飛騨国司姉小路一族
伊勢北畠家、土佐一条家とともに三国司と並び称される飛騨姉小路氏。藤原北家左大臣忠平の子、師尹を祖とするれっきとした貴族で代々飛騨国の国司を務め同国を支配してきた珍しいケースです。
このようなケースはほかに例がなく、おそらく飛騨が山国で石高も2万石(4万石説もあり)というほとんど米のとれない地域だったことも理由の一つでしょう。
イメージではずっと飛騨に籠っていたように思えますが、調べてみると鎌倉時代は摂家将軍に付いて鎌倉に下向し幕府に出仕していたそうですから、ただの貴族でなくリアルな権力感覚を持った半ば武士化した一族だったように思えます。
朝廷と幕府の絶妙なバランスの上に立っていたからこそ飛騨支配ができたのでしょう。
ところが南北朝の動乱、室町時代に入るとやや陰りが見え始めます。飛騨国に守護として幕府の有力大名京極氏が入ってくるのです。初代飛騨守護として京極高氏(佐々木道誉)の名があり歴代守護はすべて京極氏が占めています。飛騨に京極氏の勢力が浸透していったのは間違いないと思います。
南北朝合一後も飛騨の動乱は続きました。
姉小路氏自体が、嫡流の小島姉小路、古川、向の三氏に分かれ争います。
応永十二年(1405年)ころには、京都に住んでいた嫡流小島姉小路師言に対し、飛騨国司に任じられていた古川姉小路尹綱は自家が飛騨で全権を握りたく宗家に反逆しかえって幕府の討伐を受けるという事件まで発生します。
この飛騨争乱は、最終的に幕府の命令を受けた京極高数(飛騨守護京極高光の弟)が自家の北近江、出雲、隠岐の兵と越前・信濃の援軍を合わせて5千の兵を動かしてようやく鎮圧しました。
以後姉小路氏はふるわなくなり、飛騨では守護京極氏の勢力が強くなります。文明三年(1471年)には京極氏の先鋒三木氏が姉小路領に侵入し一合戦が起こっています。この時は隣国美濃の斎藤妙椿の仲裁で何とかおさまったそうですが、飛騨は姉小路一族が内紛を続けていくうちに次第に守護京極氏の支配下におかれました。
しかし中央で応仁の乱が勃発すると、その余波は飛騨にも及びます。京極氏の飛騨支配もしだいに衰え、台頭してきたのは守護代多賀氏のさらに被官にすぎない国人、三木氏でした。
この三木氏は出自が定かでありませんが、一応京極氏の一族といわれています。三木氏は次第に飛騨国内で群を抜く勢力に成長していきました。
三木氏が飛騨で覇権を確立したのは良頼(良綱)の代だと思われます。内部分裂で没落した姉小路氏にかわって永禄元年(1558年)姉小路氏の名跡を継ぎ家格を簒奪します。従五位下飛騨守に叙任され名実共に飛騨の支配者になりました。
姉小路一族はその後どうなったのでしょう?国司家であった古川姉小路氏は三木氏に乗っ取られ、嫡流の小島姉小路氏だけが一地方勢力として細々と続きます。しかし最後は金森長近の飛騨侵攻の際に居城の小島城を落とされ滅亡しました。その後の行方はようとして知れないそうです。
一方、姉小路氏を乗っ取った三木氏ですが、戦国の荒波にもまれます。国内の江馬氏など有力国人の反抗に悩まされ、それを武田氏や上杉氏に利用され飛騨は収拾がつかない状態に陥りました。
三木氏は生き残りを賭けて新興勢力織田氏に属します。良頼の子、自綱(よりつな)は織田家の後援を受け悲願の飛騨統一に向けて邁進しました。
しかしようやく飛騨統一をはたしたのは本能寺の変の翌年、天正十一年(1583年)でした。
ここで三木自綱は致命的なミスを犯します。信長の死後覇権を確立した羽柴秀吉と対立する佐々成政と同盟を結んでしまったのです。秀吉の器量を見誤ったとしか思えないのですが、このために秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受けることになります。
天正十三年(1585年)八月、二千とも四千ともいわれるこの国では見られない大軍が飛騨に侵入しました。歴戦の金森軍は、田舎合戦しか経験した事のない三木軍を文字通り鎧袖一触し、城を次々と落とします。
自綱は広瀬城に籠城しますが、陥落。なぜか命だけは助けられ京都に送られそこで没したそうです。三木一族は自綱の子、秀綱を中心に最後の拠点松倉城に籠ります。しかし激戦の末落城、秀綱は城を脱出して当時秀吉と敵対していた徳川家康を頼ろうと梓川を下っていた時、土民に襲われあえない最期を遂げました。
ここに三木氏も滅亡します。その後自綱の子と称する三木近綱というものが徳川家に仕えて500石を拝領したといいますが定かでありません。子孫は旗本として続いたそうです。
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