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2010年10月

2010年10月 5日 (火)

尼子氏と鉄交易

 戦国時代、周防の大内氏と中国地方の覇権を争った尼子氏。最盛期には中国八か国に勢威を振い石高も百万石を軽く超えていたといいます。

 しかしよく良く調べてみると、直轄領として数えられるのは本拠の出雲の他は伯耆、美作くらいであとは国人領主を支配下に置いたか、酷いのになると一部に尼子方がいるくらいでとても一国支配とは言えないケース(石見、安芸など)もあるくらいです。

 一応信頼できるデーターとして寛永期の検地高を見てみると出雲22万石、伯耆13万石、美作22万石で合計58万石(隠岐は島国でほとんのど米がとれない)と大した事ないのです。


 これでは直轄領だけで周防、長門(計30万石)と安芸(26万石)の大半、石見半国(13万石、ただし石見銀山保有)、豊前、筑前の大半(計60万石は下らない)の130万石弱を保有する上に、勘合貿易(日明貿易)で巨額な収益を上げていた大内氏と対抗するのはかなり難しいと言えます。


 石高だけでは到底太刀打ちできない尼子氏が、力を入れていたのは山陰第一の良港美保関を通しての鉄貿易でした。


 よく知られているように中国地方山間部は、踏鞴(たたら)製鉄の一大産地です。尼子氏はこの鉄利権を一手に握り、美保関を通じて朝鮮や明に輸出していたそうです。

 どれほど経済規模があったかというと、明船への唐物役(関税)だけで年5000貫あったと言われています。これは応仁期(1467年~1468年)の数字ですから、戦国時代にはその何倍にも達していたでしょう。

 また戦国時代に入って、海賊が横行していた瀬戸内海を嫌って明や朝鮮の船の山陰地方への寄港が増えていた事もあげられます。


 どれくらい瀬戸内海の海賊被害が凄かったかというと、周防の大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際、安全のために兵糧米を日本海航路で若狭から陸揚げし京に運んでいた事でも証明されます。


 そういえば出雲守護京極氏と守護代尼子氏の不和も美保関公用銭(上納金)徴収利権を巡っての争いが原因の一つですから、尼子氏にとって美保関は最重要拠点であり生命線だったといえるでしょう。


 総額では美保関での鉄交易はかなりの額になったと思いますが、それでも大内氏の支配する石見大森銀山の奪取にこだわったのは、経済的にまだまだ大内氏に及ばなかったからでしょう。

 これも後に記事にするつもりですが、勘合貿易は明への朝貢貿易なので遣明船1隻の純益が1万貫(一説では2万8千貫)を下らなかったそうですから、3隻派遣するとして最低でも純益3万貫という巨額なものでした。滞在費・運搬費などもすべて明側の負担だったそうですから、これほどぼろ儲けの商売はありません。

 
 勘合貿易の権益を巡って大内氏と細川氏が寧波(ニンポー)で合戦騒ぎを起こした事でもそれは想像できます。



 尼子氏と大内氏の争いは別の見方をすれば博多・瀬戸内交易圏と山陰交易圏の争いだったと言えるかもしれません。

織田家と津島港(湊)

 前の記事のレス(注:Yahoo!ブログの方)で織田信長の経済を支えていたのは津島港を通じた荏胡麻油の専売、交易による莫大な収益である事を書きました。

 調べてみるとこれは信長の祖父、信定の時代から権益を獲得していたようです。


 もともと津島は津島神社の門前町として栄え、木曽川に水運で繋がっている(当時の海岸線は大きく後退しており船で津島までいけた)ところから木曽川の水運、伊勢湾から太平洋岸にまたがる一大交易センターでした。

 南朝の後裔と伝えられる四家七名字(大橋・岡本・山川・恒川・堀田・平野・服部・真野・鈴木・河村・光賀)の有力者たちによって組織された「惣」によって一種の自治都市を形成していました。


