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2010年10月 5日 (火)

織田家と津島港(湊)

 前の記事のレス(注:Yahoo!ブログの方)で織田信長の経済を支えていたのは津島港を通じた荏胡麻油の専売、交易による莫大な収益である事を書きました。

 調べてみるとこれは信長の祖父、信定の時代から権益を獲得していたようです。


 もともと津島は津島神社の門前町として栄え、木曽川に水運で繋がっている(当時の海岸線は大きく後退しており船で津島までいけた)ところから木曽川の水運、伊勢湾から太平洋岸にまたがる一大交易センターでした。

 南朝の後裔と伝えられる四家七名字(大橋・岡本・山川・恒川・堀田・平野・服部・真野・鈴木・河村・光賀)の有力者たちによって組織された「惣」によって一種の自治都市を形成していました。


 しかし戦乱の時代になるにつれその自治都市としての津島の存在は危うくなっていきます。当初は信長の祖父である信定とも幾度か戦っているようです。


 津島の有力者たちは戦乱の時代に都市を守り抜くために保護者を見つけなければいけなくなりました。大橋家が中心になって選ばれたのは、尾張下四郡守護代織田大和守家(清州織田家)の三奉行の一人にすぎない織田弾正忠家の信定でした。ちなみに上四郡守護代は織田伊勢守家(岩倉織田家)です。


 大橋氏がなぜ信定を選んだのか謎ですが、尾張第一級の利け者の噂があった事は理由の一つでしょう。織田氏自体が、越前の織田剣神社の神官出身ということもあったかもしれません。



 といいますのも津島港の有力交易品である荏胡麻油は、神社勢力が権益を一手に握っていたと言われていたからです。その代表は京の大山崎神社の大山崎油座ですが、津島でも油座が存在し、それを保護する用心棒の役割を信定に期待したのだと思います。

 また津島は尾張の物産の集積センターだったという理由から、灰(当時は肥料になった)の交易でも有名でした。灰(木材、もちろん油も)の交易を通じて信定は川並衆(川筋衆)や美濃の長井氏とも繋がりを持ったといいますから、交易の利とともに情報も集められる有利な立場になりました。


 保護・被保護の関係は時がたつにつれ織田信定の支配力強化に移り変わりました。油座からの運上金、港の関税は莫大な金額になったと思います。


 信定とその子信秀はこの財力を背景にして尾張国内に勢力を拡大しました。信定は津島衆の有力者大橋氏に娘を嫁がせ、津島の支配に都合のよい勝幡に城を築いて最初の根拠地にします。その前に最初は津島そのものに館を築いていたとも言われています。


 実は織田弾正忠家は信定以前が諸説ありはっきりしません。織田の庶流であることは間違いないのですが、信定は実力でのし上がった織田弾正忠家中興の祖だと言えます。


 尾張の物流を一手に握る事によってまず尾張西部の中島郡・海西郡に勢力を拡大します。信定は天文年間(1532年~1554年)に隠居し家督を嫡子信秀に譲りました。


 信秀は、尾張下四郡守護織田大和守家の三奉行の一人という低い身分ながら、尾張随一とも言える財力を背景に尾張の旗頭として一国を動かすようになっていきます。



 ここで疑問なのは織田弾正忠家の財力がどれくらいだったかという事です。インターネットで調べても分かりませんでした。そのために一度は記事にするのを断念したくらいです。間接的には伊勢神宮修理費700貫、朝廷へ禁裏修理費4000貫を献上したという記録があるので裕福だったのは分かりますが…。


 一晩考えて、軍事力から類推できないかと考えたわけです。


 信秀の後を継いだ信長最初の危機桶狭間の合戦時の動員兵力と、信秀最盛期の動員兵力の差を見ればそれが分かるのではないかと閃きました!


 信長家督相続時、さすがに安祥城など三河領は失いましたが、尾張国内ではそれほど領土を減らした訳ではありません。桶狭間の合戦時、信長が外征兵力として緊急動員したのは2千人。これが基礎にならないだろうかと考えました。


 なぜなら、織田家滅亡の危機ですからいくら財力があっても傭兵は集まりませんし(命あっての物種だから)、中立勢力も強大な今川義元に睨まれるのが嫌なので援軍など送るはずもありません。

 とすればこの時の兵力は、織田弾正忠家が自分の領内から集めた兵全部のはずです。


 一方織田信秀が尾張の旗頭として動かした兵力は、自家の兵のほかに銭で集めた傭兵、銭の力で味方につけた中立勢力の兵力だったはずです。もちろん脅して集めた兵力もあったでしょうが…。


