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2010年11月

2010年11月18日 (木)

薩摩島津一族  後編

 久豊の後は、嫡男忠国が九代を継ぎます。そしてここでまたしても家督を巡る兄弟喧嘩が巻き起こりました。読者のみなさんもうんざりだとお思いでしょうが我慢してお付き合い下さい。

 私だってうんざりしてるんです!(苦笑)


 ことの発端は、1432年に起こった国一揆でした。これは島津氏の領国支配を覆しかねない危機だったと伝えられます。忠国は弟の用久(薩州家の祖)を守護代に任じ一揆鎮圧にあたらせました。

 一揆は用久によって無事に鎮圧されたのですが、そのために用久に人望が集まり忠国は嫉妬します。兄との争いを避けるために領地の出水に引っ込んだ用久でしたが、忠国が自分を追放しようとしたためついに立ち上がります。島津家中は大混乱となり、1448年に兄弟和解するも痛手は後々まで尾を引きました。


 和解後、忠国は弟用久に薩州家を立てさせます。一族最大の実力者だった伊集院家を滅ぼし1470年に没しました。享年68歳。


 家督は嫡男立久が継ぎました。彼の時代は中央で応仁の乱が巻き起こる時でしたが、比較的平穏に過ごせたようです。


 戦国時代に入ると守護大名島津氏の領国支配も陰りが見え始めます。国人勢力の台頭、一族の領地分割による宗家の弱体化でただ鹿児島周辺を治めるだけの地方勢力にまで落ちぶれました。


 代わって台頭してきたのが分家、伊作島津家です。伊作家自体は三代久経の次子、島津久長から始まりますが室町時代に断絶、九代忠国の子島津久逸が継承していました。伊作家は薩摩半島西岸に領地をもちますが、久逸の孫忠良(日新斎)の時、他の島津庶家を抑え鹿児島に入って息子に島津宗家を継承させました。

 
 日新斎の子が有名な貴久、一五代当主です。実は日新斎はあくまで一五代当主になった貴久の後見という立場でした。利発な貴久を当主にすえ自らはそれを支えます。それほど島津家は危機だったのでしょう。


 しかし貴久の宗家継承に不満も持つ有力庶家、薩州家の島津実久は自分に味方する伊集院などの一族を引き連れ反乱をおこします。一時は鹿児島を脱出するほどの劣勢に陥りますが、父日新斎とともに次第に盛り返し、1539年反乱軍との決戦に勝利、ほぼ薩摩統一に成功します。

 貴久は、1550年それまでの本拠だった清水城(鹿児島市)から内城(これも鹿児島市)を築いて本拠を移しました。


 ついで貴久は、肝付氏などの国人勢力に乗っ取られた旧領国大隅へ本格的に進出します。蒲生氏を攻め西大隅を手に入れたところで安心したのか、1566年嫡男義久に家督を譲り隠居しました。

 
 伯囿と号した貴久は、1570年57歳で死去します。


 島津家一六代義久は、自身も有能でしたが兄弟にも恵まれていました。島津四兄弟を祖父の日新斎は
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と評しています。


 義久は、菱刈氏、東郷氏、祁答院氏などを降し1570年薩摩を完全に統一、1574年には大隅で反抗していた肝付氏を降伏させます。

 義久が次に狙うのは日向国でした。大隅平定の前1572年に日向真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と関係が悪化。木崎原の合戦が起こります。このとき島津軍は劣勢でしたが武勇で名高い義久の弟義弘の活躍で大勝利を収めました。


 余勢をかって日向に侵攻、伊東義祐はたまらず領国を捨て豊後の大友宗麟を頼って亡命します。1578年にはその大友宗麟6万の大軍を日向耳川で大破、大友氏に代わって台頭してきた肥前の竜造寺隆信も肥前島原の沖田畷の合戦で撃破しました。


 九州に敵なしの島津軍は、その後竜造寺氏を降し、大友氏を滅ぼすため北九州に攻め入ります。ところが戦は下手でも外交では島津の上を行く大友宗麟は、日の出の勢いだった豊臣秀吉に泣きつきます。


 1587年秀吉は20万ともいわれる大軍を派遣、さしもの島津軍も多勢に無勢。本拠薩摩まで攻め込まれて義久はついに降伏しました。


 剃髪して名を龍伯と改めた義久は川内の泰平寺で秀吉に謁見します。降伏後、薩摩を義久、大隅を義弘の領有とされ島津氏は豊臣政権に組み込まれました。


 その後の島津氏の活躍は皆さんご承知の通り。朝鮮の役泗川の戦いで20倍の明の大軍を撃破、関ヶ原での退き口、巧みな外交を駆使しての本領安堵をへて島津家は薩摩77万石の大大名として江戸期を生き残りました。


 幕末には将軍家御台所(天璋院篤姫)まで出すようになりました。そして維新の主役となり長州藩とともに徳川幕府を倒す原動力となります。




 島津の活躍には驚かされるばかりです。これだけ長い間続きながら時には時代の主役となって活躍するのですから。ただ明治に入り西南戦争が薩摩隼人最後の輝きだったのかもしれません。

 その後薩摩が歴史の主役になることはありませんでしたから。

薩摩島津一族  前編

 鎌倉以来江戸幕末に至るまで家名を保つことは容易ではありません。東の代表が佐竹氏なら西の代表は文句なく薩摩の島津氏でしょう。

 島津氏は鎌倉、南北朝、室町、戦国、織豊期、江戸の各時代を通して有力守護、有力大名として存在します。その生命力には驚嘆するばかりですが、一方「島津に暗君なし」と言われるように、少なくとも時代の要所要所において凡庸な当主が一人も出なかったことは特筆できます。


 島津氏初代忠久は、もと惟宗氏を称していました。近衛家領島津庄(都城を中心に薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大の荘園)の家司でありながら源頼朝の寵遇を受け、鎌倉幕府が成立すると薩摩・大隅・日向三カ国の守護に任じられ、同じく筑前・肥前・豊前守護少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後守護の大友氏とともに九州三人衆と称されました。