 しかし戦乱の時代になるにつれその自治都市としての津島の存在は危うくなっていきます。当初は信長の祖父である信定とも幾度か戦っているようです。


 津島の有力者たちは戦乱の時代に都市を守り抜くために保護者を見つけなければいけなくなりました。大橋家が中心になって選ばれたのは、尾張下四郡守護代織田大和守家(清州織田家)の三奉行の一人にすぎない織田弾正忠家の信定でした。ちなみに上四郡守護代は織田伊勢守家(岩倉織田家)です。


 大橋氏がなぜ信定を選んだのか謎ですが、尾張第一級の利け者の噂があった事は理由の一つでしょう。織田氏自体が、越前の織田剣神社の神官出身ということもあったかもしれません。



 といいますのも津島港の有力交易品である荏胡麻油は、神社勢力が権益を一手に握っていたと言われていたからです。その代表は京の大山崎神社の大山崎油座ですが、津島でも油座が存在し、それを保護する用心棒の役割を信定に期待したのだと思います。

 また津島は尾張の物産の集積センターだったという理由から、灰(当時は肥料になった)の交易でも有名でした。灰(木材、もちろん油も)の交易を通じて信定は川並衆(川筋衆)や美濃の長井氏とも繋がりを持ったといいますから、交易の利とともに情報も集められる有利な立場になりました。


 保護・被保護の関係は時がたつにつれ織田信定の支配力強化に移り変わりました。油座からの運上金、港の関税は莫大な金額になったと思います。


 信定とその子信秀はこの財力を背景にして尾張国内に勢力を拡大しました。信定は津島衆の有力者大橋氏に娘を嫁がせ、津島の支配に都合のよい勝幡に城を築いて最初の根拠地にします。その前に最初は津島そのものに館を築いていたとも言われています。


 実は織田弾正忠家は信定以前が諸説ありはっきりしません。織田の庶流であることは間違いないのですが、信定は実力でのし上がった織田弾正忠家中興の祖だと言えます。


 尾張の物流を一手に握る事によってまず尾張西部の中島郡・海西郡に勢力を拡大します。信定は天文年間(1532年~1554年)に隠居し家督を嫡子信秀に譲りました。


 信秀は、尾張下四郡守護織田大和守家の三奉行の一人という低い身分ながら、尾張随一とも言える財力を背景に尾張の旗頭として一国を動かすようになっていきます。



 ここで疑問なのは織田弾正忠家の財力がどれくらいだったかという事です。インターネットで調べても分かりませんでした。そのために一度は記事にするのを断念したくらいです。間接的には伊勢神宮修理費700貫、朝廷へ禁裏修理費4000貫を献上したという記録があるので裕福だったのは分かりますが…。


 一晩考えて、軍事力から類推できないかと考えたわけです。


 信秀の後を継いだ信長最初の危機桶狭間の合戦時の動員兵力と、信秀最盛期の動員兵力の差を見ればそれが分かるのではないかと閃きました!


 信長家督相続時、さすがに安祥城など三河領は失いましたが、尾張国内ではそれほど領土を減らした訳ではありません。桶狭間の合戦時、信長が外征兵力として緊急動員したのは2千人。これが基礎にならないだろうかと考えました。


 なぜなら、織田家滅亡の危機ですからいくら財力があっても傭兵は集まりませんし(命あっての物種だから)、中立勢力も強大な今川義元に睨まれるのが嫌なので援軍など送るはずもありません。

 とすればこの時の兵力は、織田弾正忠家が自分の領内から集めた兵全部のはずです。


 一方織田信秀が尾張の旗頭として動かした兵力は、自家の兵のほかに銭で集めた傭兵、銭の力で味方につけた中立勢力の兵力だったはずです。もちろん脅して集めた兵力もあったでしょうが…。


 調べてみると、第二次小豆坂の合戦(1548年、今川義元と三河での戦い)で4千という資料があります。ところが困ったことに第一次(1542年)の時の兵力が不明なんです。

