復することに費やされます。その子輝宗もそれを引き継ぎ、独眼竜政宗の雄飛につながるのです。



 後編では、輝宗・政宗時代と仙台藩成立を見ていきたいと思います。

先日、熊本県南関町「鷹ノ原(たかのはる)城跡」へ行ってきました。

 先日、ふと思い立って熊本県南関町にある鷹ノ原城跡へ行ってきました。

 おそらくよほどの城マニアでないと知らないと思いますが、加藤清正が肥後入部後、熊本城の守りとして南の佐敷城(熊本県芦北町)とともに筑後国境に築いた城です。

 佐敷城の方は、私も訪れたことがありますが発掘が進み山頂に見事な石垣をのぞかせています。一方、こちらの鷹ノ原城はようやく発掘が進み始めたというところ。


 歴史を簡単に振り返ると、それまでの南関地方の抑えであった大津山城が山城で手狭になったため、1600年加藤清正が縄張りし築城したと伝えられています。城代として重臣加藤美作を置き豊前街道を押さえていたそうですが、1615年の元和一国一城令で廃城になりました。


 私の想像では、たいした城じゃないとたかをくくっていたため、デジカメを持って行かなかったことが痛恨事でした。


 南関町役場裏手の山が城跡ですが、遠くから眺めるのとは大違い、実際登ってみると急峻な山でした。地図で見ると標高100mとあり、納得。


 おそらく山頂付近の城ノ原官軍墓地あたりが本丸だと想像します。日曜日に訪れたんですが、『発掘中につき立ち入り危険』の看板と縄が張ってあるところをひょいと越え(ごめんなさい)本丸と二の丸らしきところを散策しました。

 かなり大規模で、たぶん熊本城の本丸くらいはありそうな城域でした。まだ調査が完了してないので何とも言えませんが、織豊期の石垣や虎口が見て取れ、城造りの名人、加藤清正の息吹が感じられる城跡です。


 一刻も早く発掘調査が終わり一般公開してくれることを望みます。それにしても南関町は羨ましい!大津山城と鷹ノ原城の二つも城跡があるんですから。

 我が玉名市も内野城というすごい城を持ってるのに!私の調査では、中央の館だけが城域ではなく馬場地区から中土、大野下駅前を包含した大規模な城だった可能性があります。(実は私の住んでる地域もこの城内だったりします・笑)


 鎌倉時代に斎院別当中原親能が、肥前・肥後・筑後三ヶ国の守護に任ぜられて赴任した時に築いたのが始まりとされますが、その後当地を支配した豪族大野氏に受け継がれ、竜造寺隆信の肥後侵攻の際の本陣になったそうですから、その時に大規模に改修されたと私は睨んでいます。


 あ~あ、私が玉名市長ならすぐ調査するのに!でも一つの集落が丸々入っているから観光地化は難しいなあ。


 それにしても、何度も言いますが南関町は羨ましい~!この近所の市町村では一番城に恵まれています!!!次点で、筒ヶ岳城、梅ノ尾城を持ってる荒尾市か?



 って、超ローカルすぎて誰も付いてこれませんね(汗)。反省。

『薩摩・大隅守護職』  南北朝期の島津氏

 最近、アマゾンで注文する日本史関係の本は大当たりばかりなのですが、これも良書でした。

 『薩摩・大隅守護職』(西山正徳著 高城出版)という本なんですが、地元鹿児島の出版社、鹿児島在住の作家の作品だけに、地元の研究者でなければ分からない詳しい記述でした。


 一般に南北朝期の九州の歴史は、懐良親王の征西府、足利幕府の九州探題を中心に北九州の記述が大半で、南九州の歴史は日向国大将の畠山直顕、水島陣がらみの島津氏久と今川了俊の対立くらいしか出てきませんでした。


 しかし、この本は南北朝期の薩摩・大隅守護職島津貞久が足利尊氏に味方した経緯から始まり、嫡男、次男の戦死、貞久が三男師久に薩摩守護職を、四男氏久に大隅守護職を与えたことによる総州家(師久の官位上総介から)と奥州家(氏久の官位、陸奥守から)の対立、島津の内紛に乗じて滅ぼそうとした九州探題今川了俊の大軍を氏久が日向の地で撃破した蓑原の合戦、最終的に奥州家が内紛を制し、幕府に薩摩・大隅守護職を認めさせ嫡流となる動きなど、私が知らない歴史を描いており、夢中になって読みました。


