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2010年10月 5日 (火)

上杉謙信の経済力

 きっかけは飛騨の姉小路氏に関する記事でした。そこから「飛騨は米の生産高は低いけど金山収入はけっこうあるよ」って話に発展して、「だったら当時の金銀山ってどれくらい産出してたの?」という話題になりました。(注:Yahoo!ブログの方)

 そして「越後の上杉謙信は佐渡金山もってたから金山収入けっこうあったよね?」「いや上杉家が佐渡を領有したのは景勝の末期だから、謙信時代には佐渡金山と関係なかった」(←いまココ)

 という展開があっての本記事でございます(爆)。まあブログ記事のわらしべ長者ですな(苦笑)。



 「甲斐の虎」武田信玄と並び称される「越後の龍」上杉謙信。甲州の金山からとれる豊富な黄金によって潤っていた武田家に、上杉家はいったい何を持って対抗していたのか?




 一般のイメージと違い佐渡の金山収入は謙信時代にはありません。金山でないとするともともと越後の石高が高かったのか?調べてみるとそうでもないようです。太閤検地で越後の石高は39万石。

 まあこの太閤検地の資料は私に言わせるとあまり信用できないのですが…(苦笑)。といいますのも九州で一番石高が高いのが豊後の国で41万石もあります。地図で見ると平野が多い筑前、肥前、肥後がそろって30万石台なのに、山がちの豊後がなぜ41万石???


 寛永期の検地では豊後27万石。落ちとるやんけ!(怒)これが実高っぽいですな。しかし越後は39万石で変わらないので一応信用できる数字としましょう。


 そういえばある資料によると戦国時代までの越後は深田が多くて米作りにあまり適していなかったそうです。越後が米どころと呼ばれるようになったのは土地改良が進んだ江戸中期以降だとか。


 とすれば上杉軍団を経済面で支えたのは何だったのか?




 突然ですが、青苧(あおそ)という植物があります。別名カラムシとも呼ばれるのですが、茎の皮から衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため農作物として栽培されました。この青苧を使って作られた織物は、生地が細かく縮むことから縮(ちぢみ)と呼ばれました。

 縮は、裃などの材料として重宝されたため各地で栽培されます。実は越後はこの青苧、そしてそれをもとに生産された越後縮の一大生産地だったのです。


 薩摩上布などと並ぶ上布である越後縮(越後上布)は中世から江戸期にかけて武家や貴族を中心に高級な夏生地としてもてはやされます。


 これに目を付けたのが越後上杉氏でした。青苧や越後縮の生産を奨励し、座を設けて専売制とします。そして直江津、柏崎から日本海交易路を通じて京を中心に全国に出荷しました。青苧交易にどれくらいの収入があったかというと、入港税だけで年4万貫(=約4万両)とされますから驚かされます。


 ある資料では青苧交易は全体で3~40万石の収益があったとされるくらいですが、さすがにこれは誇張がすぎるでしょう。ただ少なくとも10万石、へたしたら15万石くらいの収益はあったように思えます。


 石高が39万石ですから、その4割近い莫大な金銭収入があったわけです。金山がなくともこれなら武田や北条と互角に戦えますよね。さらに蝋や塩の交易でも潤っていましたから、越後上杉家は戦国大名のうちでもかなり裕福な部類に入っていたのでしょう。


 謙信が信玄に塩を贈った美談は、もしかしたら商売のチャンスと見た越後商人に謙信が突き上げを食らった結果だったのかもしれません。謙信ファンには申し訳ないですが…。


 そういえば謙信は義のために戦し、領土をほとんど取っていません。普通ならこのような軍は経済的に破綻するものですが、上杉家にあまりそのような傾向が見えないのは、領土を奪わなくても賄えるだけの経済力を持っていたからかもしれません。


 またまた謙信ファンには申し訳ないですが、いわば金持ちの道楽として戦争をしていたという穿った見方もできます。




 経済面からみた戦国史、面白いですね。次は勘合貿易の大内氏の利益など調べてみましょうかね?(笑)

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コメント

初めまして
通りすがりに見かけたもので補足をいくつか。

上杉は金山持ってました。
もちろん佐渡ではなく、揚北の鳴海(高根)金山です。
奥只見銀山もありますが、開発時期的に上杉の財源になっていたとは考えにくく、これは佐渡同様外していいでしょう。

新潟平野は基本的に泥濘地であり、米どころとして名を馳せるのは江戸期どころか角栄の土地改良とコシヒカリ以降です。
つまり昭和もいいとこ。
ちなみにこんなです。
http://www.jsidre.or.jp/com/hpcheck/rekishi/p110_111/p110_111.htm

また平野=米どころというイメージも今の感覚にすぎず、田への入出水管理の面からある程度の傾斜が必要なのです。
豊前・豊後はこの点で優れているのです。
伊達に豊(とよ)の国と呼ばれたわけではありません。
平野でこれをやろうとすると水路を張り巡らせねばならず、巨大な土木工事が必要になります。
こんなことは巨大な財源と広域行政が行えなければ不可能ですが、戦国期の大大名化と共にこれが可能になりました。
戦国期、戦乱に明け暮れながらも全国的に石高うなぎ上りだった要因ですし、清正公が異常に崇拝されてるのもコレやったから。
国人割拠じゃできませんわな。

瓜実さん、貴重な情報ありがとうございます。佐渡意外に金山があったんですね。とても勉強になりました。なるほど豊後の石高の高さはそういう状況があったからなんですね。

これからも御教示下さいませ。

《豆知識》
#黄金の国、越後
謙信の時代、越後では金・銀が採掘できる山がいくつかあり、
金は、西三川金山(佐渡市真野)と既出の高根(鳴海)金山(村上市・旧朝日村)で、
銀は、上田銀山(南魚沼市)、鶴子銀山(佐渡市佐和田)で採掘されていました。
※後に有名になる佐渡金山は、佐渡市相川という所です。
謙信が死去した後、春日山城の金蔵に残されていた金の調査が行われ、総額は約2万7千両でした。(現在の価値で数億円でした)
#農業と産物産業は、概出の青苧アオソ(麻糸の原料)、米、日本酒、車麩フ、味噌、など。
謙信公は、調停や将軍家を再興して、世の中を平定するという夢を持っていました。
新潟県史などには、多くの記録(書状)などが残っておりますので、機会があれば見て下さい。
手頃なところでは、
#上越市「謙信・兼続」検定 公式テキストブック(新潟日報事業者ヨリ出版,税込千円位)
#米沢市の略歴の案内。「米沢 謙信」でネット検索出来ます。


是非、この機会に知って下さい。
失礼しました。

元領民さん、情報提供ありがとうございます。ご紹介の本には当時の金銀山の産出量、上杉(長尾)氏の歳入など詳しく書かれているのでしょうか?

なかなかそういう資料が載っている本がなくて…。

でしたら購入したいですね(笑)。

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