 島津氏が薩摩に下向したのは三代久経の時代でした。これは元寇後の九州警備のためで、同じく多くの関東御家人が西国の自分の領地に下向しました。

 しかし、元寇後の動揺を抑えるため九州では三人衆の本国(薩摩、豊後、筑前)を除いて北条得宗家が守護を独占するようになり、権力を奪われた彼らの不満は高まります。


 各地の御家人の不満は、後醍醐天皇の討幕運動を渡りに船として大きな力となっていきます。元寇で大きな被害を受けながら、外国が相手で恩賞の土地を得られなかった御家人たちは窮乏していたのです。


 五代貞久は、1333年他の九州御家人とともに鎮西探題を攻撃、これを滅ぼします。鎌倉幕府滅亡後、恩賞として悲願の大隅・日向守護職を回復した貞久でしたが、その後足利尊氏が反逆すると島津氏も武家方としてこれに従います。

 少弐・大友とともに尊氏の上洛作戦に同行し湊川の勝利に大いに貢献しました。


 ところが、九州に懐良親王が下向しこれを肥後の有力豪族菊池氏が助けるようになると島津氏も国元薩摩に帰ってこれに対抗しなければいけなくなりました。


 島津貞久は、戦乱の中で嫡男宗久を失い次子頼久もまた犠牲にしていました。1363年、死の床にあった貞久は島津氏の基盤を固めるため三男の師久を薩摩守護、四男の氏久を大隅守護とし兄弟協力して難局に当たるよう遺言します。両家はそれぞれの官位から総州家(師久の官位、上総介から)、奥州家(氏久の官位、陸奥守から)と呼ばれます。


 当初は兄弟協力し合って戦乱に立ち向かっていましたが、兄弟の領地が微妙に入り組んでいたのが原因で紛争が絶えませんでした。

 というのも薩摩を貰い、嫡流として守護所碇山城(鹿児島県川内市)を居城とした師久に対し、弟の氏久は大隅のほかに、薩摩の重要拠点ともいうべき東福寺城(鹿児島市)を手放さなかったからです。


 兄弟が南北朝をどのように生き抜いたのかは不明ですが、国外遠征は主に氏久が担当していたようです。

 氏久は、九州を席巻していた懐良親王の征西将軍府に対抗するために幕府が送り込んだ九州探題、今川了俊に従い各地を転戦します。


 ところが1374年事件が起こります。九州南朝主力菊池氏の軍勢を追い詰めた北朝軍は、本拠菊池の玄関口台(うてな)城にこもった敵を撃滅するため、水島に主力を集めます。了俊はここに九州における北朝方をことごとく集めるつもりでしたが、九州探題と利害がぶつかる筑前守護少弐冬資は参陣を渋ります。


 困り果てた了俊は、同じ九州三人衆の一人ということで、島津氏久に依頼して冬資を呼び寄せることにしました。ほかならぬ島津氏久の頼みということでやってきた冬資でしたが、酒宴の席であろうことか了俊は冬資を暗殺してしまったのです。


 これには氏久も烈火のごとく怒りました。面目丸潰れでした。「このような卑怯な大将に従ういわれはない」とさっさと陣払いし、本国へ帰ってしまいました。


 以後氏久は、九州探題と敵対します。了俊の身から出た錆でしたが、これで早期の九州統一は不可能になりました。

 今川了俊は、島津の内紛を誘うため兄師久を懐柔しようとしますが、さすがに島津一族、これを撥ねつけます。内部では争っても外敵には共通であたるという強い決意を持っていたのでしょう。総州家・奥州家の協力関係は師久が死んで子の伊久が継いでも変わりませんでした。

 1376年今川了俊は、島津氏を討伐するため日向に侵入しました。が、氏久は寡兵をもって蓑原の合戦で今川の大軍を撃破(一説では痛み分け、ただ今川軍は損害が大きく撤退したとも?)、領国を守り抜きます。
 
 了俊は氏久の大隅守護を解任、嫡男義範を派遣して大隅国に侵攻させました。氏久は粘り強く抵抗しますが島津氏と旧来から敵対していた国人が今川方に付く状況をみて、ようやく和睦します。


 これで一安心した島津家でしたが、外敵の脅威がなくなると内輪もめをするのは歴史の習いかもしれません。

 1376年、氏久60歳で死去。嫡流総州家は伊久、奥州家は元久が当主となりました。嫡流総州家は当主伊久とその子守久が家督を巡って骨肉相食む争いを始めていました。

 元久はこれを調停すべく奔走しましたが、あろうことか伊久は憎っくき息子に継がせるよりはと、従兄弟の元久に総州家の家督を与えたのです。

 驚くべき親子喧嘩でした。これで嫡流の地位を失った守久は激しく怒り、抗争を激化させます。一方棚ぼたで嫡流を継いだ元久は、室町幕府からも薩摩・大隅両国守護に任じられます。

 泣きっ面に蜂の守久は、戦いに負け出水に引きこもり失意のうちに世を去りました。ただ長生きはしたみたいで1422年元久の弟久豊の子で宗家九代を継いだ忠国に攻められ海路肥前に逃れるという事件もありました。彼がどこで死んだのかは不明ですが、1430年守久の孫久林が忠国の急襲を受け自殺、ここに元嫡流、島津総州家は滅亡しました。


 総州家に代わって嫡流になった奥州家でしたが、元久も1411年陣没し彼の死後またしても家督争いが起こります。元久が後継者に指名していた甥の伊集院熙久を元久の弟(異母弟?)の久豊が追放し家督を継ぎました。


 島津宗家は以後、久豊の系統が続きます。この時代に島津氏の守護領国制はほぼ固まったとされます。幕府は強引な久豊を嫌いましたが、ほかに薩摩・大隅の守護適任者がいなかったので渋々認めた形でした。

 後編では恒例の島津兄弟の争い、その後の宗家の弱体化、伊作島津家の台頭、島津四兄弟の活躍を描きます。

元寇と鎌倉武士と和弓

 元寇について書かれた教科書の記述には、「日本武士の旧来の一騎討ちの戦い方にモンゴル軍は集団戦法で当たったため、このために日本武士は非常に苦戦した」と書かれることが多いと思います。