 私が驚いたのは、島津氏は初めから鹿児島を根拠地にしていたのではなく、当初薩摩北部の出水市高尾野町江内木ノ牟礼にある木牟礼(このむれ)城に守護所があったという事実です。


 島津氏は鎌倉幕府から薩摩・大隅・日向の守護に任ぜられたものの、南薩摩の反島津武士団の力が強く南部に力を及ぼすことができなかったといいます。その後貞久の代に川内市天辰町碇山の碇山(いかりやま)城に守護所を移したそうです。


 島津氏は、一族を各地の所領に配することで薩摩に浸透を図りますが、そのために勢力が分散され有力庶家の伊集院忠国のように宗家に反発し南朝方につく者もでてきました。


 鹿児島が島津氏の拠点になったのは、貞久が南朝方から東福寺城(鹿児島市出水町、現在の多賀山公園あたり)を奪って四男氏久に与えたことが発端だったそうです。

 東福寺城は島津内紛の間も奥州家氏久に受け継がれ、氏久は大隅守護になってもこの城を手放さなかったといいます。というのもこの城は薩摩のほぼ中央に位置し、大隅や日向に進出するにも都合の良い、いわゆる交通の要衝に位置していたからでした。これがのちの鹿児島市に発展していきます。


 はじめ嫡流であった総州家は師久の子伊久(これひさ)の時代に、その子守久と合戦騒ぎまで起こして対立していたのを、奥州家の氏久の嫡男元久に仲裁されたことを恩に感じ元久に薩摩守護職と島津宗家の家督を譲ったことが没落の始まりでした。

 これでは守久にとってはたまったものではなかったでしょう。おかげで幕府帰順後も薩摩守護職を奥州家に持って行かれ、事実上嫡流なのに庶流扱いされたのですから。


 奥州家は、薩摩・大隅守護職を得たことによりそれまでの拠点志布志から東福寺城に移します。さらに元久は内陸に清水城(鹿児島市清水町)を築き移ります。その後十四代勝久まで清水城が島津氏の本拠でしたが、1550年十五代当主貴久はまた海岸に近い内城を築き移転しました。

 島津氏が鹿児島鶴丸城に拠点を移したのは、義弘の子家久(忠恒)の代で1604年のことでした。



 調べていくと面白いですね。これほど拠点を移した大名はあまりいないかもしれませんね。それだけ歴史が古いという証明かもしれません。そういえば奥州の伊達家も梁川城(福島県伊達市)→桑折西山→米沢→黒川→岩出山→仙台と移してますもんね。


 この本では、奥州家が薩摩・大隅両国守護職を得たところで終わっていますが、その後の歴史を調べたくなるほど興味を与えてくれました。

2010年7月 1日 (木)

沖田畷の合戦     - 竜造寺一族の興亡・完結編 -

 戦国時代末期の九州、日向・耳川の合戦で脱落した大友宗麟に代わって台頭したのは、宗麟に勝った薩摩の島津義久と、肥前の竜造寺隆信でした。

 九州を賭けた両者の対決は時間の問題でした。最初は肥後に侵入した両軍が菊池川を挟んで睨み合うという事態が発生し、この時は両者兵を引き大事には至りませんでした。


 北九州五ヶ国(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前)と二島(壱岐・対馬)に勢力を拡大しこの時絶頂期にあった竜造寺隆信でしたが、その内情は厳しいものでした。生来の性格である残忍さに配下の諸将の人心は既に離れていたのです。


 前回書いた蒲池一族の謀殺の他にも、ちょっとした理由で人質を殺すという事件が続発していました。隆信のお膝元肥前でも島原半島の領主有馬晴信が謀反します。晴信の妹を隆信の嫡男政家の正室にするという姻戚関係まで結んでいた仲でしたが、大恩ある蒲池一族を滅ぼした隆信の残忍さに嫌気がさしての反逆でした。


 晴信は、隆信と対立する薩摩の島津氏と結びます。島津義久は弟家久に援軍を授け有馬家を助けました。隆信は有馬の小癪な動きに怒りを爆発させ、1584年実に五万七千もの大軍を動員し有馬討伐の軍を発しました。


