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2010年11月18日 (木)

勘合貿易と寧波の乱

 勘合貿易とは、日本が明に朝貢して貿易許可証である勘合(勘合符)を使用して行う貿易を言います。

 朝貢貿易ですから、いわば日本を明の属国とし明の皇帝は貢物に対し10倍の価値の品を下賜するという建前でしたので、その利益は莫大なものでした。

 室町幕府三代将軍足利義満が始めたものですが、これに対し「日本の誇りを汚すものだ」と反対したのが四代将軍義持と、管領斯波義将でした。事実義持の代には一時勘合貿易が途絶えたくらいです。


 しかし義満と、実際に堺の商人と結託して莫大な利益を上げていた細川氏は勘合貿易推進派でした。一説では独自に朝鮮貿易で巨額の利益を上げていた大内義弘を討ったのも貿易の独占をはかる目的があったといわれています。


 勘合貿易の利益は一体どのくらいあったのでしょうか?資料によると1隻につき純利益が最低1万貫、3隻1セットですから3万貫以上のぼろ儲けになったそうです。


 当初は細川氏が堺商人と結託して勘合船を派遣していましたが、次第により明に近い博多が出港地になっていったそうです。自分の勢力圏近くで莫大な利益を生み出す勘合貿易がなされるのですから、大内氏はこの利権を虎視眈々と狙っていました。


 朝鮮との密貿易でノウハウはあるわけですから、あとは正式な権利=勘合符だけでした。


 大内氏の悲願が達成されるのは、皮肉にも中央政治の混乱でした。明応8年(1500年)中央の政変で京を追われた先の将軍足利義稙が大内氏を頼ってきたのです。


 大内義興は、義稙を擁し中国・北九州の兵二万余騎を従え上洛、再び義稙を将軍職につけます。先の政変は管領細川家の家督争いでもあったのですが、このとき義稙・大内方についた細川高国は管領職は得たものの、勘合貿易の実権を大内氏に奪われてしまいます。

 義稙政権の軍事力を支えていたのは大内軍でしたから、泣き寝入りするしかありませんでした。


 しかし、大内軍は畿内の反抗勢力(前管領細川澄元とその家宰・三好之長勢力)を完全に鎮圧できず、国内でも尼子経久が台頭してきたこともあって畿内経営を諦め、10年足らずで京を去りました。


 雌伏の時を過ごしてきた管領、細川高国は大内氏に奪われた勘合貿易利権を取り戻すため明商人を抱きこみ古くなった勘合符をもってひそかに寧波に勘合船を派遣しました。大内氏に勘合貿易が移って旨味がなくなった堺商人も全面的に協力したと思います。貿易の利を博多商人に奪われた恨みもあったのでしょう。

 寧波では、明商人の工作と買収が功を奏しました。細川船は正式の勘合船である大内船より有利に扱われます。これに怒った大内側は細川方の宿舎を襲います。細川氏の正使を殺し、あろうことか細川方が寧波の役所に逃れたため、ここも襲撃、明の役人を殺害するという暴挙を起こしました。


 これが世にいう寧波(ねいは・ニンポー)の乱です。


 事件は外交問題になり、このために勘合貿易は一時中断しました。再び復活したのは義興の子、義隆の代でしたが、大内氏の滅亡により完全に途絶えてしまいます。


 一連の事件を見て思うのは、欲のために民族としての誇りを蔑にした当然の報いのような気がします。商売の利益だけが先行し、日本人としての誇りを失った現代の財界、政界の連中を見るようです。


 その意味では、足利義持や斯波義将の判断は間違いではなかったのかもしれません。

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