2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 薩摩島津一族  前編 | トップページ | 粛慎(しゅくしん)の謎 »

2010年11月18日 (木)

薩摩島津一族  後編

 久豊の後は、嫡男忠国が九代を継ぎます。そしてここでまたしても家督を巡る兄弟喧嘩が巻き起こりました。読者のみなさんもうんざりだとお思いでしょうが我慢してお付き合い下さい。

 私だってうんざりしてるんです!(苦笑)


 ことの発端は、1432年に起こった国一揆でした。これは島津氏の領国支配を覆しかねない危機だったと伝えられます。忠国は弟の用久(薩州家の祖)を守護代に任じ一揆鎮圧にあたらせました。

 一揆は用久によって無事に鎮圧されたのですが、そのために用久に人望が集まり忠国は嫉妬します。兄との争いを避けるために領地の出水に引っ込んだ用久でしたが、忠国が自分を追放しようとしたためついに立ち上がります。島津家中は大混乱となり、1448年に兄弟和解するも痛手は後々まで尾を引きました。


 和解後、忠国は弟用久に薩州家を立てさせます。一族最大の実力者だった伊集院家を滅ぼし1470年に没しました。享年68歳。


 家督は嫡男立久が継ぎました。彼の時代は中央で応仁の乱が巻き起こる時でしたが、比較的平穏に過ごせたようです。


 戦国時代に入ると守護大名島津氏の領国支配も陰りが見え始めます。国人勢力の台頭、一族の領地分割による宗家の弱体化でただ鹿児島周辺を治めるだけの地方勢力にまで落ちぶれました。


 代わって台頭してきたのが分家、伊作島津家です。伊作家自体は三代久経の次子、島津久長から始まりますが室町時代に断絶、九代忠国の子島津久逸が継承していました。伊作家は薩摩半島西岸に領地をもちますが、久逸の孫忠良(日新斎)の時、他の島津庶家を抑え鹿児島に入って息子に島津宗家を継承させました。

 
 日新斎の子が有名な貴久、一五代当主です。実は日新斎はあくまで一五代当主になった貴久の後見という立場でした。利発な貴久を当主にすえ自らはそれを支えます。それほど島津家は危機だったのでしょう。


 しかし貴久の宗家継承に不満も持つ有力庶家、薩州家の島津実久は自分に味方する伊集院などの一族を引き連れ反乱をおこします。一時は鹿児島を脱出するほどの劣勢に陥りますが、父日新斎とともに次第に盛り返し、1539年反乱軍との決戦に勝利、ほぼ薩摩統一に成功します。

 貴久は、1550年それまでの本拠だった清水城(鹿児島市)から内城(これも鹿児島市)を築いて本拠を移しました。


 ついで貴久は、肝付氏などの国人勢力に乗っ取られた旧領国大隅へ本格的に進出します。蒲生氏を攻め西大隅を手に入れたところで安心したのか、1566年嫡男義久に家督を譲り隠居しました。

 
 伯囿と号した貴久は、1570年57歳で死去します。


 島津家一六代義久は、自身も有能でしたが兄弟にも恵まれていました。島津四兄弟を祖父の日新斎は
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と評しています。


 義久は、菱刈氏、東郷氏、祁答院氏などを降し1570年薩摩を完全に統一、1574年には大隅で反抗していた肝付氏を降伏させます。

 義久が次に狙うのは日向国でした。大隅平定の前1572年に日向真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と関係が悪化。木崎原の合戦が起こります。このとき島津軍は劣勢でしたが武勇で名高い義久の弟義弘の活躍で大勝利を収めました。


 余勢をかって日向に侵攻、伊東義祐はたまらず領国を捨て豊後の大友宗麟を頼って亡命します。1578年にはその大友宗麟6万の大軍を日向耳川で大破、大友氏に代わって台頭してきた肥前の竜造寺隆信も肥前島原の沖田畷の合戦で撃破しました。


 九州に敵なしの島津軍は、その後竜造寺氏を降し、大友氏を滅ぼすため北九州に攻め入ります。ところが戦は下手でも外交では島津の上を行く大友宗麟は、日の出の勢いだった豊臣秀吉に泣きつきます。


 1587年秀吉は20万ともいわれる大軍を派遣、さしもの島津軍も多勢に無勢。本拠薩摩まで攻め込まれて義久はついに降伏しました。


 剃髪して名を龍伯と改めた義久は川内の泰平寺で秀吉に謁見します。降伏後、薩摩を義久、大隅を義弘の領有とされ島津氏は豊臣政権に組み込まれました。


 その後の島津氏の活躍は皆さんご承知の通り。朝鮮の役泗川の戦いで20倍の明の大軍を撃破、関ヶ原での退き口、巧みな外交を駆使しての本領安堵をへて島津家は薩摩77万石の大大名として江戸期を生き残りました。


 幕末には将軍家御台所(天璋院篤姫)まで出すようになりました。そして維新の主役となり長州藩とともに徳川幕府を倒す原動力となります。




 島津の活躍には驚かされるばかりです。これだけ長い間続きながら時には時代の主役となって活躍するのですから。ただ明治に入り西南戦争が薩摩隼人最後の輝きだったのかもしれません。

 その後薩摩が歴史の主役になることはありませんでしたから。

« 薩摩島津一族  前編 | トップページ | 粛慎(しゅくしん)の謎 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 薩摩島津一族  後編:

« 薩摩島津一族  前編 | トップページ | 粛慎(しゅくしん)の謎 »