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2010年8月

2010年8月19日 (木)

外交ですでに負けていた日本

 最近の私は、日本がなぜ大東亜戦争に突入したかについて考えることが多いです。石井正紀さんの一連の著作「陸軍燃料廠」「石油技術者たちの太平洋戦争」(ともに光人社NF文庫)を読むとアメリカの対日戦略の用意周到さには舌を巻かされます。

 我々日本人には憎っくき限りですが、こういった強かさは今後の日本にとって学ばなければならないでしょう。


 もともとアメリカは、日露戦争後の日本を仮想敵国としオレンジ計画なる対日作戦案を策定していました。年々更新されその最終プランでは石油依存度の高い日本に対しての外交戦略までも視野に入っていたのです。


 戦前の日本の石油対米依存度は80%とされます。日本でもこの事実に危機感を抱く者はおり、蘭印や中東の石油に比重を移そうという動きはたしかにありました。ただ日本政府が本腰を入れて取り組んだとまではいかずアメリカに乗ぜられたのが現実でした。


 まず、アメリカは支那事変で泥沼に陥っている日本に対して1939年「モーラル・エンバーゴ」(道義的禁輸)を発動します。

 これは表向き「正当な理由なくして空中より市民を爆撃し、あるいは機関銃で攻撃する国に対して、高級揮発油の製造に必要な装置、製造権および技術的知識の輸出を道義的に禁止する」という名目で、冬戦争におけるソ連をターゲットにしたものとされましたが、実質的には日本に対するものでした。

 いきなり全面的な禁輸にするのではなくいわばライセンスやソフトの輸出を禁止しただけです。石油に関してはまだまだ輸入できるところがみそでした。


 しかしこれは後々ボディブローのように効いてきます。航空機用ガソリンに必要なオクタン価の高いガソリンの製造が困難になってしまうのです。技術力の低い日本はこのために最後まで100オクタン以上のガソリン製造ができませんでした。


 近代戦の死命を制するのは飛行機だと知るアメリカの深謀遠慮の一つです。


 また、アメリカは日本と蘭印や中東の産油国との石油輸出交渉にも圧力をかけて邪魔します。

 1940年にはハイオクタン航空ガソリンや四エチル鉛(ガソリンのオクタン価を高める)の対日輸出を禁じました。


 アメリカン巧妙なところは、いきなり石油を全面禁輸にしないことでした。日本を生かさず殺さず。ギリギリ支那事変を遂行できるだけの量の石油を与え疲弊するのを待つ、憎らしいまでの作戦です。


 これに日本は次第に追い詰められていきます。1941年の対米交渉など初めから妥結するはずのないものだったのです。アメリカは戦争する気満々だったのですから…。


 1941年8月、アメリカは石油の全面禁輸を通告してきます。真綿で首を締められるように疲弊した日本は1941年12月8日、このまま座して滅びるよりはと対米戦に突入したのでした。


 長期的展望を持った戦略のない日本、対日戦を早くから想定しそのための布石を着々と打ってきたアメリカ、勝負は初めからついていました。



 現在の日本もとても長期的戦略があるとは思えません。大戦前のアメリカのような卑劣なまでの巧妙さを持てと言うつもりはありませんが、すくなくとも外国に乗ぜられない体制を作るべきでしょう。

 明治日本の巧妙な外交と比べて、同じ民族かと疑うような外交の稚拙さ、どうしてここまで日本の政治は劣化したのでしょうか?

液化石炭と松根油

◇ この記事は2009年8月15日にYahoo!ブログ「鳳山雑記帳」に書いた記事の転載です。

 8月15日、終戦の日にふさわしい記事を何にしようかと迷っていたんですが、先の戦争はまさにエネルギー戦争だったということを考えてこれにしました。


 1941年12月8日ABCD包囲網によって戦略物資である石油の輸入を断たれた日本は、南方資源地帯の石油資源を求めて死に物狂いの戦争に突入しました。

 一方、石油の代替燃料として液化石炭の実用化に邁進することとなります。石炭は石油と同様油母(ケロジェン)から生成される炭素の多い高分子物質であり、これを液化したら石油の代替エネルギーとして使えることは分かっていました。

 しかし、液化するための製法にコストがかかりすぎる(天然石油の4~5倍)ことと、その生成のためにレアメタルであるクロム鋼が必要なこともあって諸国はあまり本気で研究しませんでした。