 一方島津、有馬連合軍は合わせても一万に満たない小勢でした。連合軍の総大将に就任した島津家久は、将兵に決死の覚悟をさせるため乗ってきた船の纜を切ります。そして寡兵をもって大軍を相手にするため島原(森岳)城の北方2キロの湿地帯に狭い街道が走る沖田畷を戦場に選びました。


 竜造寺軍は相手を小勢と侮り遮二無二中央突破を図る作戦に出ます。一応軍を三手に分け山手と浜手にも兵力を分けますが、隆信は中央に布陣しました。


 島津軍は鉄砲隊を道の両側に伏せさせ万全の態勢で待ち構えていたのですが、信じられないことに竜造寺軍は斥候さえ出しておらず、目の前に来るまでこれに気付きませんでした。


 大軍の驕りだったんでしょう。初め竜造寺軍で一番有能な鍋島直茂が中央を担当するはずでしたが、隆信は彼をあえて山手に回し、自分が中央を選んだのです。歴史にIFは禁物ですが、直茂だったらこんな無様な敗戦にはならなかったと思います。

 そういう意味でも隆信の命運は尽きていたのでしょう。沖田畷の狭い道を進んでいた竜造寺軍は、前方に木戸と柵が設けられていることに気付きます。先陣はこれを見て前進を躊躇しますが、後から後から後続が続くため、押し出される形で前に出ました。


 そこを待ち構えていた島津の鉄砲隊が一斉に火を噴きます。大混乱に陥った竜造寺軍はあわてて後退しようとしますが、後ろの道はふさがり、両側は深田になっているため身動き取れない状態で次々と鉄砲の餌食になりました。

 まさに家久の作戦勝ちです。隆信はこの当時太っていたため馬に乗れず、輿に乗って兵士たちに担がせていました。このため逃げることができず、深田に落ちたところを追撃してきた島津勢によってあっけなく討ち取られてしまいます。


 これが梟雄と呼ばれた男の最期でした。時に隆信五十六歳。



 余談ですが、島津勢のなかで最も奮戦したのは赤星統家勢でした。実は統家は元竜造寺方でしたが、ささいなことで疑われ幼い息子と娘の人質を殺され島津に走っていたのです。復讐に燃える赤星勢は獅子奮迅の働きを示したと伝えられます。


 隆信は恐怖政治によって部下を統御しましたが、かえってそれによって自らの死を招くことになりました。



 沖田畷の合戦は、その後の九州の覇権を決定づけた戦いでした。以後島津が独走態勢に入り九州統一する寸前までいきます。



 当主が討たれ、四天王をはじめ有力な武将を多く失って敗北した竜造寺家は、配下の諸将の離反があい続き佐賀周辺を治めるだけの地方勢力に落ちぶれます。それでも滅びなかったのは鍋島直茂の働きでした。


 彼がいなければ、この時竜造寺家は滅びていたかもしれません。しかし以後の歴史は直茂を中心に回ります。竜造寺一族の興亡としては、この戦いによって終焉を迎えたのです。

戦国九州一の美女 『秀の前』の悲劇  - 竜造寺一族の興亡④ -

 佐賀市から久留米に向かう道路の一つ、県道20号線沿いの佐賀と久留米の中間、平野のど真ん中に蓮池公園はあります。かっては肥前国の国人小田氏の城がありました。

 この小田氏は常陸の豪族小田氏の一族で南北朝時代前後に肥前に下ってきた一族だと言われています。


 1562年、時の蓮池城主、小田鎮光(しげみつ)に縁談が持ち上がります。相手は肥前佐賀城主竜造寺家。嫁いできた新妻は一七歳。噂通りの輝くばかりの美しさに鎮光は言葉を失います。

 彼女の名は、お安といいました。のちに秀の前と呼ばれることになります。実は竜造寺家の当主隆信の実の娘ではありません。彼女は本家村中竜造寺の当主胤栄(たねみつ)の一人娘でした。しかし、胤栄が二十四歳の若さで病死すると、一門は竜造寺の家を守るために残された未亡人を分家の水ヶ江竜造寺隆信と結婚させます。

 こうして隆信は宗家を継ぐこととなりました。お安は隆信の養女となり育てられます。時に彼女は三歳でした。


 お安は、成長していくにつれて美しさが際立ってきます。三国一の美女として近隣に噂が鳴り響きました。隆信は彼女を政略結婚の道具にしようとします。佐賀と筑後を結ぶ街道に位置する要衝、蓮池城主の小田鎮光に嫁がせることにしたのです。


