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2010年7月12日 (月)

『薩摩・大隅守護職』  南北朝期の島津氏

 最近、アマゾンで注文する日本史関係の本は大当たりばかりなのですが、これも良書でした。

 『薩摩・大隅守護職』(西山正徳著 高城出版)という本なんですが、地元鹿児島の出版社、鹿児島在住の作家の作品だけに、地元の研究者でなければ分からない詳しい記述でした。


 一般に南北朝期の九州の歴史は、懐良親王の征西府、足利幕府の九州探題を中心に北九州の記述が大半で、南九州の歴史は日向国大将の畠山直顕、水島陣がらみの島津氏久と今川了俊の対立くらいしか出てきませんでした。


 しかし、この本は南北朝期の薩摩・大隅守護職島津貞久が足利尊氏に味方した経緯から始まり、嫡男、次男の戦死、貞久が三男師久に薩摩守護職を、四男氏久に大隅守護職を与えたことによる総州家(師久の官位上総介から)と奥州家(氏久の官位、陸奥守から)の対立、島津の内紛に乗じて滅ぼそうとした九州探題今川了俊の大軍を氏久が日向の地で撃破した蓑原の合戦、最終的に奥州家が内紛を制し、幕府に薩摩・大隅守護職を認めさせ嫡流となる動きなど、私が知らない歴史を描いており、夢中になって読みました。


 私が驚いたのは、島津氏は初めから鹿児島を根拠地にしていたのではなく、当初薩摩北部の出水市高尾野町江内木ノ牟礼にある木牟礼(このむれ)城に守護所があったという事実です。


 島津氏は鎌倉幕府から薩摩・大隅・日向の守護に任ぜられたものの、南薩摩の反島津武士団の力が強く南部に力を及ぼすことができなかったといいます。その後貞久の代に川内市天辰町碇山の碇山(いかりやま)城に守護所を移したそうです。


 島津氏は、一族を各地の所領に配することで薩摩に浸透を図りますが、そのために勢力が分散され有力庶家の伊集院忠国のように宗家に反発し南朝方につく者もでてきました。


 鹿児島が島津氏の拠点になったのは、貞久が南朝方から東福寺城(鹿児島市出水町、現在の多賀山公園あたり)を奪って四男氏久に与えたことが発端だったそうです。

 東福寺城は島津内紛の間も奥州家氏久に受け継がれ、氏久は大隅守護になってもこの城を手放さなかったといいます。というのもこの城は薩摩のほぼ中央に位置し、大隅や日向に進出するにも都合の良い、いわゆる交通の要衝に位置していたからでした。これがのちの鹿児島市に発展していきます。


 はじめ嫡流であった総州家は師久の子伊久(これひさ)の時代に、その子守久と合戦騒ぎまで起こして対立していたのを、奥州家の氏久の嫡男元久に仲裁されたことを恩に感じ元久に薩摩守護職と島津宗家の家督を譲ったことが没落の始まりでした。

 これでは守久にとってはたまったものではなかったでしょう。おかげで幕府帰順後も薩摩守護職を奥州家に持って行かれ、事実上嫡流なのに庶流扱いされたのですから。


 奥州家は、薩摩・大隅守護職を得たことによりそれまでの拠点志布志から東福寺城に移します。さらに元久は内陸に清水城(鹿児島市清水町)を築き移ります。その後十四代勝久まで清水城が島津氏の本拠でしたが、1550年十五代当主貴久はまた海岸に近い内城を築き移転しました。

 島津氏が鹿児島鶴丸城に拠点を移したのは、義弘の子家久(忠恒)の代で1604年のことでした。



 調べていくと面白いですね。これほど拠点を移した大名はあまりいないかもしれませんね。それだけ歴史が古いという証明かもしれません。そういえば奥州の伊達家も梁川城(福島県伊達市)→桑折西山→米沢→黒川→岩出山→仙台と移してますもんね。


 この本では、奥州家が薩摩・大隅両国守護職を得たところで終わっていますが、その後の歴史を調べたくなるほど興味を与えてくれました。

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