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2010年9月

2010年9月19日 (日)

飛騨国司姉小路一族

 伊勢北畠家、土佐一条家とともに三国司と並び称される飛騨姉小路氏。藤原北家左大臣忠平の子、師尹を祖とするれっきとした貴族で代々飛騨国の国司を務め同国を支配してきた珍しいケースです。

 このようなケースはほかに例がなく、おそらく飛騨が山国で石高も2万石(4万石説もあり)というほとんど米のとれない地域だったことも理由の一つでしょう。


 イメージではずっと飛騨に籠っていたように思えますが、調べてみると鎌倉時代は摂家将軍に付いて鎌倉に下向し幕府に出仕していたそうですから、ただの貴族でなくリアルな権力感覚を持った半ば武士化した一族だったように思えます。

 朝廷と幕府の絶妙なバランスの上に立っていたからこそ飛騨支配ができたのでしょう。


 ところが南北朝の動乱、室町時代に入るとやや陰りが見え始めます。飛騨国に守護として幕府の有力大名京極氏が入ってくるのです。初代飛騨守護として京極高氏(佐々木道誉)の名があり歴代守護はすべて京極氏が占めています。飛騨に京極氏の勢力が浸透していったのは間違いないと思います。

 南北朝合一後も飛騨の動乱は続きました。

 姉小路氏自体が、嫡流の小島姉小路、古川、向の三氏に分かれ争います。


 応永十二年(1405年)ころには、京都に住んでいた嫡流小島姉小路師言に対し、飛騨国司に任じられていた古川姉小路尹綱は自家が飛騨で全権を握りたく宗家に反逆しかえって幕府の討伐を受けるという事件まで発生します。

 この飛騨争乱は、最終的に幕府の命令を受けた京極高数(飛騨守護京極高光の弟)が自家の北近江、出雲、隠岐の兵と越前・信濃の援軍を合わせて5千の兵を動かしてようやく鎮圧しました。


 以後姉小路氏はふるわなくなり、飛騨では守護京極氏の勢力が強くなります。文明三年(1471年)には京極氏の先鋒三木氏が姉小路領に侵入し一合戦が起こっています。この時は隣国美濃の斎藤妙椿の仲裁で何とかおさまったそうですが、飛騨は姉小路一族が内紛を続けていくうちに次第に守護京極氏の支配下におかれました。

 しかし中央で応仁の乱が勃発すると、その余波は飛騨にも及びます。京極氏の飛騨支配もしだいに衰え、台頭してきたのは守護代多賀氏のさらに被官にすぎない国人、三木氏でした。


 この三木氏は出自が定かでありませんが、一応京極氏の一族といわれています。三木氏は次第に飛騨国内で群を抜く勢力に成長していきました。


 三木氏が飛騨で覇権を確立したのは良頼(良綱)の代だと思われます。内部分裂で没落した姉小路氏にかわって永禄元年(1558年)姉小路氏の名跡を継ぎ家格を簒奪します。従五位下飛騨守に叙任され名実共に飛騨の支配者になりました。


 姉小路一族はその後どうなったのでしょう?国司家であった古川姉小路氏は三木氏に乗っ取られ、嫡流の小島姉小路氏だけが一地方勢力として細々と続きます。しかし最後は金森長近の飛騨侵攻の際に居城の小島城を落とされ滅亡しました。その後の行方はようとして知れないそうです。


 一方、姉小路氏を乗っ取った三木氏ですが、戦国の荒波にもまれます。国内の江馬氏など有力国人の反抗に悩まされ、それを武田氏や上杉氏に利用され飛騨は収拾がつかない状態に陥りました。

 三木氏は生き残りを賭けて新興勢力織田氏に属します。良頼の子、自綱(よりつな)は織田家の後援を受け悲願の飛騨統一に向けて邁進しました。


 しかしようやく飛騨統一をはたしたのは本能寺の変の翌年、天正十一年(1583年)でした。


 ここで三木自綱は致命的なミスを犯します。信長の死後覇権を確立した羽柴秀吉と対立する佐々成政と同盟を結んでしまったのです。秀吉の器量を見誤ったとしか思えないのですが、このために秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受けることになります。