 私は第二次の時の敗因は単純に兵力不足(今川軍は1万以上)だと思いますから、勝利した第一次合戦時には少なくとも5千は動員していたはずです。


 また斎藤道三によって追放された前美濃守護土岐頼芸を奉じて、北近江浅井氏などと語らって始めた美濃侵攻作戦時の信秀の兵力が7千(9千という説もあり)と言われていますから、だいたい7千くらいまでなら自由に動かせたと仮定しましょう。


 7千-2千=5千が銭の力で集めることができた兵力とは考えられませんか?もし5千とするとだいたい10万石で3千ですから16万石くらいの交易収入があったと考えられます。確実な資料で4千としても2千ですから7万石弱。驚くべき数字です。


 これなら信秀、信長の台頭も納得できますね。織田家は尾張の流通の死命を制する津島を得た時から、その台頭が約束されていたのかもしれません。


 皆さんは、いかが思われますか?

織田・上杉経済戦争

 前の記事で越後上杉家は青苧(あおそ)その他の交易で莫大な富を得、それをもとに戦国期を生き抜いたという事を書きました。

 謙信の晩年、本国越後のほかに上野半国、越中、能登、加賀を版図に収めざっと150万石の身代になっていた上杉氏。しかし謙信死後景勝が後を継ぐと織田信長の攻勢を受けあっという間に加賀・能登を失い越中も大半を奪われる始末。

 本能寺の変がなければ、越中口、信濃口、上野口の三方から織田軍に攻め込まれ滅亡していたと思います。


 景勝に謙信ほどの器量がなかったと言ってしまえばそれまでですが、それにしても領国瓦解のスピードが速すぎるように思います。

 甲斐武田のように長篠(設楽ヶ原)の合戦のような決戦に敗れて押し切られたというのなら理解できますが、そのような大合戦もなくひたすら城に籠ってそれを各個撃破されていったような印象です。

 まあ景勝家督相続の際の御館の乱で国内がガタガタになっていたのは確かでしょうが、私が想像するにもう一つの理由があったように思えるのです。


 ここからは全くの私の想像で、資料的裏付けがないのでマジレスしないように(笑)。まあ明らかな間違いの時は指摘いただければ修正しますが…。



 私は上杉王国崩壊のスピードが速まったのは、織田家との経済戦争に負けたのではないかと考えています。上杉謙信も交易に力を入れましたが、信長の経済感覚は当時の戦国大名で群を抜いていました。


 信長が足利義昭を奉じて上洛した時、義昭が「功により副将軍の地位を与えよう」というのを断り、「堺・大津・草津を賜りたい」と申し出ている事でもそれは分かります。

 実態のない副将軍より、交通の要衝でここを押さえれば畿内の流通を制することのできる商業拠点を望んだのは信長の経済感覚の鋭さを示しているエピソードだと思います。


 もともと尾張は商業の先進地域でした。農本主義ではなく流通を押さえることで富を得ることができる事を発見した先代信秀の薫陶を受けた彼は、経済の本質を知っていたのかもしれません。


 具体的に信長はどう行動したのか?これは資料がないのであくまで想像なのですが、直接戦えば強敵である上杉軍団を締め上げるには、経済的に追い詰めるしかないと考えていたと思います。


 当時信長は京を中心に日本の3分の1以上を押さえていました。経済圏からいえば半分以上でしょう。上杉の死命を制するには、その経済の根幹である青苧貿易を制限すれば良い。都合のよい事に販路の中心は京都です。


 港の関税に重税を掛け、さらには織田支配下の港に入港禁止をすればどうなります?当時の航海術では越後から織田支配圏の港に一度も寄港せずに遠くへ行く事はかなり難しかったのではないですか?