 しかし調べてみると、モンゴル軍は防備の薄い港町博多にさえ侵入できず敗退しています。ステレオタイプの教科書の記述ははたして正確なのか?と常々疑問に思っていました。


 私は、神風だけが日本を救ったのではなく武士たちの善戦も日本を救った原動力の一つだったのではないかと考えます。


 というのも鎌倉武士は、西洋で言うなら馬に乗った騎士であり弓を主武器としたことから弓騎兵であったと思われるのです。しかも接近戦においては刀があるためこれもかなり有効に戦えました。


 準重装騎兵でありながら弓騎兵の要素ももつ鎌倉武士は、世界史的にみて相当完成された兵科だったと思われます。これはビザンツ帝国のカタフラクトに相通じる思想です。アウトレンジで戦え、さらに接近戦でも強いという理想的な騎兵だったのではないでしょうか。通常世界の弓騎兵は軽装騎兵ですから。


 鎌倉武士が装備した大鎧は、弓射に特化した形状をもっていたことは意外と知られていません。両肩の大袖(おおそで)は、弓を射撃する時にちょうど前に来るようになっており武士を守る盾の役割を果たしました。

 
 しかも武士が使用した和弓は、イングランドのロングボウ(長弓)と同じ複合弓(コンポジットボウ) でかなりの性能を持っていました。さらにロングボウと違い、馬上から射られるように弓の真ん中より下を持って射る方式になっています。和弓は弓を引くとき、弓と弦が作る三角がちょうど黄金比になりました。最大射程400m、有効射程も200mあります。


 ここまで書いてきてモンゴル贔屓の方は、モンゴル軍のほうがトルコ弓なので射程が長いんじゃないかと思われるかもしれません。たしかにトルコ弓は複合弓では最も性能が高く射程600mある物もあります。有効射程で3~400mくらいか?

 しかしそれはもっと後世の話で、元寇時は和弓とそれほど性能の差はなかったように思います。もしトルコ弓が和弓より性能が高かったとしても、海を渡る遠征でモンゴル自慢の騎兵がいなかった元寇では、弓騎兵でありながら白兵戦もこなす鎌倉武士はかなり脅威だったのではないでしょうか?

 しかも当時日本に襲来したモンゴル軍は高麗、宋の降兵がほとんどで戦意は低かったと思います。


 一騎討ち云々で日本軍が弱かったと断じる論者は、歴史を知らないか不当に日本を貶めることで悦に入っている反日左翼なのでしょう。


 当時一騎討ちといっても組み討ちより弓射戦になるケースがほとんどだったのではないでしょうか?手の内も知らない異国の兵と組み討ちしたら阿呆です。流鏑馬を見るまでもなく鎌倉武士は日頃から鍛えている馬上弓の名手。うろ覚えで申し訳ありませんが、たしか追撃してきたモンゴル軍の副司令官を馬上から射殺したのも鎌倉武士じゃなかったですか?


 私は神風が吹かなくても鎌倉武士はモンゴルの侵略を撃退できたし、もっと言うなら神風ではなく鎌倉武士の奮戦によって敵を水際で食い止めたことが一番の勝因だったと考えます。


 皆さんはいかが思われますか?

勘合貿易と寧波の乱

 勘合貿易とは、日本が明に朝貢して貿易許可証である勘合(勘合符)を使用して行う貿易を言います。

 朝貢貿易ですから、いわば日本を明の属国とし明の皇帝は貢物に対し10倍の価値の品を下賜するという建前でしたので、その利益は莫大なものでした。

 室町幕府三代将軍足利義満が始めたものですが、これに対し「日本の誇りを汚すものだ」と反対したのが四代将軍義持と、管領斯波義将でした。事実義持の代には一時勘合貿易が途絶えたくらいです。


 しかし義満と、実際に堺の商人と結託して莫大な利益を上げていた細川氏は勘合貿易推進派でした。一説では独自に朝鮮貿易で巨額の利益を上げていた大内義弘を討ったのも貿易の独占をはかる目的があったといわれています。


 勘合貿易の利益は一体どのくらいあったのでしょうか?資料によると1隻につき純利益が最低1万貫、3隻1セットですから3万貫以上のぼろ儲けになったそうです。


 当初は細川氏が堺商人と結託して勘合船を派遣していましたが、次第により明に近い博多が出港地になっていったそうです。自分の勢力圏近くで莫大な利益を生み出す勘合貿易がなされるのですから、大内氏はこの利権を虎視眈々と狙っていました。


 朝鮮との密貿易でノウハウはあるわけですから、あとは正式な権利=勘合符だけでした。


 大内氏の悲願が達成されるのは、皮肉にも中央政治の混乱でした。明応8年(1500年)中央の政変で京を追われた先の将軍足利義稙が大内氏を頼ってきたのです。


 大内義興は、義稙を擁し中国・北九州の兵二万余騎を従え上洛、再び義稙を将軍職につけます。先の政変は管領細川家の家督争いでもあったのですが、このとき義稙・大内方についた細川高国は管領職は得たものの、勘合貿易の実権を大内氏に奪われてしまいます。

 義稙政権の軍事力を支えていたのは大内軍でしたから、泣き寝入りするしかありませんでした。


 しかし、大内軍は畿内の反抗勢力(前管領細川澄元とその家宰・三好之長勢力)を完全に鎮圧できず、国内でも尼子経久が台頭してきたこともあって畿内経営を諦め、10年足らずで京を去りました。


 雌伏の時を過ごしてきた管領、細川高国は大内氏に奪われた勘合貿易利権を取り戻すため明商人を抱きこみ古くなった勘合符をもってひそかに寧波に勘合船を派遣しました。大内氏に勘合貿易が移って旨味がなくなった堺商人も全面的に協力したと思います。貿易の利を博多商人に奪われた恨みもあったのでしょう。

 寧波では、明商人の工作と買収が功を奏しました。細川船は正式の勘合船である大内船より有利に扱われます。これに怒った大内側は細川方の宿舎を襲います。細川氏の正使を殺し、あろうことか細川方が寧波の役所に逃れたため、ここも襲撃、明の役人を殺害するという暴挙を起こしました。