 ドイツでは、戦争になったら石油確保の手段がなくなることや、国内で豊富に石炭が産出することから早くから研究され最終的に年間350万トン(ドイツの石油需要の46%!)もの生産能力を有するようになっていました。

 一方、日本の場合は技術が低いこともありますが研究の遅れは致命傷となります。ある程度の生産には成功(年間20万トン強)したもののとても軍艦や飛行機を動かすまでの量は生産できませんでした。



 戦争末期になると、日本陸海軍は松根油という代替燃料に注目します。松根油というと戦史に詳しい人には粗悪燃料としてイメージが定着していますが、「陸軍燃料廠」(光人社NF文庫)などを読むとそうでもなかったみたいです。

 松の根や樹皮を釜で乾留して粗油を得、さらに粗油を蒸留すれば揮発性の高い精油が採取できることは早くから知られていた技術でした。今で言うバイオエタノールの一種でしょうか。

 その精油を高温高圧化で接触水素添加すればオクタン価の高い航空ガソリンが得られることは理論上可能でした。これも燃料戦略の進んでいたドイツではすでに実用化していた技術だったのです。


 しかし日本の場合、研究着手があまりにも遅すぎました。本格的な松根油計画が動き出したのが昭和19年、国民を総動員して松根を集め、粗油にするための乾溜釜三万七千が完成したのは終戦2か月前でした。

 全体でどれくらい生産されたのかは分かりませんが、徳山の第三海軍燃料廠での生産数が、終戦までにわずか500リットルでしたから他は推して知るべしでしょう。

 しかも研究が遅れドイツほどの精製能力がなかったためオクタン価が低く故障の原因になることもしばしばでした。


 こうしてみてくると、陸海軍の戦略性の無さには目を覆うばかりです。日本が資源小国であることははっきり分かっていたのですから、それに対する備えがなければなりません。

 ドイツは早くから燃料対策に着手し備えをしていたわけですが、どうも日本が備えていたとはとても思えないのです。石油備蓄を戦争に備えて大量に確保したという事実もありませんし、戦前の早くから代替燃料の実用化に努力したという形跡もありません。すべてが行き詰ってから泥縄式に着手したものばかりでした。


 一方、敵であるアメリカは日本の死命を制するのは石油だと喝破し経済制裁で石油禁輸を実行するのはもちろん、戦争に突入してもエネルギー施設を中心に爆撃計画を練るなど用意周到でした。

 アメリカの巧妙なところは、石油禁輸と同時にオクタン価の高い航空機用ガソリンを作るための技術や部品の日本への流出も禁止し、日本がアメリカ以外の石油を確保するのを防ぐためオランダや中東の産油国に圧力をかけて輸出させないようにしていたくらいですから、戦う前から勝負あったと見るべきでしょう。


 日本の危機管理能力の無さには目を覆うしかありません。すくなくとも明治の日本には危機管理能力が余りあるほどありました。それが何故ここまで落ちぶれるのでしょうか?とても同じ民族とは思えません。

 そしてその負の遺産は戦後日本にも連綿として(嬉しくないですが…)受け継がれています。食料自給率の問題もエネルギー確保の問題も戦前と全く変わっていません。

 日本国民全体が変わるしかないのでしょうか?口の悪い人は、日本民族は近代戦には不向きだなどと酷評していますが、そう言わせないためにも政治家を選ぶ我々自身が意識改革をするしかありません。

 官僚組織がすでに腐っている以上、政治によって変えさせるしかないでしょう。いまだに民主党を支持している8割の愚民ではなく、目覚めた人間による日本改革の動き、そして世論作り、私はこれが無い限り日本は早晩滅ぶとの危機意識を持っています。

島津氏発祥の地はどこか?

 鎌倉時代から江戸時代まで続き、その時代ごとに有力大名として生き残った一族はあまりいません。東の代表が常陸→出羽の佐竹氏(伊達氏は鎌倉時代の動向があやしいので…)なら、西の代表は何といっても薩摩島津氏でしょう。


 ところで島津氏発祥の地として宮崎県都城市と鹿児島県出水市の二つの有力な説があるのをご存じですか?数年前に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」で発祥の地を出水市だと紹介したところ都城市からクレームが出たくらいでした。