 天正十三年(1585年)八月、二千とも四千ともいわれるこの国では見られない大軍が飛騨に侵入しました。歴戦の金森軍は、田舎合戦しか経験した事のない三木軍を文字通り鎧袖一触し、城を次々と落とします。


 自綱は広瀬城に籠城しますが、陥落。なぜか命だけは助けられ京都に送られそこで没したそうです。三木一族は自綱の子、秀綱を中心に最後の拠点松倉城に籠ります。しかし激戦の末落城、秀綱は城を脱出して当時秀吉と敵対していた徳川家康を頼ろうと梓川を下っていた時、土民に襲われあえない最期を遂げました。

 ここに三木氏も滅亡します。その後自綱の子と称する三木近綱というものが徳川家に仕えて500石を拝領したといいますが定かでありません。子孫は旗本として続いたそうです。

京極佐々木氏   佐々木道誉の子孫たち

 南北朝時代、強烈な個性で時代を駆け抜けた婆沙羅大名佐々木道誉(高氏)。独特の美意識と既成の権威にとらわれない破天荒な生き方で太平記でも特に深く印象に残っています。

 しかし、その子孫は彼のようには目立った活躍をせずひっそりと歴史に埋もれた生き方をしたように思います。イメージでは六角佐々木氏が道誉の子孫っぽいですが(苦笑)、実際は地味な方の京極氏が子孫でした。


 京極氏は、近江源氏佐々木氏から興ります。鎌倉初期の近江守護佐々木信綱には四人の子供がいました。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信(この系統から朽木氏が出た)は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となります。

 そして四男の氏信が京極氏の祖です。生母は時の執権北条義時の娘。そのためかどうかは知りませんが父信綱が死ぬと江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を受け継ぎ、京の京極高辻に屋敷があったことから京極氏と呼ばれます。


 ただ家督は兄泰綱が継ぎ近江守護にもなりますので、京極氏の家系は潜在的に宗家の六角氏に不満を持ち続けたように思います。石高も織豊期の数字では江北が20万石前後、江南が50万石余りと経済的にも大差がついていました。

 氏信から数えて四代後が佐々木高氏です。のち出家して道誉と号するので以後この名前で呼びます。道誉は早くから足利尊氏と通じ、武家方の有力武士として南北朝時代を戦い抜きます。


 その功績から幕府の重要な役職侍所の所司(長官)に就任できる四職(他は赤松、山名、一色)の一角になれる家系にのし上がりました。


 ただ、足利幕府も近江源氏佐々木氏の嫡流である六角氏を粗略にはできず、近江の守護は南北に分割され道誉が得たのはもともとの所領である北半分だけでした。他に得たのは飛騨、出雲などですが、実質的に飛騨国は国司姉小路氏の勢力圏でしたので浸透できず、出雲だけが新たに得た永続的な新領土といえました。


 幕府内での地位こそ得ましたが、嫡流六角氏と違って実力を得たとは言い難いのが京極氏です。六角氏が九代将軍義尚の討伐を退け実質的に敗死に追い込んだほどの力はついに持つことはできませんでした。

 戦国期に入ると、頼みの綱ともいうべき出雲は守護代尼子氏(これも佐々木一族)に奪われ、本国北近江も室町守護大名家にお決まりの家督相続をめぐる一族の争いで衰え、その一方を支援した国人領主浅井亮政に事実上乗っ取られてしまいます。

 京極氏は、浅井氏の傀儡、名目上の北近江守護として細々と続きますが、転機は浅井氏の滅亡でした。京極高吉の子、高次は織田家に仕えることとなります。

 家格ではなく実力がものをいう戦国時代において、頼りなくはあるものの高次はそこそこの戦功をあげて生き残ります。一時は本能寺の変で明智方に付くという失敗はありましたが、姉(松の丸殿)が豊臣秀吉の側室になったことから運が上向き始めます。正室にも淀殿の妹お初(常高院)を迎えいわば閨閥で出世したような形となりました。