 これが世にいう寧波(ねいは・ニンポー)の乱です。


 事件は外交問題になり、このために勘合貿易は一時中断しました。再び復活したのは義興の子、義隆の代でしたが、大内氏の滅亡により完全に途絶えてしまいます。


 一連の事件を見て思うのは、欲のために民族としての誇りを蔑にした当然の報いのような気がします。商売の利益だけが先行し、日本人としての誇りを失った現代の財界、政界の連中を見るようです。


 その意味では、足利義持や斯波義将の判断は間違いではなかったのかもしれません。

太田道灌の足軽戦術

 太田資長、号して道灌(1432年~1486年)。関東管領山内(やまのうち)上杉家に対抗した庶流、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰として、弱小の主家を支え相模・武蔵に勢力を広げ嫡流山内上杉家をしのぐ勢力に育て上げた名将です。

 教養が高く山吹の故事で知られる彼ですが、一方戦術家としても独特の足軽戦法を使って旧来の騎馬武者を中心とした他家の軍勢を圧倒しました。


 道灌足軽戦法の実態ですが、実はよく分かっていません。領内に弓射場を設けて兵を鍛えていたという記録から足軽部隊の有力兵器として弓を多用したのは間違いないでしょう。


 足軽そのものを道灌が発明したと誤解している人もいますが、足軽自体は南北朝時代に出現しました。私が想像するに、旧来の浮浪者・遊民などから成っていた足軽と違い、道灌の軍勢は専門兵として領内から徴募した部隊だったのではないかと思います。


 当時の経済力から足軽で大軍を編成することはできませんから、最盛期でも1000名に満たなかったのではないかと想像します。しかし、これらの部隊は日ごろから道灌が鍛えているだけあって機動力に富み、高い士気を保った精鋭部隊だったのでしょう。


 用兵としては地形を利用した奇襲を多用したのではないかと思います。といいますのもいかに精鋭だとしても騎馬武者の機動力にはかなわないからです。しかも関東は名だたる騎馬武者のメッカ。何の障害もない平地での戦闘では、包み込まれて壊滅します。

 おそらく道灌は、足軽をナポレオン戦術における散兵(そのルーツは古代ローマのウェリテスにある)のように使っていたと考えます。



 まず敵軍を地形を利して待ち伏せる。敵が優勢ならやり過ごし、こちらが有利なら先陣を通過させてから側面あるいは背後から弓を一斉射撃して混乱させる。そこへ槍勢が攻めかかり突き崩す、おそらくこのような展開で戦ったのだと思います。


 それまでの一騎討ちの延長のような感覚の敵に対して、足軽の集団による奇襲戦法を使ったのが太田道灌だと言えるかもしれません。足軽戦法は戦国時代が進むにつれて次第に一般化していきます。足軽は騎馬武者の従者ではなく戦いの主力となっていきました。そして鉄砲の出現で足軽が完全に騎馬武者を凌駕するようになります。



 太田道灌の足軽戦術、謎は多いですが弱者が強者を破るにはこの用法しかなかったように思います。皆さんはどう思われますか?

上州長野氏   信玄を苦しめた北関東の雄

 20年ほど前読んだ本ですが、元帝国軍人で戦後経営コンサルタントをされた大橋武夫氏の「統率」(三笠書房 知的生き方文庫)というものがあります。経営を統率という観点から古今の戦史を引いて分かりやすく解説した好著ですが、その冒頭で長野業正(なりまさ)の話が載っています。


 長野業正、戦国史に詳しい方以外一般の人にはほとんど無名の人物ですが、戦国の名将として名高い武田信玄を何度も手玉に取った武将として玄人筋(笑)には有名な人物です。


 弘治3年(1557年)以来、連年のごとく上野(こうずけ、現在の群馬県)に侵攻してきた武田信玄は、ある一人の武将に行く手を阻まれます。上州箕輪城(みのわじょう、現高崎市)主、長野業正です。


 業正は関東管領山内上杉氏の重臣で、斜陽の主家を支え続けます。とくに永禄2年(1559年)の武田の侵攻は西上野が失陥するような危機でしたが、見事に信玄の侵略を撃退しました。


 その様子を、「統率」を参考にしながら見ていきましょう。

 甲信の兵二万を率いた信玄は、上野に入るとまず安中城を攻めるべく鼻高に布陣しました。急報を受けた業正は直ちに手勢を率い若田原で武田軍と対陣します。


 睨み合いが続く中、雨が降り出しました。すると長野軍が武田軍の眼前からふいと消えます。信玄が雨宿りかなと訝る中、大きく迂回した長野軍が背後から襲いかかりました。そしてあっというまに敵陣をかき乱すと風のように去っていきます。

 歯噛みして悔しがった信玄が「業正を手取りにせよ」と箕輪城の周囲の砦に攻めかかりますが、すでにそこは業正が去った後でした。

 ならばと信玄は、箕輪城に直接攻撃を加えます。ところがこれこそ業正の思うつぼで、周囲の砦から湧き出してきた城兵と箕輪城の兵で挟み討ちされた武田軍は、大混乱をきたしほうほうの態で敗走しました。信玄の生涯の中でも珍しいほどの大敗です。


 信玄と業正は六度戦ったといわれていますが、信玄は一度として優勢に立てませんでした。驚くべき小地域戦闘の名手ですが、上州、信州はこのような戦上手を幾人か輩出しています。真田一族などその典型でしょうね。



 業正を生んだ長野氏は、在原業平を祖と称する上野の国人です。一説では物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、当初は石上姓だったとも在庁官人の出身(ウィキペディアより)だったともいわれ定かでありません。

 ただ代々「業」の字を名乗っていることから在原業平の後裔を意識していたのは間違いないでしょう。


 長野氏が当初から関東管領山内上杉家の重臣だったわけではないようです。山内上杉家やその上野守護代長尾氏の内紛を収め、介入していくうちに次第に台頭していったと思われます。


 有名な難攻不落の名城、箕輪城を築いたのは業正の父長野憲業の時代だったようです。以後長野氏は箕輪衆の旗頭として山内上杉家で重きを加え、主君上杉憲政が北条氏に関東を追われ越後に逃亡した後も、一人孤塁を守り続けます。