 これができたのは、青苧からできる越後縮が塩のような生活必需品ではなく贅沢品だったことがあげられます。それに越後縮がなくとも他があるはずです。薩摩上布はさすがになかったかもしれませんが、織田支配下の生産地の保護・育成という目的もあったでしょう。

 保護貿易と上杉を経済的に追い詰める一石二鳥の策を信長はとったのだと思います。



 これを間接的に裏付ける証拠として、信長死後にはなりますが謙信時代には見向きもしなかった出羽庄内地方に景勝の代に積極的に進出している事です。このために庄内地方をほぼ手中に抑えていた最上義光は、上杉軍に叩き出され深い恨みを残しました。庄内地方は2~30万石ある穀倉地帯でたしかに豊かでしたが、貿易で潤っていた謙信時代には、大義名分もなく侵略するような暴挙はしなかったし、その必要性もなかったのです。


 私は上杉の庄内侵攻は、信長の経済制裁で締めあげられアップアップしていた状況を打開する目的があったと睨んでいます。豊臣政権にはなっていましたが、信長によって築きあげられた体制により青苧貿易は以前ほど旨味のある商売ではなくなっていたのではないでしょうか?秀吉もわざわざ育成した領内の産業を制限してまで越後に以前の権益を戻してやるほど愚かなことはしないでしょうから…。

 とばっちりを受けた最上義光は涙目でしたが(爆)。


 皆さんはいかが思われますか? 

上杉謙信の経済力

 きっかけは飛騨の姉小路氏に関する記事でした。そこから「飛騨は米の生産高は低いけど金山収入はけっこうあるよ」って話に発展して、「だったら当時の金銀山ってどれくらい産出してたの?」という話題になりました。(注:Yahoo!ブログの方)

 そして「越後の上杉謙信は佐渡金山もってたから金山収入けっこうあったよね?」「いや上杉家が佐渡を領有したのは景勝の末期だから、謙信時代には佐渡金山と関係なかった」(←いまココ)

 という展開があっての本記事でございます(爆)。まあブログ記事のわらしべ長者ですな(苦笑)。



 「甲斐の虎」武田信玄と並び称される「越後の龍」上杉謙信。甲州の金山からとれる豊富な黄金によって潤っていた武田家に、上杉家はいったい何を持って対抗していたのか?




 一般のイメージと違い佐渡の金山収入は謙信時代にはありません。金山でないとするともともと越後の石高が高かったのか?調べてみるとそうでもないようです。太閤検地で越後の石高は39万石。

 まあこの太閤検地の資料は私に言わせるとあまり信用できないのですが…(苦笑)。といいますのも九州で一番石高が高いのが豊後の国で41万石もあります。地図で見ると平野が多い筑前、肥前、肥後がそろって30万石台なのに、山がちの豊後がなぜ41万石???


 寛永期の検地では豊後27万石。落ちとるやんけ!(怒)これが実高っぽいですな。しかし越後は39万石で変わらないので一応信用できる数字としましょう。


 そういえばある資料によると戦国時代までの越後は深田が多くて米作りにあまり適していなかったそうです。越後が米どころと呼ばれるようになったのは土地改良が進んだ江戸中期以降だとか。


 とすれば上杉軍団を経済面で支えたのは何だったのか?




 突然ですが、青苧(あおそ)という植物があります。別名カラムシとも呼ばれるのですが、茎の皮から衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため農作物として栽培されました。この青苧を使って作られた織物は、生地が細かく縮むことから縮(ちぢみ)と呼ばれました。

 縮は、裃などの材料として重宝されたため各地で栽培されます。実は越後はこの青苧、そしてそれをもとに生産された越後縮の一大生産地だったのです。


 薩摩上布などと並ぶ上布である越後縮(越後上布)は中世から江戸期にかけて武家や貴族を中心に高級な夏生地としてもてはやされます。


 これに目を付けたのが越後上杉氏でした。青苧や越後縮の生産を奨励し、座を設けて専売制とします。そして直江津、柏崎から日本海交易路を通じて京を中心に全国に出荷しました。青苧交易にどれくらいの収入があったかというと、入港税だけで年4万貫(=約4万両)とされますから驚かされます。