 高次は九州攻めの功により近江高島郡に一万石を与えられ、念願の大名に復帰します。一時は没落し滅亡の危機にあったのですから本人も感慨無量だったでしょう。


 天正18年(1590年)小田原攻めの功により八幡山城二万八千石、翌年には、従五位下侍従に叙せられます。文禄4年(1595年)には大津六万石へと加増、左近衛少将から翌年には従三位参議に任じられます。


 家格的にはやっと先祖の京極氏に戻ったと言えるでしょう。官位はそれ以上か?


 実力ではなく、閨閥で出世した高次を世間の人は蛍大名と揶揄しましたが関ヶ原の合戦時には困難な大津籠城戦を戦い抜いて、最後は降伏するものの武門としての意地を見せました。

 戦後は、この功により若狭一国八万五千石に加増転封され以後京極氏は紆余曲折はあったものの讃岐丸亀藩六万石→五万一千石として幕末まで続きます。


 一度滅亡した守護大名家から近世大名家として再興した数少ない例の一つでした。

斯波家長のこと

 斯波氏関連三本目の記事です。思い起こせば同じ一族で三本以上記事を書いたのは甲斐武田、肥前竜造寺に続いて三回目。それだけ思い入れが強いということかもしれません。


 斯波家長(1321年~1338年)は、南北朝時代の武将で将軍家に匹敵する家格とも言われた足利一族の重鎮、斯波(足利)高経の長子です。前の記事で庶長子と書いたのですが、どうもこの当時は家長が嫡子であった可能性が高いと分かり修正しました。

 といいますのも斯波宗家(武衛家)の家督を高経の四男義将(1350年~1410年)が継いでいたためです。生年を考えると高経16歳の時の子が家長、晩年の子が義将であきらかに異母兄弟です。


 おそらく家長が早死にしなければ、彼が武衛家の家督を継いだ可能性が高いと考えます。


 それにしても家長は、わずか17歳で死んでいます。現代ではまだ高校生といってもいい生涯を短くも激しく生きたのが彼でした。


 南北朝争乱時、宮方が1333年北畠顕家を鎮守府将軍として奥州に下向させると、その対抗手段として足利方でも誰かを奥州へ派遣しなければいけなくなりました。


 その条件は、足利一族であること、そして奥州との繋がりのある者でした。白羽の矢が立ったのはもともと奥州斯波郡を本貫の地とする斯波氏の一門で、当主高経の嫡男、家長でした。時に1335年、わずか15歳の少年でした。顕家が下向したのが16歳、家長が15歳、これを戦国の世の習いと見るのか悲劇と見るのか?


 ともかく少年たちは、自分に与えられた役割を果たすために必死で戦い続けました。15歳の少年は奥州管領(のちに奥州探題に発展)という重職に任ぜられます。もちろん一人だけではなくこれを補佐する宿老たちが多く付けられたことは想像に難くありません。


 家長は、若年ながら足利一族の名門斯波氏の御曹司ということでそれなりの権威を発揮したそうです。近隣の武士団がこぞって味方についたそうですからこの時代の血の高貴さは絶大な力を発揮しました。


 同じく北畠顕家も多賀城(宮城県)を中心に宮方を纏め大きな勢力となります。1335年足利尊氏が鎌倉から上洛すると奥州で兵を挙げた顕家は伊達、南部などの有力武士団を率いてこれを追撃、京都を奪還し尊氏を九州に追い落とします。


 一方、少し遅れて家長も足利方の兵を率いて顕家軍を追いますが、間に合わず家長は鎌倉に止まる決断をします。鎌倉には尊氏の嫡男義詮がおり、これを奉じて東国を纏める必要があったためです。