 業正の戦績は武田氏とのものが有名ですが、北上する北条氏康とも何度か戦い撃退に成功しています。業正が健在の間は、武田、北条は思うように上野を侵略できませんでした。


 しかし、名将業正にも死期が訪れます。永禄4年(1561年)11月22日(異説として6月21日)、病により死亡した業正ですが、死の床に臥した彼は、嫡男業盛(なりもり、氏盛うじもり とも)に
「私が死んでも墓は一里塚くらいのもので十分。法要もいらん。それよりも敵の首を一つでも多く墓前に捧げよ。決して敵に降伏せず、最後まで戦い抜け」と遺言します。


 後を継いだ業盛はこのときまだ14歳の少年だったそうです。それでも父の遺言を守り、父業正の死を隠しながら戦います。


 その後武田信玄は、何度かの西上野侵入を果たします。このとき長野軍の戦術の変化に気づいて業正の死を悟ったそうですから、さすがに信玄でした。


 永禄9年(1566年)、武田信玄は長野氏との対決に決着をつけるべく2万の大軍を率いて碓氷峠を越えました。業盛はかつての大勝利戦の時と同じ、鼻高に布陣して武田軍を迎え撃ちます。

 同じ戦場、同じ敵でしたがあの時とは何かが違っていました。信玄はかつての敗戦をよく研究していたのです。当時苦しめられたのは箕輪城の周囲に張り巡らされていた警戒陣地ともいうべき多くの砦でした。今回武田軍は、まずこれらの砦を攻撃し占領するか破壊してから長野本軍と対峙したのです。

 こうなると多勢に無勢、業盛もよく戦いましたが衆寡敵せず、敗北して箕輪城に逃げ込みました。武田軍はそれを追いかけてすぐさま箕輪城に取り付きます。さしもの難攻不落を誇った箕輪城も、籠城の準備もできないままあっさりと落城しました。

 業盛は炎上する城を枕に自害して果てたそうです。享年19歳。ここに武田信玄の上州攻略に大きく立ちはだかっていた長野氏は滅亡しました。


 これにより上野国は武田、北条、そして上杉憲政の名跡を継いだ越後の上杉謙信の草刈り場になります。


 業盛に父業正ほどの器量があればと惜しまれますが、彼は彼なりに父の遺言をよく守り精いっぱい戦ったのだと思います。上州長野氏、生まれた場所が悪かったとしか言えません。

2010年11月 2日 (火)

仙台伊達藩の財政事情

 一つのことを調べると、その関連に興味が次々と移っていく悪い癖を持つ私。戦国時代そのままの地方知行地制を最後まで残していた佐賀鍋島藩を記事にしたので、東国の雄藩、仙台伊達家はどうだったのかと疑問に思い調べてみることにしました。


 一説では、有名な伊達騒動・原田甲斐の謀反は中世的な地方知行制を近世的な蔵米知行制に切り替えようとした改革の失敗の結果だったのではないかとも言われています。


 仙台藩も佐賀藩に負けず劣らずの一門、重臣が領内各地に割拠しています。ウィキペディアから主なものを拾い上げると

◆一門

 ◇角田石川家(陸奥角田領(要害)2万1380石・筆頭) 

 ◇亘理伊達家(陸奥亘理領(要害)2万3853石・第二席。維新後男爵)伊達成実の子孫

 ◇水沢伊達家(陸奥水沢領(要害)1万6135石・第三席)留守政景の子孫

 ◇涌谷伊達家(陸奥涌谷領(要害)2万2640石・第四席) 

 ◇登米伊達家(陸奥寺池領(要害)2万石・第五席) 

 ◇岩谷堂伊達家(陸奥岩谷堂領(要害)5015石・第六席)

 ◇宮床伊達家(陸奥宮床領(所)8017石・第七席)

 ◇岩出山伊達家(陸奥岩出山領(要害)1万4643石・第八席)

 ◇川崎伊達家(陸奥川崎領(要害)2000石・第九席)

 ◇真坂白河家(陸奥真坂領(所)1043石・第十席)

 ◇前沢三沢家(陸奥前沢領(所)3000石・第十一席)




◆諸侯・一家・準一家・一族など  …全部書くと入りきれないので有名どころだけ

 ◇田村家(陸奥国内1万石(一門)→陸奥岩ヶ崎3万石(諸侯)→陸奥岩沼3万石(岩沼藩))

 ◇白石片倉家(陸奥白石領(城)1万8000石) 片倉景綱の子孫



 その他書ききれないほどいっぱいいます(苦笑)。こりゃ仙台藩も相当財政事情がきつそうですね。

 仙台伊達藩62万石、一説では幕末には実高150万石以上あったとされますが、ここも他藩の例に洩れず莫大な借金を抱え財政は破綻寸前だったそうです。


 参勤交代、幕府のお手伝い普請は外様大名の財力を削ぐための嫌がらせですから、これに仙台藩も苦しめられました。幕府としては目的は十分果たしたのですが、結果論として最後まで幕府に尽くした奥州諸藩の力まで削ぐことになったのは皮肉でした。

 幕府の仮想敵だった薩摩や長州は、同じく大借金に困り果てますがそれぞれ調所広郷、村田清風の藩政改革によって天文学的な借金を清算し、特産品の専売、密貿易(おもに薩摩)などで財を蓄え力をつけましたから何のための大名統制策だったのか分かりません。


 米は相場が変動するため、米に頼りすぎた財政は気候変動などで破綻しやすいものでした。しかも仙台藩をはじめとする奥州諸藩は大飢饉が訪れると農民だけでなく下級武士にも餓死者が出たそうですから、気候的な厳しさもあったのでしょう。

 奥州でも米沢などのように藩政改革の進んだ藩は一次産品だけでなくそれを加工した二次産品を特産・専売し利益を得たそうですが、仙台藩の場合米が取れすぎるためこうした専売品の育成にあまり熱心ではなかったようです。

 仙台藩の専売品は塩、特産品はアワビの干物などだそうですから陶器・漆器・絹織物などの高級布のような利鞘の大きいものはなかったのでしょう。



 米だけで100万石の収穫があったといわれる仙台藩と違って、77万石といわれながらシラス台地で土地が痩せている薩摩藩のほうが、生き残るために米以外の収入を獲得することに熱心だったのかもしれませんね。