 調べていくと、どうも荘園としての島津荘と鎌倉御家人としての島津氏のどちらを取るかで解釈が分かれているみたいです。


 荘園としての島津荘は
『平安時代~鎌倉時代初期にかけて南九州にあった大荘園。摂関家領。日本最大の大荘園。万寿3年(1026年)に大宰大監の平季基が開発し、関白の藤原頼通に寄進。』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 最盛期は8000町歩(2400万坪=79 338 843 m2 )で、薩摩国においてはその半分近くを占める日本最大の大荘園でした。


 島津荘は西国道の島津駅(宮崎県都城市)を中心に開発されたので、荘園の発祥の地は都城で間違いないと言えます。


 しかし、御家人島津氏の発祥の地となるととたんにややこしくなります。惟宗忠久が源頼朝から島津荘下司職、後に総地頭職を賜って荘園の名前を取って島津氏と称したことから都城を島津氏発祥の地とする説も分かるんですが、島津氏が守護所を鹿児島県出水市の木牟礼(このむれ)城に置いたことから、この地を発祥の地とする説も肯けるんです。


 その前に、島津氏は惟宗氏だからその本貫の地讃岐国香川郡とも言えるし惟宗氏は秦始皇帝の子孫を称したから中国大陸とも言えます(爆)。まあここまで来ると伝説の世界ですが…(苦笑)。


 さらに、島津氏初代忠久は薩摩には下向せず代官を派遣して荘園を支配しましたから島津氏発祥の地は鎌倉とも言えます。島津氏の血統が鎌倉で発祥したという意味で。

 島津氏が薩摩に下向したのは四代忠宗からで、元寇後の異国警護番役で幕府の命で下向したのが最初でしたから、彼を薩摩島津氏としての初代と見ると出水市木牟礼城説が有力になります。


 結論はまあ難しいんですが、私は守護所のあった鹿児島県出水市説を取りたいですね(笑)。

人柱伝説と福島正則

 戦国ものの小説、ドラマ、映画などで武勇はあるが酒癖が悪く粗暴で、おまけに阿呆と散々な描かれ方をされる福島正則。確かにそのような一面があったのも事実ですが、ちょっと彼の名誉回復になるようなネタを見つけたんでご紹介します。


 先日読んだ「日本の城 恐怖伝説」(楠戸義昭著 祥伝社)に載っていたんですが、福島正則が関ヶ原の功で安芸・備後四十九万石(今の広島県)を賜り広島城に入ったときのこと。

 領内を視察した正則は、城下を流れる太田川がしばしば大水害を起こすため大改修に着手します。ところが太田川は名うての暴れ川、工事は難航しせっかく築いた堤防も強い水流ですぐ壊れてしまいます。


 いらつく正則でしたが、あるときこれを見かねた地元の古老が「これは太田川の水神様が怒っていらっしゃる。美しい乙女を人柱となし神様にささげなされ。さすれば堤防は完成するじゃろう。」と助言します。


 老人の勧めるとおり人柱にしたのならただの愚将です。しかし正則はたかが工事くらいで人の命を奪うことの愚かさを思い、これを取り上げませんでした。


 正則がどうしたかというと、かわりに秘蔵の名剣八振を川に沈め人柱の代わりとしました。すると驚くことに嘘のように工事は順調に進み見事堤防は完成したそうです。



 どうですか?少しは正則を見直したんじゃないですか?



 広島といえばもう一つ。毛利元就の伝説もあります。こちらも居城吉田郡山城の改修工事の時の話です。人柱として巡礼の少女が選ばれたそうですが、元就も正則と同様、人の命をいたずらに奪う人柱を嫌います。代わりに、彼が家訓としている「百万一心」を刻んだ石を人柱の代役とし、見事工事を完成させています。


 最後に明智光秀も。彼も丹波亀山城を築く時、人柱を嫌い石垣の内側に石仏を埋め込んでその代わりとしました。よく安土城などの石垣を見るとお地蔵さんや墓石などを石垣の石としてる場面に出くわします。従来は石が不足してるためにそこら中から集めたのだと言われていましたが、光秀のエピソードを考えると何らかの呪術的意味があったのかもしれませんね。


 人柱伝説は、有名な城にはありがちですが、ほとんどは伝説にすぎません。ただいくつかは例外があり本物の人柱にされたであろう人骨が見つかった例もあるそうです。


 どんなに有名な武将でも、これでは嫌いになってしまいますよね。福島正則のほうがよっぽど好感持てますよ。彼はアホですが、私は彼のほうが好きです。

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