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2010年7月 1日 (木)

竜造寺一族祇園原に散る   - 竜造寺一族の興亡① -

 佐賀の名勝に川上峡というところがあります。佐賀平野の中央を流れる嘉瀬川が、脊振山地からちょうど平野に出てくるところ、豊かな水が渓谷を流れる佐賀の「嵐山」とも呼ばれる風光明媚なところです。

 その中の、国道263号線から橋を渡った水辺に淀姫(与止日女)神社があります。実は私、昔佐賀に3年ほど住んだことがありまして写真を見ていつか行ってみたいと思っていたんですが、なかなか機会がなく行けずじまいでした。


 ところが、歴史を調べてみると凄惨な事件が戦国時代に起こった場所だと知って、行かなくてよかったとホッとしてるところです。もし行ったらとても怖がりですから夢に出てきそうです。



 さて本題に入りますが、何で淀姫神社の話をしたかというと竜造寺一族ととても縁が深いからなんです。



 私のブログでも何度か記事にしていますが、戦国時代に佐賀を含む肥前の守護であった少弐氏が、有力な重臣竜造寺家兼が宿敵大内氏と通じたと疑いを持ち、姦計をもって一族全員をだまし討ちにした事件がありました。その舞台の一つがここ淀姫神社だったのです。


 少弐氏最後の当主冬尚は、1544年まず竜造寺一族の力を削ぐため家兼に西松浦、西肥前の敵を討つため出陣を命じます。戦は長引き竜造寺軍は地理不案内な敵地で苦労しますが、冬尚は竜造寺の援軍要請に頑として応じませんでした。一門の多くが討死し、二月の戦いの後ボロボロになって本拠佐賀城に帰陣します。

 家兼は主君から労いの言葉でもあるかと思っていましたが、冬尚のこれに対する答えは二万の大軍で佐賀城を囲むことでした。1545年のことです。

 何が何だか理由が分からない家兼は、孫娘の舅で同じく少弐家の家老であった馬場頼周(よりちか)に仲介を頼みます。頼周は、
「冬尚公は貴方が大内に内通していると大変ご立腹です。ここはひとまず城から出て謹慎されるがよろしい。あとは私がうまくとりなします。」
と返事をよこしました。


 この言葉を信じた家兼は筑後の蒲池氏を頼って落ちていきます。竜造寺一門も二手に分けられ、筑前方面に向かう一行は脊振山地を越えるため川上峡に、もう一方は冬尚に申し開きをするため居城勢福寺城に向かいました。

 しかしこれは馬場頼周の姦計でした。頼周こそ冬尚を唆して竜造寺一門を滅ぼそうとした張本人だったのです。武勇名高い竜造寺一族を攻撃しても被害が増すばかりだと悟ったため、騙し討ちにする算段でした。

 川上峡を越える一行は、家兼の嫡男家純を総大将に三十名あまり。翌日の山越えを控え淀姫神社に野営していました。そこをひたひたと囲む少弐家中の馬場、神代の兵。一行がすっかり寝静まるのを待って襲い掛かります。

 家純が騙し討ちと悟った時は手遅れでした。それでも竜造寺一族は奮戦し暗闇の中で敵を迎え討ちます。しかし多勢に無勢、夜が明ける頃には一族郎党ことごとくが討ち果たされてしまいました。


 一方、家純の嫡男(家兼の嫡孫)周家(かねいえ)はこれも三十余名を連れて勢福寺城に向かっていました。そこへ命からがら川上峡から逃げてきた郎党によって昨夜の惨劇を知ります。


 場所は祇園原(神埼市尾崎)でした。待ち伏せしていた神代、馬場らの兵を見てもはやこれまでと思った周家は
「力の限り戦って我が竜造寺の武勇を見せてやれ。潔くこの場で討ち死にしようぞ!」と叫ぶや敵陣に突撃しました。弟頼純や従兄弟の家泰もこれに続き、両軍の間に激闘が続きました。そして二時間後には竜造寺一族郎党ことごとくが戦死します。時に周家三十六歳でした。


 この惨劇を遠く筑後の地で知った家兼は絶望の淵に追い込まれます。このとき家兼は九十歳を超える老齢でした。少弐冬尚もまさか彼が復讐に立ち上がることもあるまいと高をくくり放置します。


 ところが、翌年家兼は旧臣鍋島氏などの手引きで見事佐賀城を奪回、一族を姦計をもって滅ぼした馬場頼周を討ちます。後事を周家の子で仏門に入っていた胤信(のちの隆信)に託し、ようやく安心したのか九十三歳で大往生を遂げました。




 それにしても、騙し騙されるのは戦国の習いとはいえ主君が功臣をこのような残忍卑劣な手段で滅ぼすのは後味が悪すぎました。斜陽の少弐家を支え続けてきた竜造寺一族ですから尚更です。

 このために人心は離れ、最後は生き残った隆信によって滅ぼされるのですから因果応報でしょう。



 非業の最期を遂げた竜造寺一族の墓は佐賀市高伝寺にひっそりと祀られているそうです。私が佐賀に住んでいるころ近くを何度も通ったんですが、その時はこのことを知りませんでした。もし今後佐賀に行くことがあったら一族のために手を合わせたいと思っています。

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