 ただこの決断はのちに悲劇へとつながりました。


 九州で勢力を盛り返した尊氏は再び上洛の軍を起こし湊川で宮方の主力を撃破します。この前に北畠顕家は、再び東国で盛り返してきた足利方を抑えるため奥州へ戻っていました。


 家長は、奥州とともに関東も所管とする鎌倉府執事(のちの関東管領)となります。陸奥守にも任じられ実質的な東国における足利方の旗頭となったのです。


 家長率いる足利方は、宮方を圧迫しついには多賀城から顕家を追い出すことに成功します。顕家は南陸奥(現福島県)の霊山(りょうぜん)にこもって抵抗しました。

 そこへ吉野の南朝から再び上洛命令がきます。顕家も奥州における勢力拡大を諦め、ほぼ全軍を挙げて上洛の途につきました。1338年のことです。

 初めは小勢の北畠軍でしたが、一度は足利尊氏を破っているという武功から付き従う武士が数多くいました。太平記ではそれが十万騎になったといいますが、もとよりこれは誇張でしょう。それでも数万の大軍に膨れ上がったのは間違いないと思います。


 北畠軍の最初の目標は鎌倉でした。尊氏の嫡子義詮と東国における反宮方の司令塔ともいうべき家長を放置しておくのは危険だったからです。前回で懲りていた顕家は本格的に鎌倉攻略を目指し南下します。



 このとき鎌倉には上杉、桃井などの軍もいました。家長はこれら足利方の軍勢を率い出陣します。利根川の線で防ごうと激しく戦いますが、やはり軍事的才能は顕家の方が上だったのでしょう。敗北した足利方は鎌倉に退き杉本城に籠城します。


 おそらくこのとき、家長は義詮や他の足利方を逃がし、斯波氏の手勢だけで籠ったようです。鎌倉に入った北畠軍は杉本城を激しく攻撃します。戦いは3日間続けられますが多勢に無勢、家長は最後まで付き従った郎党とともに自刃して果てます。わずか17歳の生涯でした。



 家長の子孫は本拠地陸奥斯波郡に戻り高水寺城に拠って土着します。一説では若年で死んだ家長の実子ではなく養子が後を継いだとも言われていますが、家長自身、高経の16歳の時の子供なので実子という線も捨てきれません。現在の感覚で考えるといけないのでしょう。


 志和御所と尊崇され室町時代を通じて陸奥中央部に君臨しますが、最後は南部氏に滅ぼされます。ちなみに北畠顕家の子孫も浪岡御所として奥州に残りますから歴史は面白いのです。


 どちらも嫡男の子孫でありながら家督は弟の家系(武衛家、伊勢国司北畠氏)に持って行かれ傍系扱い、最後は南部氏、津軽氏に滅ぼされるという共通点を持ちます。


 家長と顕家はあの世からどんな目で見ていたのでしょう?感慨深いものがあります。これが歴史の魅力なのかもしれませんね。

「志和御所斯波氏」と「高水寺斯波氏」の関係の謎

 私は一度記事を書くとその関連事項が非常に気になりだす悪い癖を持ちます(苦笑)。


 斯波氏嫡流の尾張斯波(足利)氏=武衛家を記事に書いたので、その分家の奥州斯波氏について書きます。といっても奥州探題として有名な大崎氏やその分家の最上氏ではなく、よりマイナーな岩手県紫波(斯波)郡紫波町にあった高水城を中心に志和(斯波)郡および岩手郡の一部を領した超マイナー勢力高水寺斯波氏についてです。


 この高水寺斯波氏に関しては諸説あって、斯波高経の長子、陸奥守家長が奥州総大将(のちの奥州管領。奥州探題に発展)に任じられ下向したのが始まりとされますが、一方家長の叔父(高経の弟)家兼から始まる奥州探題家大崎氏の六代教兼の子、大崎(斯波)詮高を初代とするという説もあります。


