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2010年9月 2日 (木)

斯波氏  足利家嫡流を取り逃がした一族

 中世日本史に興味のない方にはどうでもよい話ですが、足利一門の中で斯波氏だけが別格、というか嫡流と同等とさえ意識しているふしがありました。


 それは足利幕府成立の際、将軍を補佐する重要な役職である管領就任を、時の斯波氏の当主である斯波高経が断り続け、息子の義将の就任さえ渋々認めた事でも分かります。

 高経の断った理由が「将軍家の家来に当たる管領に我が斯波家の者が就任するわけにはいかない」というものでしたから、そのプライドの高さは異例でした。


 実は斯波氏というのは陸奥斯波郡に領地を持っていたことから名乗ったもので、鎌倉~南北朝時代は足利氏と称していました。他の足利一門(細川、畠山など)が早くから領地の名前で呼ばれていたことから考えると、まさに別格とも言うべき家格でした。


 調べていくと斯波氏初代の家氏と、その弟で足利氏嫡流を継いだ頼氏(尊氏の曾祖父)との関係に秘密があったように思います。

 もともと足利家氏は、泰氏の長子で母は北条一門名越朝時(北条義時の次男)の娘。嫡男として後を継ぐものとされていました。


 ところが母が早世し、父泰氏が後妻を迎えた事から悲劇が起こります。後妻が北条得宗家の三代執権泰時の長男時氏(早世したため執権にはなっていない)の娘だったためです。


 足利氏としては鎌倉幕府の最高権力者である北条得宗家に遠慮しなければいけませんでした。時氏の娘に子供が生まれると、これを嫡男とし家氏を廃嫡することとなったのです。


 このとき生まれたのが頼氏です。こういう経緯があったため、もともと足利氏の嫡流は自分だったという意識が斯波氏代々の当主にあったのかもしれません。


 もちろん、廃嫡されたとはいえ北条氏もこのような経緯を知っているので斯波氏を粗略には扱いませんでした。家氏も正室には得宗家北条時頼(五代執権)の姪を与え中務大輔、検非違使、御鞠奉行など朝廷の官職さえ加えて優遇しました。

 斯波氏は代々尾張守を名乗ったため尾張足利氏とも呼ばれます。また、代々兵衛督または兵衛佐に任じられたため武衛家ともいわれています。


 北条得宗家も家氏の系統を別格の足利氏として処遇し、嫡流足利氏と区別していたようです。そのような歴史から斯波高経の異例とも言うべきプライドの高さは理解できる気がします。


 
 斯波氏が南北朝の争乱時、足利嫡流家と袂を分かたずに良かったと思います。新田・足利の争いのように同族であるがための憎悪が生じてもおかしくない間柄でした。



 代々の斯波氏当主が賢明であったのか、時代の流れから足利氏に付いていた方が得策と読んだのか?


 ともかく斯波氏は細川・畠山と並んで三管領家の一つとなったほか、本拠の尾張・越前・遠江のほか一時は若狭、越中、能登、信濃の守護にもなったほどでした。さらには本貫の地とも言うべき奥州にも探題として一族が赴任します。ちなみに奥州探題斯波氏はのちに領地の名を取って大崎氏と名乗りました。さらにその分家で羽州探題となった家が最上氏です。


 しかし斯波氏嫡流は応仁の乱の時の家督争いで衰え、尾張に逼塞した後最後は織田信長に追放され滅亡します。大崎氏も豊臣秀吉に従わなかったために滅ぼされ、唯一最上氏だけが徳川幕府成立の際出羽山形57万石の大大名として生き残りますが、これも義光の孫義俊の代に最上騒動で改易されました。


 ただ斯波氏嫡流の武衛家が早く滅んでいたため、名門の断絶を惜しまれ義俊は近江国に一万石の知行を改めて与えられました。その後子の義智の代に五千石に減知され、子孫は旗本交代寄合として存続したそうです。

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