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2010年10月 5日 (火)

織田・上杉経済戦争

 前の記事で越後上杉家は青苧(あおそ)その他の交易で莫大な富を得、それをもとに戦国期を生き抜いたという事を書きました。

 謙信の晩年、本国越後のほかに上野半国、越中、能登、加賀を版図に収めざっと150万石の身代になっていた上杉氏。しかし謙信死後景勝が後を継ぐと織田信長の攻勢を受けあっという間に加賀・能登を失い越中も大半を奪われる始末。

 本能寺の変がなければ、越中口、信濃口、上野口の三方から織田軍に攻め込まれ滅亡していたと思います。


 景勝に謙信ほどの器量がなかったと言ってしまえばそれまでですが、それにしても領国瓦解のスピードが速すぎるように思います。

 甲斐武田のように長篠(設楽ヶ原)の合戦のような決戦に敗れて押し切られたというのなら理解できますが、そのような大合戦もなくひたすら城に籠ってそれを各個撃破されていったような印象です。

 まあ景勝家督相続の際の御館の乱で国内がガタガタになっていたのは確かでしょうが、私が想像するにもう一つの理由があったように思えるのです。


 ここからは全くの私の想像で、資料的裏付けがないのでマジレスしないように(笑)。まあ明らかな間違いの時は指摘いただければ修正しますが…。



 私は上杉王国崩壊のスピードが速まったのは、織田家との経済戦争に負けたのではないかと考えています。上杉謙信も交易に力を入れましたが、信長の経済感覚は当時の戦国大名で群を抜いていました。


 信長が足利義昭を奉じて上洛した時、義昭が「功により副将軍の地位を与えよう」というのを断り、「堺・大津・草津を賜りたい」と申し出ている事でもそれは分かります。

 実態のない副将軍より、交通の要衝でここを押さえれば畿内の流通を制することのできる商業拠点を望んだのは信長の経済感覚の鋭さを示しているエピソードだと思います。


 もともと尾張は商業の先進地域でした。農本主義ではなく流通を押さえることで富を得ることができる事を発見した先代信秀の薫陶を受けた彼は、経済の本質を知っていたのかもしれません。


 具体的に信長はどう行動したのか?これは資料がないのであくまで想像なのですが、直接戦えば強敵である上杉軍団を締め上げるには、経済的に追い詰めるしかないと考えていたと思います。


 当時信長は京を中心に日本の3分の1以上を押さえていました。経済圏からいえば半分以上でしょう。上杉の死命を制するには、その経済の根幹である青苧貿易を制限すれば良い。都合のよい事に販路の中心は京都です。


 港の関税に重税を掛け、さらには織田支配下の港に入港禁止をすればどうなります?当時の航海術では越後から織田支配圏の港に一度も寄港せずに遠くへ行く事はかなり難しかったのではないですか?


 これができたのは、青苧からできる越後縮が塩のような生活必需品ではなく贅沢品だったことがあげられます。それに越後縮がなくとも他があるはずです。薩摩上布はさすがになかったかもしれませんが、織田支配下の生産地の保護・育成という目的もあったでしょう。

 保護貿易と上杉を経済的に追い詰める一石二鳥の策を信長はとったのだと思います。



 これを間接的に裏付ける証拠として、信長死後にはなりますが謙信時代には見向きもしなかった出羽庄内地方に景勝の代に積極的に進出している事です。このために庄内地方をほぼ手中に抑えていた最上義光は、上杉軍に叩き出され深い恨みを残しました。庄内地方は2~30万石ある穀倉地帯でたしかに豊かでしたが、貿易で潤っていた謙信時代には、大義名分もなく侵略するような暴挙はしなかったし、その必要性もなかったのです。


 私は上杉の庄内侵攻は、信長の経済制裁で締めあげられアップアップしていた状況を打開する目的があったと睨んでいます。豊臣政権にはなっていましたが、信長によって築きあげられた体制により青苧貿易は以前ほど旨味のある商売ではなくなっていたのではないでしょうか?秀吉もわざわざ育成した領内の産業を制限してまで越後に以前の権益を戻してやるほど愚かなことはしないでしょうから…。

 とばっちりを受けた最上義光は涙目でしたが(爆)。


 皆さんはいかが思われますか? 

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