 武家家伝奥州斯波氏系図では、一応斯波(志和)御所家と高水寺斯波氏を分けて書いていますがどちらも同じ斯波郡にあり、おそらく高水寺城を本拠にしたはずでとても混乱してしまいます。


 その前に詮高(あきたか)自身本当の親が大崎教兼なのか、それとも斯波御所詮重なのかはっきりしないのです。


 前者なら斯波御所と高水寺斯波氏並立説、後者なら高水寺斯波氏大崎氏出自説が証明されるのですが真相は分かりません。私はどうも並立説は現実的でないような気がします。狭い斯波郡内を一族がひしめきあっているのはどうにも納得できません。


 かといって系図が残っているので家長系斯波氏が存在しなかったと考えるも早計です。ある説では、もともと斯波御所家は存在していたが、後継男子がいなくなったので同族の大崎氏から養子を貰った、あるいは後継ぎが娘だったので、大崎氏から婿養子を取ったというのがありますが、案外これが真相に近いのかもしれません。(誰か岩手の郷土史に詳しい方、ご教授ください!)


 
 ちなみに高水寺斯波氏は、室町時代を通じて斯波御所として近隣諸豪族の尊崇を受けましたが、下剋上の戦国時代に入ると、隣国三戸南部氏の侵略を受けて天正十六年(1588年)夏滅ぼされてしまいます。

 高水寺斯波氏最後の当主、詮直(詮元あるいは詮基か?)は遊興にふけり人心が離れていたため、南部信直はその内紛に乗じる形で簡単に征服できたそうです。


 なお 『参考諸家系図』『奥南落穂集』等に、斯波孫三郎詮基(あきもと)が南部利直に仕えて五百石を賜わり、大坂の役に出陣したとあるそうですが、これが詮直(詮元)本人かそれとも一族の誰かかは不明です。


 武家家伝奥州斯波氏に

【「落穂集」の斯波家の次第に、没落後のこととして「天正十六年信直公御出陣、岩手衆、先駆けとなり、高清水城を囲む、志和方多く降り、防戦のすべも尽きて、夜に乗じて孫三郎詮元逃走、残兵散々になり、討死義死二十三人に過ぎず、それより孫三郎秀重の所に潜み、慶長五年に利直公に仕え五百石を賜り、詮直と改む。十九年大坂従兵となり、旧臣下に立つことを恥じて、御暇を願い、京都に止まり浪人となる、其の男孫三郎は二条殿下に仕え、斯波左部少輔詮種と名乗り、諸大夫の列に入るという」と記している。】

という一節があるので詮元=詮直は間違いないみたいですね。詮基との関係は調べても分かりませんでした。武家家伝の系図を信用すると詮基の子が詮種なので同一人物らしいとは思いますが…。



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 謎を解明するなどと偉そうなことを言い出しながら、このようなぐたぐたの結論で申し訳ございません(汗)。誰か郷土史に詳しい方の情報をお待ちします。こんなマイナーな記事見てないか?(爆)

2010年9月 2日 (木)

吉良・今川伝説

 最近、室町時代に興味が湧いています(笑)。

 突然ですが皆さんはこのような伝説を聞いたことはないですか?

 「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」

 
 よく戦国ものの小説に書かれているんで、昔は私も素直に信じていました。ところが調べてみると吉良氏は確かに足利一族ですが、それほど家格が高いとも言えないような気がします。


 まあ細川、畠山から見ればより足利嫡流家に近いのかもしれませんが、それをいうなら南北朝時代まで足利氏(尾張足利氏)を称していた斯波氏の方がはるかに家格が高いのです。むしろ斯波氏が将軍位に就いても誰も文句が言えないほどです。


 しかしもし吉良氏が将軍位を継いだとしてどこからもクレームが出ないかといえば、そうとも言えません。まず斯波氏が黙っていないでしょう。加えて吉良氏よりより嫡流に近い一色、渋川(家格は別として)などから文句が出るはずです。さらにそれを言い出すなら、足利将軍家の一族である鎌倉公方がキレるでしょう。