 豊かな土地を持っていているのも善し悪しですね。ただ100万石でしかも利鞘の大きい漆器、金象嵌のような特産品を持っていた加賀藩も財政は火の車だったそうですから、なんだかなあって気もします(苦笑)。



 余談ですが、東国では出羽秋田藩が密貿易をしてた疑いがあります。ただしこれは柴田錬三郎の「眠狂四郎」情報ですが(爆)。

佐賀鍋島藩に関する小ネタ2  直茂涙目

 佐賀鍋島藩36万石と呼ばれますが、当時の領内図を見てみるとその面積の半分以上を竜造寺四家が占める異常な状態になってます。というのは鍋島家がもともと竜造寺家の家臣で、竜造寺家当主の高房が不行跡によりお取り潰しになったので、幕府の命で直茂の嫡子勝茂が家督を引き継ぐ形で成立した藩だからです。

 高房の父、政家の時代から豊臣秀吉の命で直茂が軍役代行者(事実上の藩主)でしたから、ここで名実ともに佐賀の領主になったわけです。


 幕府は勝茂家督相続に関して、竜造寺一門の諫早、多久、武雄、須古などを呼んで意見を聞いたそうですから藩成立のいきさつからして遠慮があったのだと思います。


 これら四家を、佐賀藩では親類同格という一種異様な体制で取り込みます。おそらく参勤交代では四家分を足した36万石で勤めなければいけなかったはずで、鍋島家の負担は他の大名以上だったかもしれません。一方取り込まれたほうは軍役もなし(すこしはあったかも?)でウハウハ状態だったと思われます。参勤交代も付いて行ってない様な気がします。

 諫早家などは裕福で有名で、隣国島原半島の領主松倉家の暴政で苦しんでいた領民は心の底から羨んでいたそうです。



 ウィキペディアで調べると


 ◇諫早家(肥前諌早領2万6,201石(物成10,480石)・龍造寺一門)維新後男爵 
      
  龍造寺家晴(龍造寺鑑兼の子)が藩祖。


 ◇多久家(肥前多久領2万1,735石(物成8,694石)・龍造寺一門)維新後男爵

  龍造寺長信(龍造寺隆信の弟)が藩祖。

 
 ◇武雄鍋島家(肥前武雄領2万1,600石(物成8,640石)・龍造寺一門)維新後男爵 

  後藤(龍造寺)家信(龍造寺隆信の子)が藩祖。


 ◇須古鍋島家(肥前須古領8,200石(物成3,300石)・龍造寺一門)

  龍造寺信周(龍造寺隆信の異母弟)が藩祖。


 で、合計8万石ほどが親類同格に持っていかれてます。36-8=28万石が鍋島家の直轄領ですが、さらにここから蓮池、小城、鹿島の三支藩、重臣たちの領地を割かなければいけないんですから、鍋島直茂にとっては、あまり旨味がなかった、というより涙目的展開のような気がします。


 これでは佐賀の化け猫騒動で竜造寺家を乗っ取った恨みがどうこうって言われても、たまったもんじゃないですよ(苦笑)。

佐賀鍋島藩に関する小ネタ

 本日、老父と父の従弟の老夫婦の3人を乗せて、肥前太良町で竹崎蟹のフルコースを食べに行きました。私はただの運転手として駆り出されたのですが、まあテレビでも紹介されてるだけあって美味しかったです(笑)。しかもおごりだし!

 コースは熊本県長洲町からフェリーで有明海を横断して島原半島の北部にある多比良港に上陸、海沿いの道を諫早まで行ってそこから経ヶ岳沿いの道を再び海沿いに北上して太良町着、フルコースを食べて今度はさらに北上して佐賀平野を横断して大川、柳川、大牟田経由で玉名着というものでした。


 このグルメレポートは、まあどうでもいいんですが(苦笑)、途中非常に気になった場所がありました。


 それは島原半島に上陸して間もなく。たしか神代町というところ。町村合併で雲仙市になってると思います。


 海沿いの国道251号線沿いに神代鍋島家屋敷跡の看板が!神代鍋島家???どう見てもここは島原半島、確か佐賀鍋島藩の南限は諫早の諫早(竜造寺)家のはず?


 ちなみに諫早(竜造寺)家は鍋島家の親類同格(旧主竜造寺一族)で、竜造寺鑑兼の子竜造寺家晴が藩祖です。


 余談ですが、竜造寺鑑兼は竜造寺家兼の末子竜造寺家門の子にあたり、反竜造寺隆信の豪族で少弐被官の土橋栄益・高木鑑房・馬場鑑周・神代勝利・小田政光らに1551年担がれて隆信から家督を奪い、一時当主となった人物。


 隆信に反撃され、間もなく追放されますが幼年の傀儡当主として祭り上げられただけということで許されました。ですから竜造寺一族とはいえ微妙な位置にいた家であるのは確か。しかも鑑兼は水ヶ江竜造寺を継いでいるので家晴も水ヶ江家のはず。諫早家は鍋島直茂が後を継いだ方が何かと都合が良かったのでは?と考えています。


 まあそんな話はどうでもいいんですが、ウィキで調べると家老に神代鍋島家(肥前神代領6,263石(物成2,500石)・重臣) というのがあって、これの事かとも考えます。


 普通なら降りて調べに行くのですが、今回は他人の運転手(しかも蟹おごり♪)という立場上それもできず疑問を抱きつつのドライブになりました。


 神代領があのあたりだったとすると島原半島の北部まで鍋島藩領だったんでしょうか?それとも維新後あそこに移り住んだんでしょうか?神代は「くましろ」でなく「こうじろ」と振り仮名をふってあったし、現地の地名も神代(こうじろ)なんで、鍋島藩領だったのかなあ?



追伸:ネットでありました!!!!