 かって小田鎮光は父政光を竜造寺隆信に見殺しにされたという苦い過去がありました。隆信の命令で少弐氏を攻めながら、苦戦しても援軍要請を無視され討ち死していたのです。そのため新妻が来ても初め心を許しませんでした。

 しかし、お安の献身的で優しい性格に触れ次第に心を許していきます。若い夫婦は次第に仲睦まじい生活を送るようになりました。


 お安が鎮光に嫁いで七年がたちました。破局は突然やってきます。隆信は鎮光に多久の梶峰城に移るよう命令しました。実は多久にいる弟、長信に要衝蓮池城を与えたいからでした。


 こんな身勝手な理由が通るはずはありません。お安も必死に義父に嘆願しますが、「女子供の口を出す事ではない!」と一蹴されました。

 小田夫妻は泣く泣く累代の城を捨て、多久に移っていきました。


 1570年、豊後の大友宗麟が六万の大軍をもって竜造寺隆信を攻めるという大事件が起こります。肥前の諸将も続々と大友軍に寝返ります。隆信に不信感を持っていた鎮光も大友軍に加わりました。


 しかし、大方の予想を裏切り、劣勢なはずの竜造寺軍は隆信の義弟、鍋島直茂の活躍によって今山合戦で大友の大軍を打ち破ってしまいます。


 戦後隆信は、自分を裏切って大友に付いた諸将の粛清を始めました。鎮光は一族郎党を引き連れ筑後に亡命しますが、お安だけは殺されることもなかろうと、佐賀に戻しました。


 愛する夫と離れ離れの生活を余儀なくされたお安は、ふさぎがちの日々を送っていました。そんな中、義父の隆信から「そなたの夫、鎮光が詫びるなら許してやってもよい。小田の家も身の立つようにしよう。そなたから夫に手紙を書き、良く言い聞かせるのだ」と言われます。


 いままでこんな優しい言葉を義父から掛けられたことのないお安は、パッと明るい表情になりました。さっそく筑後の夫に手紙を書くと、紛れもない妻の筆跡に喜んだ鎮光は一族を引き連れ佐賀に戻ってきました。


 しかし、愛する妻と再開もままならず隆信の命によって別の屋敷に案内されます。そこに待ち構えていたのは隆信の討手でした。騙されたと知った小田一族は、必死に抵抗しますがまもなく全員が討ち取られてしまいました。


 愛する夫の非業の最期を聞かされ、お安は号泣します。自分が手紙を書いたばかりに騙し討ちにされたのですからなおさらです。以後、お安は心を閉ざし笑わぬ女になりました。

 よく考えてみれば、一度裏切った者を義父隆信が許すはずなかったのです。夫恋しさ余りそんなことにも気付かなかった自分も責めました。



 一度は自害を考えたお安でしたが、周囲に止められます。そんな哀れなお安は、またしても残忍な義父隆信に政略の具にされます。今度は上松浦党の当主、岸岳城主波多三河守鎮(しげし)に嫁ぐよう命じられました。生きる希望を失い人形のように生きていたお安は黙ってこれに従います。


 お安は波多家に嫁いでから秀の前と呼ばれるようになりました。おそらく波多鎮もこのままいけば隆信に謀殺される運命でしたが、隆信自身が沖田畷で討ち死にしたために命は助かりました。

 しかし秀の前の不幸は続きます。豊臣秀吉の九州征伐の折、遅参したかどで領地を取り上げられようとしました。この時は鍋島直茂の必死のとりなしで事なきを得ましたが、「以後波多家は鍋島の陣立てに従うべし」と命ぜられ独立した大名と認められなくなります。


 秀吉の朝鮮出兵の際にも波多軍は鍋島家に属しました。

 
 ここである伝説が生まれます。秀吉は波多鎮の妻、秀の前の美しさを伝え聞き、名護屋に出頭するよう秀の前に命じました。

 夫の留守中です。拒めば御家断絶の可能性さえあります。泣く泣く秀の前は秀吉に拝謁しました。秀吉が自分に好色な目を向ける中、秀の前はお辞儀をするとき、わざと懐剣を畳に落としました。自分に手を出すと自害するという強い意志表示でした。