 吉良氏はたしかに足利家の第二の故郷とも言うべき三河に所領を持っていますがおそらく一度も三河守護にさえなったことがありません。ウィキペディアから歴代三河守護を拾ってみると

鎌倉幕府
1194年~1199年 - 安達盛長
1221年~1252年 - 足利義氏
?~1331年 - 足利貞経?
室町幕府
1337年~? - 高師兼
1341年~1342年 - 高南宗継
1345年~1351年 - 高師兼
1351年~1360年 - 仁木義長
1360年~1373年 - 新田義高
1379年~1388年 - 一色範光
1388年~1406年 - 一色詮範
1406年~1409年 - 一色満範
1415年~1440年 - 一色義貫
1440年~1449年 - 細川持常
1449年~1478年 - 細川成之

ご覧の通りです。吉良貞経が一回だけなってますね。


 吉良氏は、一時奥州探題になっただけで幕府で要職を占めたとも言えないのです。まあ、家格が高すぎて(徳川幕府の御三家のように)、将軍の家来にすぎない幕府の官職に就くわけにはいけないと強弁できないことはありませんが。


 ただこれも吉良氏の分家の今川家が駿河・遠江の守護を歴任し一族の今川了俊が九州探題として一時絶大な権勢を誇ったことから否定されます(苦笑)。


 鎌倉末~南北朝時代の吉良氏歴代当主によっぽど傑物がいなかったのか、あまり足利尊氏に協力的でなかったのかどちらかでしょう。


 ではなぜ上記のような伝説が生まれたかですが、カギは吉良氏ではなく分家の今川氏にあったのではないかと私は想像します。


 三河の一地方領主に落ちぶれた吉良氏とは違い駿河・遠江に強固な地盤を築いた今川氏は、もともと南北朝の争乱でも足利宗家に付き従い一族の多くが討ち死にするなど幕府成立に大きな貢献をしています。

 また歴代当主が有能で、幕府との関係(特に三管領家のうち細川家)が良好でした。今川義元の時代に三河を抑え、天下を狙える位置に立った時、大義名分として自己を正当化させるためにあえて流させた噂だったのかもしれません。

 もともとそのような噂があったとしてもです。幕府に何の権限もない吉良氏がどんなに主張したところで世間は「世に容れられない不平貴族が何かほざいているな」くらいにしか見てなかったはずです。


 もし本当に家格が足利将軍家に匹敵する斯波氏あたりが言いだしたら洒落にならなかったに違いありません。吉良氏がそう称したからこそ無害だったのでしょう。


 それが今川義元が本当に天下を狙える実力を持った時、冗談が冗談でなくなったのだと思います。


 皆さんはどう思われますか?

斯波氏  足利家嫡流を取り逃がした一族

 中世日本史に興味のない方にはどうでもよい話ですが、足利一門の中で斯波氏だけが別格、というか嫡流と同等とさえ意識しているふしがありました。


 それは足利幕府成立の際、将軍を補佐する重要な役職である管領就任を、時の斯波氏の当主である斯波高経が断り続け、息子の義将の就任さえ渋々認めた事でも分かります。

 高経の断った理由が「将軍家の家来に当たる管領に我が斯波家の者が就任するわけにはいかない」というものでしたから、そのプライドの高さは異例でした。


 実は斯波氏というのは陸奥斯波郡に領地を持っていたことから名乗ったもので、鎌倉~南北朝時代は足利氏と称していました。他の足利一門(細川、畠山など)が早くから領地の名前で呼ばれていたことから考えると、まさに別格とも言うべき家格でした。