天正12年(1584)龍造寺隆信と有馬晴信が島原半島の覇権を争った沖田畷の戦い、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州国割りを経て、神代の地は佐賀領に組み込まれることとなった。
慶長13年(1608)年、神代西村、東村を含む4村が鍋島豊前守信房(神代鍋島家初代)所領となり、明治の版籍奉還まで続く神代領が成立した。

神代鍋島嵩就は、それまで散在していた家臣を集住させるため、城西側を流れる川の流路を変えて外堀と
し内側の深田を埋築し、現在の武家屋敷群が残る小路を造成した。
現在小路地区には、江戸期の区割りがほぼそのまま残り、武家屋敷建築と旧領主館である鍋島邸に代表される明治初期以降の近代和風建築、石垣、生垣、自然林、みのつる川水辺空間などが相まって美しい景観を現在に伝える

城井宇都宮氏余話  「肥後宇都宮氏と木葉宇都宮神社」

 前記事で豊前城井宇都宮氏の興亡を描きました。そして宇都宮朝房が無残にも肥後国で黒田如水の焼討ちにあい殺された事を紹介しました。


 彼の死を悼んだ加藤清正によって丁重に葬られ、奇しくも城井氏所縁の宇都宮神社に合祀されたと紹介しました。


 いつか私も訪れてみようと調べてみたんですが、場所を勘違いしていたようです。私は肥後宇都宮氏の城跡(小森田城)に神社を建てたと思っていたんですが、それとは別みたいです。

 城跡は玉東町役場から木葉山に登る途中(ただし行った事はなし)なんですが、神社はそれよりちょっと西に行ったところでした。おそらく平時の館跡か何かでしょう。場所は分かったのでいつか行きたいですね。



 それにしても宇都宮一族の広がりはすごい。豆知識ですが麻生太郎さんの麻生氏も宇都宮一族ですよ(笑)。松田聖子も筑後宇都宮氏である蒲池氏の子孫ですからね。調べたら有名人で宇都宮一族の子孫が山ほどいそうです。宇都宮雅代はちがうよな?芸名だろうし(爆)。


 ちなみに肥後宇都宮氏は城井宇都宮氏の分かれです。城井宇都宮冬綱の弟、宇都宮隆房が南朝懐良親王に味方して肥後に入ったのが最初だそうです。


 その冬綱自身、本家の下野宇都宮から養子に入ったそうですから宇都宮系図は複雑怪奇で何が何だか分かりません。蒲池氏を出した系統は伊予宇都宮氏でこれも南朝に従って筑後入りしたそうですからややこしいですね。しかも筑後宇都宮氏も豊前宇都宮氏から妻を貰っているからいろいろまじり合ってます(苦笑)。



 肥後宇都宮氏は戦国期には極端に記録が減りますから、滅びていたか没落していたかどちらかでしょう(私が無知なだけかも?)。


 戦国期の城主だった小森田氏は宇都宮とは関係なさそうですし。菊池家の家臣だそうですから。肥後宇都宮氏は佐田氏と名前を変え最後は熊本藩士になったそうです。これがどのように繋がるかは系図が見つからなくて不明。嫡流じゃなさそう。子孫の方ごめんなさい。反論があるなら書き込んでください。って、そもそも子孫が見てる可能性はゼロですが(笑)。





 と散々皆様の興味なさそうな話を書き込んでごめんなさい。せっかく調べたんで書いとかないと忘れそうだったものですから。だんだんこのブログ、自分の日記っぽくなってきたなあ(爆)。

豊前 城井(きのい)宇都宮一族  (後篇)

 秀吉が反抗した薩摩の島津氏を討つべく20万の大軍を動員して九州に入ると、宇都宮鎮房・朝房父子は初め島津方に付いてこれに抵抗します。しかし朝房の正室の父である筑前古処山城主秋月種実が上方のきらびやかな軍に肝を潰し降伏すると、父子もこれに続きその後の九州攻めに従軍します。

 いや父の鎮房は病と称し出陣せず、嫡子朝房のみの参戦でした。


 九州平定がなると、秀吉は城井谷を含む南豊前九郡12万石を黒田孝高(号して如水)に与えます。城井一族は父祖の地を召しあげられ代りに伊予において今治12万石を与えるという命を受けます。あるいは上筑後200町歩という説もあり、どうもこちらの方が正しいのかもしれません。

 伊予今治12万石なら、それを拒否してあれほどまで激しい抵抗をするはずがないからです。


 鎮房はこの申し出を拒否しました。城井一族は豊臣政権に反抗したということで領地を召しあげられ、一族は豊前小倉を賜った毛利勝信(中国の毛利氏とは別)の好意で領内に仮住まいさせてもらいながら機会を待ちます。


 ちょうどそのころ、肥後国で領主佐々成政の無謀な検地に反抗して国人たちが一揆を起こします。世にいう肥後国衆一揆です。成政は独力で一揆を鎮圧できず、秀吉は近隣の諸大名に鎮圧を命じました。


 豊前中津でも黒田如水が手勢を率いて出陣します。機会到来とばかり、止める毛利勝信の好意を謝して退出した城井一党は、わずかな守備兵しか残っていなかったかつての居城大平城を奪い返すとそこに籠城します。

 城井一族とてむろん勝てるとは思っていなかったでしょう。しかし武士の意地を貫きとおすための挙兵だったと思います。


 急報を受けた如水は、秀吉に報告し領地に帰って一揆を鎮圧する事になりました。というのも城井一族の蜂起をうけて、それまで冷遇されていた反豊臣分子が豊前全土で立ち上がったからです。


 如水は、毛利勝信、毛利輝元らの援軍を受け各地の一揆を鎮圧しました。しかし最後に残った大平城は名うての堅城、如水は大平城攻撃を躊躇します。

 ところが血気にはやった嫡子長政は、父の止めるのも聞かず飛びだし大平城に向かいます。が、地理に暗かったため、城井勢に城の近くまで引き込まれ伏兵を受け潰走します。このとき長政はあまりの恥辱に自害まで考えたそうです。


 これをとどめた如水は、戦略を変え持久戦に持ち込みます。兵糧攻めにあった大平城には次第に飢餓が訪れました。その時を待っていた黒田如水は、鎮房に和睦を持ちかけました。


 長政の嫁に13歳の鎮房の娘、鶴姫を迎える条件で開城を求めたのです。ひとまずの仮の講和でしたが、如水の警戒は解かれる事はありませんでした。


 天正16年(1588年)、再び如水はいまだ治まらない肥後の一揆鎮圧に加勢するため出陣します。このとき鎮房の嫡男朝房をわざわざ同行させたのには理由がありました。


 如水出陣からまもなくして、大平城に娘婿長政から中津城への招待状が届きます。「可愛い娘に会われませんか?」という内容でしたが、家中は罠だとして中津城訪問に反対しました。