 しかし、これでかえって秀吉の不興を買い波多家は御取り潰しになったという話です。


 実は、この当時秀の前はどう若く見積もっても四十歳を過ぎており、伝説にすぎないという研究者が多いんですが、五十嵐淳子や由美かおるのように年をとっても妖艶な美しさを失わない女性もいるので、あながち伝説と言い切ることもできないと思います。中国にも夏姫のような例がありますからね。


 公式の歴史では、朝鮮の陣で波多鎮が軍律を破ったかどで秀吉の勘気に触れ、流罪になったとされます。二度目の結婚でようやく平穏な日々をおくっていた秀の前でしたが、不幸はまたしてもやってきたわけです。


 秀の前はこの時責任を感じて自害したという説と、仏門に入って八十歳まで生きたという説があります。墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあるそうです。



 有名なお市の方と通じる運命です。美しすぎるというのは、あまり幸せをもたらさないのかもしれませんね。二人の女性はほぼ同世代だと伝えられます。

蒲池一族の謀殺  - 竜造寺一族の興亡③ -

 蒲池氏は筑後の豪族です。関東御家人宇都宮氏の一族といわれています。上蒲池(立花町山下)と下蒲池(柳川)に分かれそれぞれ十万石前後の所領をもった大領主でした。


 実は、柳川城主蒲池氏は竜造寺氏と切っても切れない縁がありました。縁というより恩義でした。竜造寺一族の祇園原における惨劇のとき、竜造寺家兼を匿ったのは下蒲池鑑盛(あきもり)でした。

 このとき鑑盛は「武士は相身互い」といって喜んで家兼を迎えたばかりか、佐賀復帰戦の際にも三百の援兵を付けて肥前に送り出したくらいです。


 伝えられる鑑盛の人物像は、清廉潔白で節義を重んじる武士の中の武士というものでした。また後継者の隆信が内乱で佐賀城を追われた時にもこれを匿っています。竜造寺家にとっては蒲池氏は足を向けて眠れないほどの恩義を受けていたのです。


 おそらく鑑盛の義侠がなければ、川上・祇園原の変で竜造寺一族は滅んでいたことでしょう。

 鑑盛の嫡男、鎮並(しずなみ)の時代になっても竜造寺・蒲池の関係は良好でした。盟友として隆信の筑後進出の際には道案内までしたくらいです。


 その盟友関係が崩れたのは些細な事件が原因でした。筑後辺春城(へばるじょう、八女郡立花町)を竜造寺軍が攻めたとき、これに従軍していた蒲池鎮並は、所領でごたごたがあって一時陣を抜けて柳川城に帰っていてのです。

 諸将からは非難の声が上がります。軽率と言えば軽率ですが、鎮並は「我が家は特別な存在だ」という甘えがあったのかもしれません。


 隆信は、このことを聞いて不快さを隠しませんでした。彼にとっていくら恩義があるといっても、今は蒲池氏は臣下の立場です。それが勝手気ままをされては家中の統制が保てないという判断もあったのでしょう。


 筑後には旧守護の大友宗麟から調略の手が伸びていましたので隆信の疑心は深まるばかりでした。一方、鎮並も佐賀城に謝罪にいっても殺されるかもしれないという怖れを抱いていました。

 実際、隆信の残忍さは有名で、これまでにも幾人もの功臣を粛清していたからです。このあたり織田信長に謀反した荒木村重と共通する心理だったのかもしれません。猜疑心強い主君には、何も言っても通じず最後は殺されるという恐怖があったのだと思います。

 
 はじめは反逆する意思は無かったはずですが、鎮並は隆信への恐怖が先立ち謀反に心が傾いていきます。大友方からの調略もあったと思います。


 蒲池氏の叛心が明らかになってくると、隆信は1580年、二万の大軍をもって柳川城を囲みました。しかし、柳川城は平城ながら無数のクリークが走り、これが天然の堀となった難攻不落の城でした。攻防三百日、城はびくともしません。


 力攻めでは落ちないことを悟った隆信は、謀略をもって蒲池氏を滅ぼそうとします。偽って和議を結び鎮並と家臣団を引き離して滅ぼそうとしたのです。


 この策、どこかで聞いたことはないですか?そうです。まさに竜造寺一族が主君少弐冬尚に謀られた川上・祇園原の惨劇そのものです。因果は巡る、と言いましょうか?戦国の習いとはいえ、後味の悪い策ではありました。