 調べていくと斯波氏初代の家氏と、その弟で足利氏嫡流を継いだ頼氏(尊氏の曾祖父)との関係に秘密があったように思います。

 もともと足利家氏は、泰氏の長子で母は北条一門名越朝時(北条義時の次男)の娘。嫡男として後を継ぐものとされていました。


 ところが母が早世し、父泰氏が後妻を迎えた事から悲劇が起こります。後妻が北条得宗家の三代執権泰時の長男時氏(早世したため執権にはなっていない)の娘だったためです。


 足利氏としては鎌倉幕府の最高権力者である北条得宗家に遠慮しなければいけませんでした。時氏の娘に子供が生まれると、これを嫡男とし家氏を廃嫡することとなったのです。


 このとき生まれたのが頼氏です。こういう経緯があったため、もともと足利氏の嫡流は自分だったという意識が斯波氏代々の当主にあったのかもしれません。


 もちろん、廃嫡されたとはいえ北条氏もこのような経緯を知っているので斯波氏を粗略には扱いませんでした。家氏も正室には得宗家北条時頼(五代執権)の姪を与え中務大輔、検非違使、御鞠奉行など朝廷の官職さえ加えて優遇しました。

 斯波氏は代々尾張守を名乗ったため尾張足利氏とも呼ばれます。また、代々兵衛督または兵衛佐に任じられたため武衛家ともいわれています。


 北条得宗家も家氏の系統を別格の足利氏として処遇し、嫡流足利氏と区別していたようです。そのような歴史から斯波高経の異例とも言うべきプライドの高さは理解できる気がします。


 
 斯波氏が南北朝の争乱時、足利嫡流家と袂を分かたずに良かったと思います。新田・足利の争いのように同族であるがための憎悪が生じてもおかしくない間柄でした。



 代々の斯波氏当主が賢明であったのか、時代の流れから足利氏に付いていた方が得策と読んだのか?


 ともかく斯波氏は細川・畠山と並んで三管領家の一つとなったほか、本拠の尾張・越前・遠江のほか一時は若狭、越中、能登、信濃の守護にもなったほどでした。さらには本貫の地とも言うべき奥州にも探題として一族が赴任します。ちなみに奥州探題斯波氏はのちに領地の名を取って大崎氏と名乗りました。さらにその分家で羽州探題となった家が最上氏です。


 しかし斯波氏嫡流は応仁の乱の時の家督争いで衰え、尾張に逼塞した後最後は織田信長に追放され滅亡します。大崎氏も豊臣秀吉に従わなかったために滅ぼされ、唯一最上氏だけが徳川幕府成立の際出羽山形57万石の大大名として生き残りますが、これも義光の孫義俊の代に最上騒動で改易されました。


 ただ斯波氏嫡流の武衛家が早く滅んでいたため、名門の断絶を惜しまれ義俊は近江国に一万石の知行を改めて与えられました。その後子の義智の代に五千石に減知され、子孫は旗本交代寄合として存続したそうです。

西洋銃砲と幕末諸藩

 幕末を描いた小説、ドラマ、映画を見るとガトリング砲とかアームストロング砲などが良く出てきます。しかもそれら新式銃砲の使い手は主に薩長土肥を中心とする西国雄藩、幕府歩兵隊などが主で、それら以外の諸藩は旧式の火縄銃と昔ながらの甲冑を着て戦していたようなイメージがあります。


 実際調べてみると北陸・東北諸藩でもさすがに火縄銃が時代遅れだということは分かっていました。しかし多くの藩では西洋の情報に詳しい者がいないため火縄銃(マッチロック式マスケット銃)の発火装置をフリントロック(燧石)式に変えただけのゲベール銃を西洋の最新式銃だと有難がって採用しただけでした。


 ようは旧式武器の在庫一掃を企む西洋の武器商人に騙されたわけですが、西国雄藩はさすがにしっかりしていました。おそらく自藩の抱える蘭学者、洋式医者、留学生などから情報を得ていたのでしょう。


 ゲベールと同様先込め式でありながら銃身にライフリングを施したミニエー銃や、先進的な元込め式のスナイドル銃を採用できたのは情報に関する感度が深かったためと言えます。