 調べてみると、第二次小豆坂の合戦(1548年、今川義元と三河での戦い)で4千という資料があります。ところが困ったことに第一次(1542年)の時の兵力が不明なんです。

 私は第二次の時の敗因は単純に兵力不足(今川軍は1万以上)だと思いますから、勝利した第一次合戦時には少なくとも5千は動員していたはずです。


 また斎藤道三によって追放された前美濃守護土岐頼芸を奉じて、北近江浅井氏などと語らって始めた美濃侵攻作戦時の信秀の兵力が7千(9千という説もあり)と言われていますから、だいたい7千くらいまでなら自由に動かせたと仮定しましょう。


 7千-2千=5千が銭の力で集めることができた兵力とは考えられませんか?もし5千とするとだいたい10万石で3千ですから16万石くらいの交易収入があったと考えられます。確実な資料で4千としても2千ですから7万石弱。驚くべき数字です。


 これなら信秀、信長の台頭も納得できますね。織田家は尾張の流通の死命を制する津島を得た時から、その台頭が約束されていたのかもしれません。


 皆さんは、いかが思われますか?

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コメント

オハツ! 漫画センゴク カラ推察シマスト~ 熱田神官衆ノ人数ガヒント! 五千ハ表部隊 甲賀忍者ガ20人神官側千人グライ! とォモイマス~

オセツさん、コメントありがとうございます。言葉は意味不明ですが(苦笑)何を言わんとするかは推察できますよ。

まじレスすると、津島神官勢力は南朝の流れをくむところから、乱波素波の類を配下に組み入れていたはず。その情報力を織田弾正忠家は上手く利用していたということでしょう。

森部城主 河村久五郎が津島禰宜出身と迄判明したのですが其の以前は判らないでしょうか?又森部城主河村久五郎の子孫の行方は現在何処に住んで居るのでしょうか?冥土の土産に是非知りたく失礼と存知ましたがコメント欄にしたためました。お判るかりの範囲を是非教えて頂きたくおねがいいたします。   87歳ルビ婆の独り言

87歳ルビ婆の独り言様、はじめまして。河村氏が津島南朝十五党の一家で早くから(信定の時代?)から織田家に仕え久五郎は信長の近習をしてたらしいそうですが私も詳しくは知りません。

ご期待に添えず申し訳ない。ただ河村氏が相模国足柄郡河村郷をルーツとする河村氏だとするなら南北朝時代北畠顕家に従い各地を転戦したはずで、子孫が尾張や伊勢にいても不思議ではありません。本家は奥州にいました。

というのも顕家第二次上洛ルートがまさにそれで、青野ケ原合戦勝利後、近江に入らず伊勢、伊賀を通って大和国吉野に入ってますから。それに伊勢は北畠氏が国司として代々支配した土地ですから南朝の残党(楠木党など)は最終的に伊勢に逃れています。

河村氏もその流れで伊勢近辺に落ち着き津島に来たのではないでしょうか?

南朝の支持者には山伏や馬借などの商工業者が多く、南朝の遺臣も夢破れた後はそういう業種についたはず。津島禰宜もルートの一つです。


近辺の豪族を武家家伝などで調べられるのも一つの解明のカギとなるのではないでしょうか?

鳳山様お返事を有難う御座いました。延々と続く歴史の中の一齣に今生きて居るのだと思うと胸が篤くくなります。関が原には明治大正にかけて世田谷の連隊長をしていた母の従兄が居りました。馬に乗って小石川の家によく見えました、坂の上の雲をみて幼い頃を懐かしく感慨深いものが有りました。
其の息子が、日本で一番長い日、の映画の中の井田正孝、でした。雄叫び、の著書を残して、、。
ルーツを辿ると、然もありなんと頷く処があって不思議です。何故神に仕えて森部城に住み武将になぞなったんでしょうか?疑問に思うのです。87

87歳ルビ婆の独り言様、ルーツに思いを馳せるのは今を生きる自分を再確認する意味もあると思います。

御先祖様があって今の自分がいる、悠久の血の流れを大切にしたいですね。

度々のコメントにご親切有難う御座いました。米寿を迎える事が出来たと同時に遠い不思議なご先祖に思いを馳せつつ後生にも恙無く継いで欲しいと念じながら深くお礼申し上げます。

          鳳山様

87歳ルビ婆の独り言様、いえいえこちらもコメントいただいてそれについて調べることが面白いんです。

私の拙い知識だけでは独りよがりになるだけですから皆様の鋭い指摘、こちらこそ勉強させていただいております。

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