 まず隆信は、和議の礼に鎮並に佐賀城に登城するよう命じます。鎮並とて戦国の武将です。佐賀に行ったらどうなるかくらいは察していたはずです。しかし、自分が犠牲になることで残された家族の命は助けられるだろうという思いがあったでしょう。

 鎮並は恭順の意を示すために、家族を佐留垣城(柳川市大和町)に避難させていました。


 1581年5月、蒲池鎮並一行三百人は佐賀の地において待ち構えていた討手によってことごとく討ち果たされてしまいます。

 隆信は、間髪入れず柳川攻撃の命を下します。しかし竜造寺四天王の百武賢兼でさえ大恩ある蒲池家を滅ぼすことに反対していました。ばかりか出陣を促す妻に「此度の鎮並ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と涙を浮かべ、ついに最後まで出陣しなかったと伝えられています。


 竜造寺軍は主のいなくなった柳川城を容易に攻め落とします。隆信は諸将の反対を押し切って女子供がいるだけの佐留垣城にまで軍を差し向けました。城攻めは六時間に渡って行われ、蒲池一族老若男女百人全員が虐殺されたそうです。その中には鎮並の正室や幼い子供たちも含まれていました。


 この事件は筑後をはじめ竜造寺領国全体に衝撃を与えました。隆信の残忍さ、酷薄さを改めて思い知らされた豪族たちは竜造寺家に対する忠誠心を失います。いくら広大な領土を誇っていても人心が離れては国を保てません。そしてこれが1584年、肥前島原の領主で竜造寺家とは姻戚関係まで結んでいた有馬晴信の離反につながるのです。


 晴信の離反は、沖田畷の合戦にまで発展し竜造寺存亡の危機を迎えることになりました。百武賢兼の予言はまさに当たったのです。


 それにしても、隆信を後継者に指名した家兼の目は曇っていたのでしょうか?私はそうは思いません。乱世に国を保つにはやはり隆信の勇猛さは必要だったと考えています。ただ、惜しむらくは人の上に立つ者に必要な人心を得る術をあまりにも知らなすぎたのだと思います。


 それまで仏門に入っていた隆信です。人の上に立った経験のない隆信の欠点を、家兼が知るには時間が無さすぎたのでしょう。いわば緊急避難の状況だったのですから…。



 竜造寺一族は川上・祇園原の惨劇で世間の同情を買い、周囲の援助を受けましたが、蒲池一族虐殺によって逆に世間の指弾を受けることになります。それが諸将の離反となって返ってくるのです。


 一族の興亡は紙一重と言いますが、それを歴史上に示したのが竜造寺一族でした。

秀吉も一目置いた竜造寺後家   - 竜造寺一族の興亡② -

 戦国時代の九州には誾(ぎん)という名の女丈夫が二人登場します。一人は立花道雪の娘で養子宗茂の妻となった立花誾千代。そして今回紹介する竜造寺慶誾尼(けいぎんに)です。


 「誾(ぎん)」という言葉は「和らぎ慎む」という意味があるそうですが、彼女たちを見ているととてもそうは思えません(苦笑)。戦になったら薙刀をもって真っ先に飛び出しそうな勢いです(爆)。



 この竜造寺慶誾尼は村中竜造寺胤和(たねかず)の娘として生まれ、分家の水ヶ江竜造寺周家(かねいえ)に嫁ぎます。

 ここで両者の関係を説明しておくと村中家が本家で、康家の嫡男家和から始まります。一方水ヶ江家は弟家兼から始まる家系で佐賀市水ヶ江に館を築いたことからこう称しました。


 家兼は傑物であったことと、長生き(九十三歳)でしたのでいつしか竜造寺一門の指導的立場に立ちます。


 もうひとつ余談ながら、竜造寺は龍造寺じゃないの?って言われる方のために説明しておくと「竜」は「龍」の古字なんです。逆だと思っていたんですが、そうらしいんで私は古い人名のときはなるだけ竜を使うことにしております。悪しからず(笑)。


 なかなか本題に入りませんが(爆)、竜造寺一族を襲った惨劇については前回書きました。滅ぼされたのは主に家兼系統の水ヶ江竜造寺一門でしたが、本家村中家もただで済むはずはありませんでした。