 その中でも佐賀藩などは当時最新式の野砲だったアームストロング砲を買ったばかりか、自藩でも製造するくらい進んでいました。もっとも工作機械などの関係でオリジナルよりは能力は劣ったそうですが…。


 東国の諸藩の中では越後長岡藩の河井継之助だけが違っていました。おそらく生来の探究心、好奇心があったのでしょう。長崎に遊学して知識に触れたのかもしれません。聡明な性質でもあった彼は、当時日本で数門しかなかったガトリング砲を二門も購入しています。武器商人ははじめ幕府にこれを売りつけようとしました。しかし幕府があまりに高価なのを嫌って断ったという経緯がありました。

 河井はこれに目をつけ藩の美術品など財産を売り払って作った金でこれを購入します。また同時にフランス製の最新式小銃(シャスポー銃か?)も2000挺購入しています。


 長岡藩が小藩ながら薩長に頑強に抵抗できたのは、河井継之助が作り上げた西洋式軍隊があったからでした。


 私は基本的に勤皇贔屓なのですが、もし幕府に危機感と情報に対する感度があったらガトリング砲を購入していたでしょう。長岡藩ができたんですから幕府ができないはずありません。金が足りなかったらそれこそ徳川埋蔵金を掘り起こしてでも買うべきでした。


 もともと西洋式軍隊を最盛期には六千人も持っていたんですから、知らなかったでは済まされませんよ。お金をケチったんでしょうな。


 すでに幕府の体質そのものが腐り、滅びの道をまっしぐらだったんでしょう。



 薩長と幕府方の勝敗の差は、西洋に近く、砲火も交え(薩英戦争、馬関戦争)危機感を持っていた者と三百年の太平にのほほんとしていた者の差だと思います。

道鏡伝説と肥後弓削神社

 熊本市の北東、菊陽町との境に弓削(ゆげ)という土地があります。私は菊陽町に友達の家があり、遊びに行くたびに通るので気になっていました。


 弓削というからには弓削道鏡と何か関係あるんだろうか?と。


 【弓削道鏡】…道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。天智天皇の皇子である施基皇子の子とする異説もある。祈祷の力をもって王家に取り入って権力を握り、政治に容喙したことから、よく帝政ロシア末期の怪僧グリゴリー・ラスプーチンと対比される。(ウィキペディアより)



 ただ弓削氏は物部一族とも言われ河内(大阪府南東部)が本拠地とされます。道鏡自身も肥後とは何の関係もなさそうです。没したのも下野(栃木県ごめんねごめんね~♪)だし。


 ふと思い立って調べてみると、弓削という地名は弓削神社に由来しているらしいということは分かりました。しかも神社そのものが

『熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」との俗話がある。』

と、どうも道鏡と所縁ありそうなんです。



 どうしてそんな俗説ができたのか私なりに推理したんですが皆目分かりません。肥後国司に道鏡所縁の弓削氏がなったことがあるのかと思い調べてみましたが、肥後守には弓削氏らしき人物は見当たりませんでした。もちろん介以下で可能性はありますが、ここまでくると素人では調べようがありません。


 私なりに想像をたくましくすると、道鏡本人ではなくその一族が道鏡事件に連座させられて肥後に流されていたのではないかと考えます。


 流人としてこの地で没した弓削一族の者を土地の人が哀れに思って祀ったのが、案外真相に近いのでしょう。

 そういえば熊本には小野の小町に関係がある小野泉水公園もあります。これも小町本人ではなくて小野氏の一族が罪を得て流されてきたのでしょう。日本中にある有名人の伝説は、流人か落ち武者が元ネタなんでしょうかね?平家の落ち人なんてそのものズバリだし…。

 もし領地があって下向したのなら南北朝~戦国時代に名前が出てくるはずですから。(例 日野氏 肥後南関領主。土地の名前を取って大津山氏と称した)


 皆さんの周りにも、不思議な伝説が残っているかもしれませんよ。そういえば大分県耶馬渓の近くに後藤又兵衛の墓があったな?今度調べてみよう!

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