 長政が「城井家の身の立つよう太閤殿下にお願いしてあるから、その挨拶に…」と執拗に誘ったため、罠と知りつつも鎮房は家臣四十名を引き連れて中津城に赴きました。


 長政は、鎮房と近親だけを城内に入れ他は郊外の寺で待機させました。長政は表向きは丁重に迎え饗応します。しかし宴たけなわの時
「誰か珍しき肴(さかな)を」
と言葉を発しました。それを合図に待ち構えていた黒田家臣たちが襖を開け斬りかかりました。

 鎮房は激しく抵抗したそうですが、多勢に無勢最後は後藤又兵衛の槍で息の根を止められました。


 間髪いれず、寺にいた城井家臣たちにも討手が向けられことごとく討ち果たされます。これこそ如水が出陣に際して息子長政に授けていた策でした。


 一つにまとまれば頑強に抵抗する鎮房、朝房父子を分けて別々に討ちとろうというのです。


 報告はすぐさま肥後にいた如水のもとに届けられました。如水は、朝房の宿舎を夜中に囲むと火をつけて一気に焼き殺します。翌朝、あまりの惨状に驚いた加藤清正が無残に焼け爛れた朝房主従の遺体を丁重に葬り、地元の神社に祀ったそうです。奇しくもそこは肥後木葉(現熊本県玉東町)。かつての肥後宇都宮氏の所領でした。神社は宇都宮神社といいます。


 城井一族の悲劇はなおも続きました。長政は軍を発して主のいなくなった大平城を襲い、一族郎党ことごとくを惨殺します。そして13歳の妻、鶴姫さえ侍女とともに磔にするという惨たらしさでした。


 騙し騙されるのが戦国の習いとはいえ、あまりにも後味の悪い事件でした。一揆鎮圧の大義名分があるにしても他にやりようがなかったのか後世の我々は考えてしまいます。


 この事件は黒田如水生涯の汚点となります。そして城井一族惨殺を後悔したのか、黒田家はその後怨霊に悩まされるようになるのです。如水は中津城内に鎮房を祀る城井神社を建て、平伏して罪をわびたそうですが、手遅れでした。

 城井神社は黒田家が筑前転封になった時も福岡城に移されたそうですから、よほど気にしていたのでしょう。直接の祟りは実行犯の長政に向ったそうですが、小早川秀秋みたいに発狂しなくて幸いでした。


 戦場で裏切った秀秋よりこっちの方がよほど残酷でしたが…。精神的には長政の方がはるかにタフだったのかもしれません。


 ところで一族皆殺しにあった城井宇都宮一族のうち、朝房の若妻竜姫だけが実家の筑前秋月家に逃れました。彼女は身籠っており生まれた子供は宇都宮朝末(ともすえ)と名乗ります。祖父の秋月種実に引き取られ、その後子孫は越前松平家に仕え700石を拝領、家系を残したと伝えられています。

豊前 城井(きのい)宇都宮一族  (前篇)

 栃木県県庁所在地の宇都宮市。その語源は日光二荒山神社を当地に勧請して「現の宮」、「遷しの宮」と称したことから始まったとも、二荒山神社の別号「「宇津宮大明神(宇都宮大明神)」に由来するとも言われています。


 藤原氏と称する一族が二荒山別当、宇都宮二荒山神社座主に任じられ、その地名を取って宇都宮氏を名乗りました。神社の大宮司家が武士団化するのは諏訪、阿蘇など枚挙にいとまありませんが、宇都宮氏も同じケースでした。

 宇都宮氏初代、藤原宗円は平安時代末期の人で、前九年の役の戦功で二荒山神社座主の地位を得たと伝えられます。


 また宇都宮氏は、日本全土に一族が分布する事でも有名です。ちょっと調べれば皆さんの住んでるところにも宇都宮氏の痕跡を発見することができるはずです。


 宗家の下野(栃木県)宇都宮氏のほかに、豊前宇都宮氏(城井氏)、筑後宇都宮氏(蒲池氏)、伊予宇都宮氏などが有力支族です。


 今回紹介する豊前宇都宮氏は、鎌倉時代に宗円の次子、伊豆守宗房が豊前国中津郡城井郷(福岡県みやこ町)に地頭職として赴任したことが始まりとされ、土地の名前を取って城井宇都宮氏と称します。

 宗円が前九年の役、宗房が鎌倉初期でかなり時代が合わないような気がしますが、家系伝説がそうなっている以上仕方ありません。

 宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人でしたから、宗房の子信房などは豊前守護に任じられています。


 城井宇都宮氏は、調べてみると宗家に次ぐ家格を保っていたようで何度か本家下野宇都宮家の家督争いの裁定をした記録が残っています。

 15代正房の時、下野宇都宮氏の家督相続について嫡子長房を赴かせて解決にあたらせているそうですし、その際本家の養嗣子を豊前に迎えて養育し、成人まで養育し再び下野に帰すなどしています。また伊予宇都宮家に後継ぎがいないときは、豊前宇都宮家から子供を送って後継ぎにしています。


 この宇都宮一族の団結力には驚かされます。城井宇都宮家でも、山田、野中、深水、那須など多くの支流が発祥し豊前各地に散りました。


 その本拠城井谷は、霊峰求菩提(くぼて)山、国見山、寒田の峰に囲まれた渓谷で、13代興房が築いた大平城は難攻不落の城塞として近隣に鳴り響いていました。



 戦国時代に入ると、大内、大友、竜造寺の侵攻を受けますが時には大内に、時には大友に属しながら豊前中部を中心に一族結束して本領を守り抜きました。


 城井宇都宮氏はこのまま伝統を受け継ぎ、消長を繰り返しながらも生き残り続けるかに思えました。が、その運命を大きく変えたのは豊臣秀吉による九州征伐とその後の論功行賞でした。



 後編では、城井宇都宮鎮房の苦悩、一族を襲った惨劇、滅亡を描きます。

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