 本家竜造寺胤栄も、主君少弐冬尚によって佐賀を追われています。


 家兼が、佐賀城を奪回し御家再興を果たしたとき後継者を誰にするかで紛糾します。病弱の胤栄はすでに亡くなっていたので、その弟家就と、家兼の曾孫で殺された周家の忘れ形見、仏門に入っていた胤信が候補に挙がりました。

 両者はくじを引いて決めるほどの接戦でしたが、厳しい戦国の世を生き抜いて御家を保つには勇猛な胤信こそふさわしいだろうという家兼の考えもあり胤信が竜造寺一門の総領に決まります。


 まもなくして大黒柱家兼が亡くなり、胤信が一人で竜造寺家を支えなければならなくなりました。夫周家が亡くなったとき三十六歳だった慶誾は、息子胤信を大黒柱にふさわしいよう厳しく育てます。


 いつしか彼女は一族になくてはならない人として尊敬を集めるようになります。そんな中、彼女は竜造寺家を支えるのに何が一番大切か?ということを考え続けます。

 そして、重臣筆頭の鍋島清房こそその鍵だと思い至りました。清房自身も忠誠心厚く武勇に優れた武将でしたが、それにもまして息子の信昌(のちの直茂)は思慮深く知勇兼備の名将になる器を持っていました。


 あるとき彼女は、鍋島清房を城中に呼び寄せます。何事かと訝りながら清房が登城してみると、
「そなたは近頃妻を亡くしたと聞く。わらわが後添いを世話する故楽しみに待っているが良い」と言葉を掛けられました。


 もちろん主筋にあたる慶誾から言われたことですから清房に否応はありません。ただ心の中では面倒くさいな、くらいは思っていたでしょう(笑)。本心は断りたかったでしょうが…。


 数日後清房の屋敷に花嫁行列がやってきます。あわてて出てきた清房は、花嫁の顔を見て再びびっくりしました。なんと花嫁は慶誾その人ではありませんか?


 驚く清房を尻目に、慶誾はすたすたと屋敷の中に入ると居住まいを正します。
「そなたが驚くのは無理もない。しかし考えてもみられよ。今は戦国の世。身内とて信じられぬ世の中じゃ。ここは竜造寺・鍋島が共同して外敵と当たることで御家をまもっていきたい。

 私がそなたと夫婦になることで、信昌殿は胤信の義理の弟になる。両家力を合わせて国を守っていこうではないか」


 びっくり仰天した清房でしたが、これを受け入れます。このとき清房四十五歳、慶誾は四十八歳でした。


 当時の武士社会では主人が家臣の嫁になることは異例であり、一部には軽々しいなどと非難されました。しかし清房は御家を守るという慶誾の情熱に負けたからこそ承知したのだと思います。

 世間ではこれを「佐賀の押しかけ嫁」といってもてはやしましたが、これによって竜造寺・鍋島両家の絆は深まり、肥前・肥後・筑前・筑後・豊前と壱岐・対馬の「五州二島の太守」と呼ばれるまで発展させたのですから絶大な効果があったのでしょう。


 慶誾は息子隆信より長生きし、亡くなったのは慶長五年、九十二歳の長寿でした。一説には豊臣秀吉が竜造寺家を滅ぼさなかったのは、鍋島直茂と慶誾尼の存在があったからだとも言われています。


 徳川家康も、後年「竜造寺後家」の話をよく側近たちに話したそうです。それだけ年をとっても魅力があったのでしょう。あるいは一種の尊敬のまなざしで見られていたのかもしれません。

竜造寺一族祇園原に散る   - 竜造寺一族の興亡① -

 佐賀の名勝に川上峡というところがあります。佐賀平野の中央を流れる嘉瀬川が、脊振山地からちょうど平野に出てくるところ、豊かな水が渓谷を流れる佐賀の「嵐山」とも呼ばれる風光明媚なところです。

 その中の、国道263号線から橋を渡った水辺に淀姫(与止日女)神社があります。実は私、昔佐賀に3年ほど住んだことがありまして写真を見ていつか行ってみたいと思っていたんですが、なかなか機会がなく行けずじまいでした。


 ところが、歴史を調べてみると凄惨な事件が戦国時代に起こった場所だと知って、行かなくてよかったとホッとしてるところです。もし行ったらとても怖がりですから夢に出てきそうです。



