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2010年11月18日 (木)

上州長野氏   信玄を苦しめた北関東の雄

 20年ほど前読んだ本ですが、元帝国軍人で戦後経営コンサルタントをされた大橋武夫氏の「統率」(三笠書房 知的生き方文庫)というものがあります。経営を統率という観点から古今の戦史を引いて分かりやすく解説した好著ですが、その冒頭で長野業正(なりまさ)の話が載っています。


 長野業正、戦国史に詳しい方以外一般の人にはほとんど無名の人物ですが、戦国の名将として名高い武田信玄を何度も手玉に取った武将として玄人筋(笑)には有名な人物です。


 弘治3年(1557年)以来、連年のごとく上野(こうずけ、現在の群馬県)に侵攻してきた武田信玄は、ある一人の武将に行く手を阻まれます。上州箕輪城(みのわじょう、現高崎市)主、長野業正です。


 業正は関東管領山内上杉氏の重臣で、斜陽の主家を支え続けます。とくに永禄2年(1559年)の武田の侵攻は西上野が失陥するような危機でしたが、見事に信玄の侵略を撃退しました。


 その様子を、「統率」を参考にしながら見ていきましょう。

 甲信の兵二万を率いた信玄は、上野に入るとまず安中城を攻めるべく鼻高に布陣しました。急報を受けた業正は直ちに手勢を率い若田原で武田軍と対陣します。


 睨み合いが続く中、雨が降り出しました。すると長野軍が武田軍の眼前からふいと消えます。信玄が雨宿りかなと訝る中、大きく迂回した長野軍が背後から襲いかかりました。そしてあっというまに敵陣をかき乱すと風のように去っていきます。

 歯噛みして悔しがった信玄が「業正を手取りにせよ」と箕輪城の周囲の砦に攻めかかりますが、すでにそこは業正が去った後でした。

 ならばと信玄は、箕輪城に直接攻撃を加えます。ところがこれこそ業正の思うつぼで、周囲の砦から湧き出してきた城兵と箕輪城の兵で挟み討ちされた武田軍は、大混乱をきたしほうほうの態で敗走しました。信玄の生涯の中でも珍しいほどの大敗です。


 信玄と業正は六度戦ったといわれていますが、信玄は一度として優勢に立てませんでした。驚くべき小地域戦闘の名手ですが、上州、信州はこのような戦上手を幾人か輩出しています。真田一族などその典型でしょうね。



 業正を生んだ長野氏は、在原業平を祖と称する上野の国人です。一説では物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、当初は石上姓だったとも在庁官人の出身(ウィキペディアより)だったともいわれ定かでありません。

 ただ代々「業」の字を名乗っていることから在原業平の後裔を意識していたのは間違いないでしょう。


 長野氏が当初から関東管領山内上杉家の重臣だったわけではないようです。山内上杉家やその上野守護代長尾氏の内紛を収め、介入していくうちに次第に台頭していったと思われます。


 有名な難攻不落の名城、箕輪城を築いたのは業正の父長野憲業の時代だったようです。以後長野氏は箕輪衆の旗頭として山内上杉家で重きを加え、主君上杉憲政が北条氏に関東を追われ越後に逃亡した後も、一人孤塁を守り続けます。

 業正の戦績は武田氏とのものが有名ですが、北上する北条氏康とも何度か戦い撃退に成功しています。業正が健在の間は、武田、北条は思うように上野を侵略できませんでした。


 しかし、名将業正にも死期が訪れます。永禄4年(1561年)11月22日(異説として6月21日)、病により死亡した業正ですが、死の床に臥した彼は、嫡男業盛(なりもり、氏盛うじもり とも)に
「私が死んでも墓は一里塚くらいのもので十分。法要もいらん。それよりも敵の首を一つでも多く墓前に捧げよ。決して敵に降伏せず、最後まで戦い抜け」と遺言します。


 後を継いだ業盛はこのときまだ14歳の少年だったそうです。それでも父の遺言を守り、父業正の死を隠しながら戦います。


 その後武田信玄は、何度かの西上野侵入を果たします。このとき長野軍の戦術の変化に気づいて業正の死を悟ったそうですから、さすがに信玄でした。


 永禄9年(1566年)、武田信玄は長野氏との対決に決着をつけるべく2万の大軍を率いて碓氷峠を越えました。業盛はかつての大勝利戦の時と同じ、鼻高に布陣して武田軍を迎え撃ちます。

 同じ戦場、同じ敵でしたがあの時とは何かが違っていました。信玄はかつての敗戦をよく研究していたのです。当時苦しめられたのは箕輪城の周囲に張り巡らされていた警戒陣地ともいうべき多くの砦でした。今回武田軍は、まずこれらの砦を攻撃し占領するか破壊してから長野本軍と対峙したのです。

 こうなると多勢に無勢、業盛もよく戦いましたが衆寡敵せず、敗北して箕輪城に逃げ込みました。武田軍はそれを追いかけてすぐさま箕輪城に取り付きます。さしもの難攻不落を誇った箕輪城も、籠城の準備もできないままあっさりと落城しました。

 業盛は炎上する城を枕に自害して果てたそうです。享年19歳。ここに武田信玄の上州攻略に大きく立ちはだかっていた長野氏は滅亡しました。


 これにより上野国は武田、北条、そして上杉憲政の名跡を継いだ越後の上杉謙信の草刈り場になります。


 業盛に父業正ほどの器量があればと惜しまれますが、彼は彼なりに父の遺言をよく守り精いっぱい戦ったのだと思います。上州長野氏、生まれた場所が悪かったとしか言えません。

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コメント

[上杉謙信家臣団]

<他国衆>

長野業成 長野業盛
上泉信綱(長野家家臣)

※山内上杉家を継いだ上杉謙信に下り、共に北条の小田原攻めを行う。

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