 ある資料では青苧交易は全体で3~40万石の収益があったとされるくらいですが、さすがにこれは誇張がすぎるでしょう。ただ少なくとも10万石、へたしたら15万石くらいの収益はあったように思えます。


 石高が39万石ですから、その4割近い莫大な金銭収入があったわけです。金山がなくともこれなら武田や北条と互角に戦えますよね。さらに蝋や塩の交易でも潤っていましたから、越後上杉家は戦国大名のうちでもかなり裕福な部類に入っていたのでしょう。


 謙信が信玄に塩を贈った美談は、もしかしたら商売のチャンスと見た越後商人に謙信が突き上げを食らった結果だったのかもしれません。謙信ファンには申し訳ないですが…。


 そういえば謙信は義のために戦し、領土をほとんど取っていません。普通ならこのような軍は経済的に破綻するものですが、上杉家にあまりそのような傾向が見えないのは、領土を奪わなくても賄えるだけの経済力を持っていたからかもしれません。


 またまた謙信ファンには申し訳ないですが、いわば金持ちの道楽として戦争をしていたという穿った見方もできます。




 経済面からみた戦国史、面白いですね。次は勘合貿易の大内氏の利益など調べてみましょうかね?(笑)

石見銀山の産出量

 前の記事(注:Yahoo!ブログの方)で飛騨の金山産出量が話題になったので、当時の金銀鉱山の産出量がどのくらいあったか調べてみました。


 といっても産出量がほぼ分かっている島根県の石見大森銀山のケースですが。



 そのまえに石見銀山とは…【石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)であり、大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。】(ウィキペディアより)



 戦国時代ファンなら、周防の大内氏と出雲の尼子氏の激しい争奪戦が起こった銀山として有名ですね(笑)。

 
 当時の日本は世界的にみて銀の大産出国だったらしく、世界の銀採掘量の三分の一は日本だったとのことです。日本全体で200トン、そのうち石見銀山が38トンといいますから凄いです。ちなみに生野銀山で年4.5トンという資料もありますから石見銀山は群を抜いた生産量があったのでしょう。


 で、肝心の38トンの銀がどれくらい価値があったかですが、だいたい10000貫に当たったそうです。1貫文=2石で2万石くらい。あれっ思ったほど高くないですね。

 イメージ的には10万石以上あるようなイメージですが…。ウィキの資料が間違ってるのかな?(汗)


 ただ、米は売却しなければお金に変わりませんが銀はそのまま通用するから実際の貨幣価値はそれ以上だったのでしょう。


 1貫文=1両といいますから、これだと年1万両の収入になりだいぶイメージが湧きます。


 前の記事で話題になった飛騨の金山の総産出量は江戸期資料で3万石程度。戦国時代はどのくらいか分かりませんが、半分としても1万5千石くらいはあったとすると、けっこうな金額になりますね。しかも米と違いそのまま流通できますから。いや飛騨の場合は内ヶ島氏の帰雲城が地震で壊滅した後なんで、それ以前はもっとあったかも?


 戦国武将で領内に金山や銀山を持っていた武将は、石高以上に潤っていたと思います。例えは変ですが不労所得のようなものなので、その金で鉄砲とか買えたんじゃないでしょうか?

 現代で言うならオイルマネーみたいなものでしょうね。


 それにしても戦国時代を経済面から見てみるのもなかなか面白いです!

追伸:

 失礼!後でググったところ、1貫文=2石というのは銅貨の話で、金1両が銀60匁に当たるので銀1万貫は金に換算すると16万6667両(小数点以下四捨五入)になるそうです。銅貨の貨幣価値と銀の重さの単位をごっちゃにしていたんです。本当に恥ずかしい。

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