 さて本題に入りますが、何で淀姫神社の話をしたかというと竜造寺一族ととても縁が深いからなんです。



 私のブログでも何度か記事にしていますが、戦国時代に佐賀を含む肥前の守護であった少弐氏が、有力な重臣竜造寺家兼が宿敵大内氏と通じたと疑いを持ち、姦計をもって一族全員をだまし討ちにした事件がありました。その舞台の一つがここ淀姫神社だったのです。


 少弐氏最後の当主冬尚は、1544年まず竜造寺一族の力を削ぐため家兼に西松浦、西肥前の敵を討つため出陣を命じます。戦は長引き竜造寺軍は地理不案内な敵地で苦労しますが、冬尚は竜造寺の援軍要請に頑として応じませんでした。一門の多くが討死し、二月の戦いの後ボロボロになって本拠佐賀城に帰陣します。

 家兼は主君から労いの言葉でもあるかと思っていましたが、冬尚のこれに対する答えは二万の大軍で佐賀城を囲むことでした。1545年のことです。

 何が何だか理由が分からない家兼は、孫娘の舅で同じく少弐家の家老であった馬場頼周(よりちか)に仲介を頼みます。頼周は、
「冬尚公は貴方が大内に内通していると大変ご立腹です。ここはひとまず城から出て謹慎されるがよろしい。あとは私がうまくとりなします。」
と返事をよこしました。


 この言葉を信じた家兼は筑後の蒲池氏を頼って落ちていきます。竜造寺一門も二手に分けられ、筑前方面に向かう一行は脊振山地を越えるため川上峡に、もう一方は冬尚に申し開きをするため居城勢福寺城に向かいました。

 しかしこれは馬場頼周の姦計でした。頼周こそ冬尚を唆して竜造寺一門を滅ぼそうとした張本人だったのです。武勇名高い竜造寺一族を攻撃しても被害が増すばかりだと悟ったため、騙し討ちにする算段でした。

 川上峡を越える一行は、家兼の嫡男家純を総大将に三十名あまり。翌日の山越えを控え淀姫神社に野営していました。そこをひたひたと囲む少弐家中の馬場、神代の兵。一行がすっかり寝静まるのを待って襲い掛かります。

 家純が騙し討ちと悟った時は手遅れでした。それでも竜造寺一族は奮戦し暗闇の中で敵を迎え討ちます。しかし多勢に無勢、夜が明ける頃には一族郎党ことごとくが討ち果たされてしまいました。


 一方、家純の嫡男(家兼の嫡孫)周家(かねいえ)はこれも三十余名を連れて勢福寺城に向かっていました。そこへ命からがら川上峡から逃げてきた郎党によって昨夜の惨劇を知ります。


 場所は祇園原(神埼市尾崎)でした。待ち伏せしていた神代、馬場らの兵を見てもはやこれまでと思った周家は
「力の限り戦って我が竜造寺の武勇を見せてやれ。潔くこの場で討ち死にしようぞ!」と叫ぶや敵陣に突撃しました。弟頼純や従兄弟の家泰もこれに続き、両軍の間に激闘が続きました。そして二時間後には竜造寺一族郎党ことごとくが戦死します。時に周家三十六歳でした。


 この惨劇を遠く筑後の地で知った家兼は絶望の淵に追い込まれます。このとき家兼は九十歳を超える老齢でした。少弐冬尚もまさか彼が復讐に立ち上がることもあるまいと高をくくり放置します。


 ところが、翌年家兼は旧臣鍋島氏などの手引きで見事佐賀城を奪回、一族を姦計をもって滅ぼした馬場頼周を討ちます。後事を周家の子で仏門に入っていた胤信(のちの隆信)に託し、ようやく安心したのか九十三歳で大往生を遂げました。




 それにしても、騙し騙されるのは戦国の習いとはいえ主君が功臣をこのような残忍卑劣な手段で滅ぼすのは後味が悪すぎました。斜陽の少弐家を支え続けてきた竜造寺一族ですから尚更です。

 このために人心は離れ、最後は生き残った隆信によって滅ぼされるのですから因果応報でしょう。



 非業の最期を遂げた竜造寺一族の墓は佐賀市高伝寺にひっそりと祀られているそうです。私が佐賀に住んでいるころ近くを何度も通ったんですが、その時はこのことを知りませんでした。もし今後佐賀に行くことがあったら一族のために手を合わせたいと思っています。

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